彼女――坂本瑠璃さかもと るりは2学期の始めに蒼のクラスに転校してきた帰国子女で、「ちょっと何かが違う」美少女だった。クラス内の美白に注力しているどの女子よりも色白で、肩甲骨の下あたりまで伸ばした黒髪は理想的なサラサラの艶髪、小顔で大きな切れ長の瞳、鼻も唇もバランスよく、手足がすらりとして長く、ウェストも信じがたいほど細い、誰もが二度見してしまう、そんな美少女だ。妖精のような、という比喩表現がぴったりで、当然のように校内で転校生は噂の的になり、ほかのクラスはもちろん、他校の生徒まで見に来てしまうほどの騒ぎになった。


 見た目だけでなく、成績も運動神経もよく、授業中でも滑舌よくかつ積極的なので、教師からも好かれていた。


 当然、すぐにクラスの中心人物になったが、特定の親しい友人は作らず、この3ヶ月余りの間、どこか皆から平等に距離を置き、つつがなく学校生活を送っているように、蒼からは見えていた。


 蒼と瑠璃が話したことは数えるほどしかない。文化祭の準備のときだっただろうか。クラスの中心人物になった彼女と、影の薄い蒼とではそのとき以来、まるで接点がなかった。それでも彼女の方は蒼のことを覚えていたようだった。


 いつも通り、蒼は30分ほどで練習を終えた。瑠璃も同じような時間に発声練習をやめた。蒼がギターをギグバッグに入れているとき、瑠璃が詰った。


「下手くそ。こっちの練習の邪魔」


「まだ初心者なんだから仕方ないだろ。ここが君専用の練習場所って訳でもないし」


 反撃されるとは思っていなかったのか、瑠璃は少し困ったような戸惑ったような顔をした後、すぐに表情を変え、また、ニッと笑った。


「でも、細野蒼くん、ここだと学校でのモブ感はなくて、いいね」


 今度の笑みはわざとらしくなかった。


「わあ、僕の名前知ってたんだ? それもフルネーム」


「転校生としてはクラスになじむためにはそれ相応の努力が必要でしょ」


「そりゃお疲れ様」坂本さんほどの美人ならそんな努力は……と続けそうになったが、やめた。「もうここで会うことはそうないだろうから、名前を覚えていてもあんまり意味ないんじゃないかな」


「さあ、どうだか」


 実際に肩をすくめたわけではないのだが、蒼には彼女がそうしたように見えた。


「いや、つきまとわれるのは嫌だろうから意図して避けるよ。でも、こんな天気が悪い日は許して欲しい」


 実際、学校にはファンクラブだったか、親衛隊だったかがあるし、紳士協定が強硬発効されていると聞いていた。それでもまだ、大勢の男子が玉砕しているとも聞いていた。だから、男子につきまとわれるのはうんざりしているだろう、そう蒼は考えた。


「おお、紳士だ」


 瑠璃は率直な言葉を口にしたように思われた。


「そうじゃない。君が言ったとおり、モブにはモブの立ち位置があるってだけ」


「でも今の細野くんはモブじゃなくない?」


「だけど主人公でもない」


「自分の人生なのに? 私はそんなのイヤだな」


「わからないな。そもそも主人公を演じる必要があるのかどうか……」


「確かに演じる必要はないかも」


 瑠璃は小さく頷いた。意外と人の話を聞くのだな、と蒼は感心した。


「降りが強くなる前に帰るよ」


 蒼は灰色の空を見た。雪はしっかりと降り続けている。


「私もそうする。じゃあ、学校でね」


「お互い、他言無用で」


 瑠璃はまた笑い、小さく手を振り、口を開いた。


 そのタイミングでまた電車が橋の上を通って瑠璃の返事はかき消された。彼女は傘を開き、立ち去った。蒼もまた、こんなこともあるのかと思いつつ、ギグバッグを背負って鉄道橋の下を後にした。


 そして普通に中学校に行き、教室で瑠璃に会ったが、普通に「おはよう」とだけ互いに挨拶をしただけだった。彼女と蒼は、同じ教室にいても接点はまるでない。ただ一緒に授業を受けるだけだ。そして休み時間にはクラスメイトに囲まれている瑠璃を蒼は横目で見るだけだった。彼女がクラスメイトとどんな話をしているのかと、少しだけ気になったが、蒼は彼のポジションの中で教室にいる時間を過ごした。


 帰宅すると蒼はいつも通り再びアコースティックギターの練習に注力し、休憩時間にちょこっと勉強、というか暗記をし、親が作ってくれた夕食を食べ、またギターの練習とちょこっと勉強をして、寝た。


 翌朝早く、昨日と変わらず、蒼はギターを担いで河川敷に向かった。堤防上の道を歩いているとき、瑠璃の歌声が聞こえた気がしたが、姿は探さなかった。昨日のことはアクシデントだと思うことにした。そしていろいろ考えてしまうことが、ギター練習の邪魔だと気づき、心の隅に追いやって、定位置のベンチに腰掛け、防犯灯の明かりの下でチューニングをし、練習を始めた。

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