翌日、瑠璃は河川敷に姿を見せなかったものの、学校には普通に登校してきた。制服にカーディガン姿の彼女とパジャマ姿の彼女を重ね、昨夜は本当に特別な時間だった、と蒼は思う。


 蒼のスマホから通知音が聞こえた。まだ始業まで時間があったからスマホの電源は入れてある。開いてみると瑠璃からだった。


〔おはよう〕


 それだけだったが、もう十二分だと思う。蒼は返信せず、ただ視線だけ彼女に向けた。すぐに目が合い、その直後、2人とも露骨にそらした。


 さらにその次の朝は体調が回復したからか、河川敷に瑠璃が戻ってきた。いつもより着込んでいるのは用心なのだろう。蒼はベンチに腰掛けてギターの練習を始めていたが、瑠璃は目の前に立ち、胸を張って言った。


「今朝は元旦に言ったとおり、気がついたことを言おうと思います。ギターだけ練習していても弾き語りはうまくなりません。歌を練習しましょう」


「なんで丁寧語なの。声色も違う」


「今日は先生のつもりで来たから」


「坂本さんのことだから、歌はしっかり勉強しているに違いないと思うので、今日はそれでいいです」


「よろしい」


 キャラを作るのはさすがオタクっぽいな、と蒼は密かに思う。


「じゃあ、まずはギターを下ろして立とうか」


 瑠璃は思ったより素に戻るのが早い。


「やっぱり胸式呼吸だね。腹式呼吸してみて」


「え、こう?」


 お腹を膨らませるようにして呼吸してみる。瑠璃が蒼の脇腹に手を当てて何かを確認した後、首を横に振る。2人の距離が近くなった――どころか、瑠璃の白い手が身体に触れ、ドギマギせざるを得ない。距離ゼロの衝撃だ。瑠璃の方は意識していないだろうからもっともタチが悪い。


「お腹の表面を動かすんじゃなくて横隔膜で肺を動かすイメージで」


 お腹と脇腹と脇腹に近い方の背中が膨らんだのがわかった。


「なるほど」


「実際にお手本のお腹を見せてあげたいけど……まあ、自分がお手本になると思いたいけど、それは病み上がりなので許して」


 彼女のウェスト周りを直に見てしまったら、平静を保てる自信がない、と蒼は思いつつ、二度頷いた。


「これを無理せず継続できるようになるのは難しそうだ」


「実際難しいけど、毎日やっていればできるようになる。最初は筋トレだと思ってやるといいと思う。腹式呼吸で歌うと身体の喉周りに余分な力がかからないから喉に息を通しやすいし、息の量も多くなるから楽できる……で、合っているのかな。諸説有ります。私もまだまだ勉強中なので」


「コードを押さえる左手を意識して、ストロークする右手を意識して、コード譜見て歌詞見て、テンポ確認して、腹式呼吸して発声して、ということで、大忙しだね」


「ミュージシャンはみんなやっているってこと」


 瑠璃が真面目な顔をして蒼を見据えた。


「教えてくれるのは嬉しいけどね」


「細野くんにはうまくなって欲しいから」


 坂本さんは右の拳を固める。本当に美少女ときどき男前だ、と思う。


「僕が上手になったら、駅前で一緒にストリートライブっぽいことでもする?」


「そのアイデアいいね。私もそれ、考えてた。当面の目標にしよう!」


 蒼自身はそんなことを今まで考えたこともなかった。ただ、うまくなって欲しいと瑠璃に言われて頭に浮かんだのが、彼女と自分とで歌いながら道行く人に見られているイメージだった。だから口にしただけだ。


「本気?」


「細野くんにはうまくなって欲しいから。それが私の、今の結論。このところ、考え続けていたんだ。おととい熱が出たのも、知恵熱なんじゃないかと今は思うくらいだよ」


「そんなバカな」


 瑠璃は笑った。


「細野くんが学校でギターやってるってオープンにしたら、同時に私もアニソンを歌いたいことをオープンにできると思う」


 オタクのカミングアウトは彼女にとって大きな決断だろう。


「やっぱりアニソンなんだ?」


「それだけじゃないけどね。がんばろうか。あと、何かしながらでいいから、腹式呼吸は1日最低10分やること」


「厳しい先生だ」


「女教師コスプレとか似合うかな」


 瑠璃はエア眼鏡をあげて見せた。


「似合うとは思うけどやらなくていい。コスプレしてもらわなくても、それが君の望みなら、がんばれるから」


 瑠璃が小さく息をのんだ。


「どうしてそういうこと、さらっと言えるかな」


「本心だから。無理して隠す必要ないでしょう」


 瑠璃が蒼の背中を思いきり叩いた。厚着していても痛いくらいだ。


「猫背になってる! 猫背は歌だけじゃなくて健康にもよくない!」


「うわ、ガチで叩いた!」


 蒼は笑いながら瑠璃から離れる。

 瑠璃と蒼は正面から向かい合い、互いが口を開くのを窺った。


「本当に人前で演奏してみる?」


 先に口を開いたのは蒼だった。蒼は叩かれた後、腹式呼吸を忘れてしまっていたので慌てて再開する。


「やろうよ、絶対!」


 瑠璃は拳を突き上げ、蒼も彼女に習い、白み始めている空に拳を作って突き出した。


「約束――だ!」


 こんな風に何かをやろうと決心したのは、蒼の人生で初めてのことだ。


 その日も2人は普通に別々に登校して、教室で一緒になり、朝の挨拶だけかわして、それぞれ別のエリアで過ごす。だが、蒼は気がついたことがある。瑠璃はクラスメイトに囲まれているときも、意識して腹式呼吸を維持していた。だから蒼も授業中に疲れない程度に腹式呼吸を練習し始めた。授業と並行してできることだ。瑠璃の方を見るとときおり、目が合った。その目は女教師のそれで、やってるね、といっているように見えて、蒼はおかしくなり、ちょっとだけ、笑った。

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