3
それから1週間ほど経った頃、ベンチに腰掛けて平常運転でギターを手にしているときのことだった。
「おはよう」
頭を上げるとギターの音と北風で、気がつかなかったが、目の前に瑠璃が立っていた。
「うわあ!」
防犯灯の明かりがあるとはいえ、冬至で日の出が遅くまだまだ薄暗いため、本当に目の前に来るまで気づかなかった。
「そのリアクションは女の子に失礼だなあ」
「あー驚いた……」
「気がつかないなんて、ずいぶん集中してるんだ?」
瑠璃はこの前に会ったときと同じような防寒姿で長い黒髪をポニーテールにして、背筋を伸ばして立っていた。
「何の用?」
瑠璃は露骨に呆れた顔をしたが、すぐにもとの顔に戻った。
「学校で話さなかったお礼を言いに来た」
「約束したからね」
「私の場合、いろいろあるから」
「美人には美人の苦労があるのも少しは想像できるよ」
蒼の言葉に反応して、瑠璃は口元に手をやった。心なしか頬が紅く染まっているように、蒼には見えた。
「意外」
「面と向かって美人と言われるのは慣れてない」
「あー、言われるなら、かわいい、の方か」
「そっちは何にでも使うからよく言われるけど、ね」
瑠璃は平常心を取り戻したように蒼に向き直った。
「とにかく、ありがと」
「お互いさま。坂本さんも話題にしなかったみたいだし」
「この1週間で少しはうまくなった?」
露骨に話題を変えられたが、その理由がわからない。だから蒼はその流れで応じる。
「初心者だから初心者なりに。日々、発見と進歩があるのは楽しい」
「私の場合、最近、それがなくって」
それが彼女が話しかけてきた本当の理由か、と蒼は思い至った。
「いずれは僕にもそうなる日がくるんだろうけど、上手くなりたいなら続けるしかないよね。自分にいつもそう言い聞かせているんだけどさ」
「そうだよね……ねえ、何か聞かせてくれない?」
「下手くそってわかっているのに?」
「進歩の結果が聞きたい」
「そう言われたら進歩があったと言った手前、断れないなあ」
そして蒼はギターに向き直る。弦と自分の指を見ていないと、まだ弾けない。ブラインドタッチはかなり先になるに違いないと思っていた。
最初はCを押さえる。そしてCとG、二つのコードを使うだけ。
だいたいC、たまにG。
「かえるのうた?」
途中から瑠璃が歌詞を合わせた。蒼が応じて、声も合わせ、かえるの鳴き声を2人で歌う。そしてじゃん、と6本の弦を震わせて終わりの合図。
瑠璃は小さく笑い、蒼も照れて笑った。
瑠璃の声は外見の通り妖精のようで、透明感と伸びがあり、練習を積んでいけばきっとすごいことになるのだろうなと思わせた。
「なんで『かえるのうた』?」
「CとGしか使わないから。アコースティックギターで最初に弾き語りができる曲かな」
「素直に楽しい」お気に召してくれたようだが、瑠璃は続けた。「もう1曲」
「えー」
仕方なく、蒼は持ってきているコード譜集を開いてベンチの上に置き、また弦にピックを当てる。
だいたいG7、そしてC、たまにD。そしてつたないながらも英語の歌詞をかぶせる。
ビートルズのデビュー曲、『 Love Me Do』だ。これも3つしかコードを使わないので初心者向けの曲だ。最初のサビを終えたあたりで蒼は手を止めた。
「下手くそ。ぜんぜん歌えてないし」 瑠璃は目をそらして不機嫌そうに言う。「そもそも、それに、私は『知らない』から。なんでそんなにストレートパンチばっかり撃つかな!」
そして真っ赤になって蒼を見た。
「いや、歌だよ、歌。ビートルズだよ。知らない?」
「知ってるよ。歌うことを目指していたら、知らないわけないじゃない。だからなんでいきなり『 Love Me Do』かって聞いてるの!」
「コード3つで弾けるから」
「そんな理由……そんな理由で『 Love Me Do』なんて歌わないで」
「あー、英語圏からの帰国子女だったっけ。忘れてた」
タイトルからしてストレートに求愛の歌だ。
「いや、そういう問題じゃないでしょ」
「告白されてばっかりだからトラウマになってるとか? だとしたらごめん。配慮が足りなかった」
「それ、それ。お断りするために膨大なエネルギーを浪費するんだから。朝の貴重なこの時間は歌に力を注ぎたい!」
素の瑠璃はなかなか面白いキャラクターだと思った。
「じゃあ、僕にちょっかい出さなきゃいいのに」
「毎朝同じようなことしてたら気になるでしょ。こっちはスランプなのに順調にちょっとずつ上手くなっているし!」
結構な感じで瑠璃は煮詰まっているようだ。
「じゃあさ、今日は気分転換に軽めに歌えばいいんじゃないかな」
「え?」
そして蒼は『もしもしかめよ』と歌い始める。やっぱりCとG、そしてギター初心者がつまづく最初の山と言われるバレーコードのF。
「『せかいのうちにおまえほど』」
瑠璃が続ける。
「『あゆみののろいものはない』」
蒼が継ぎ、次のフレーズは瑠璃と声を合わせる。
「『どうしてそんなにのろいのか』」
そしてギターを弾く手を止めて瑠璃を見上げた。
瑠璃は少し笑っていた。
「細野くん、変な人だったんだね」
「坂本さんは難しい顔をしているより、笑っている方がずっといいと思うよ」
瑠璃はコード譜の本に目を向けた。
「次、まだなんかある?」
「じゃあ……『海』かな」
瑠璃は露骨に笑顔を作り、同意を示した。
それから蒼と瑠璃は唱歌ばかり数曲歌って、河川敷を後にした。
堤防上の道を歩き、別れ際、瑠璃が言った。
「また、あとで」
「そうだね」
学校ではまた、同じ教室の中で、お互い別の世界で過ごすことになる。
それは普通のことだ。彼女がいる世界に踏み込むつもりは、蒼にはない。
瑠璃は小さく手を振って階段を降りていった。蒼が降りる階段はもう少し先だ。さっきまで学校のアイドルと一緒だったとは蒼には思えない。しかも2人で歌を歌うなんて、驚きしかない。祖父が遺してくれたギターを手にして、自分の運命か何かが少しだけ変わったことを蒼は感じ始めていた。
小一時間ほど後、蒼と瑠璃は教室で再会した。今度はお互い制服で、何事もなかったかのように。いつも通り『おはよう』と蒼は挨拶し、瑠璃もそれを返し――そして小さく、誰にも気づかれないように、蒼に向けて手を振ったのだった。
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