第9話 恋人つなぎ
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月曜日、蒼が登校すると下駄箱の上履きがなくなっていた。このイベントそのものは予想していたが、その予想を上回るスピードだったので蒼は戦慄した。大きく深呼吸したあと、用意してきた使い捨てスリッパで難を逃れ、はっと気がついて運動靴をとりに昇降口に引き返し、運動靴を回収した。隠されたら大変だ。
教室にいくと、今度は蒼の机の中のものが床にぶちまけられ、代わりにゴミが詰め込まれていた。露骨な反応に蒼は戸惑うが、それでも深呼吸して落ち着かせ、教科書を拾い集め、ゴミを分別して捨てた。
その様子をクラスメイトは黙ってみていた。
瑠璃が登校してきて、待っていたとりまき達が出迎え、言葉少なに質問を始めた。
机が荒らされていたのを見られなくて本当に良かったと蒼は思う。
蒼は瑠璃に気づかぬふりをして、机に伏せて寝た。もちろん眠れるはずがなかったが、昨夜の睡眠不足はまぶたを閉じれば少しは楽になる。
しかし瑠璃が困っている顔が目に浮かぶ。彼女の受け答えの声は、心細げだ。昨日の夜、SNSでお互い距離をとってやりすごそうということに決めていたが、思ったよりも事態は深刻だった。瑠璃が困っている。
だが、自分が出てどうなるというのだろう。好奇心の的になるだけなのではないか。
野次馬の目を楽しませるだけなのではないか。
嫌だ、怖い。
そう思う。嘲笑が聞こえるようだ。逃げている今でさえ、蒼の耳にいろいろなひそひそ声が聞こえてくる。
「……信じられない。あの子?」
「あのレベルでいいなら俺でもワンチャンあったってことか」
「アイドルでも人だー」
「アイドル×陰キャ、推せるわ」
蒼にとってはどんな声も過大なストレスだ。あと10分やりすごせば授業が始まる。
それまで我慢だ。我慢、して貰う。
「起きてください!」
つむぎの声に蒼は面を上げた。
「こんなときこそ胸を張らないでどうするんですか。彼女が困っているんですよ」
つむぎは腕を組んで仁王立ちになっていた。脇には沢田もいる。
「こんな状況で胸を張れないよ。火に油を注ぐだけだ」
「弱気厳禁。開き直って!」
「あー。肉体的になんかあったら俺が締めるから安心しろ。精神的には、ほら、お前が自分でなんとかしろ。話は聞くけど」
沢田の言葉にじーんときた。
「今だけ、彼女のために、自分の物語の主人公になるんです。何をしなくちゃいけないか、わかるでしょう?」
つむぎがガッツポーズをとって、蒼を奮い立たせようとする。
そうか。今だけ。今しかない。
「うん」
自分は逃げてはいけなかった。彼女の力になると決めていた。今、助けないで、いつ彼女の力になれるのだろう。蒼は心の隅に残っている勇気をかき集めようとする。そうしないと、動けない。嫌がらせに平然と対応しても、心はダメージを受ける。ギリギリで、どうすればいいかわからない。だから勇気を探す。そして瞬時に、自分の中に勇気なんてもともとなかったことに気がつく。
それでもすぐに、勇気の代わりになる、それでいてもっと大切なものが見つかった
それは瑠璃の得意げな顔と、呆れたような顔と、少し悲しそうな顔と、困った顔と、小馬鹿にしたような顔と、輝くばかりの笑顔だ。
自慢げな声と、怒った声と、自信なさげな声と、悪戯っぽい声と、朗らかに笑い、自分を呼ぶ声だ。
今、彼女は他人の好奇心に囲まれて、困り果てているんだぞ。
蒼は自分にそう言い聞かせて席を立つ。そして駆け出すようにして、クラス内外の人間にとりまかれて質問攻めに遭っている瑠璃の前に行く。
心臓が爆発しそうだった。頭に血が上って、何を言えばいいのか、言ったとしてもどんな言葉になるのかわからない。足が震える。
「細野くん……」
心細げに瑠璃が蒼を見上げた。
まだ何を言えばいいのかわからなかったが、蒼は心のままに言葉を繰り出した。
「坂本さん!」
蒼の心のままに出てきた言葉は彼女の名前だった。
蒼は瑠璃に手を差し出し、彼女は蒼の手をとり、2人は質問勢の壁をすり抜けて教室から飛び出す。
遠くからキャーとか、うおお、とか歓声が聞こえ、教室内が盛り上がったのがわかった。そんなことを気にする余裕はない。今、蒼は瑠璃の小さな白い手を握っていた。体温が低いのだろう。冷たかった。だが、自分の手が熱いだけなのかもと思い返す。
そして階段を駆け上がり、校舎の間をつなぐ3階の渡り廊下の途中で止まった。ここは渡り廊下の2階部分の屋上にあたり、手すりしかない。
「ごめん」
まだ蒼は、つむぎが言う主人公にはなれていない。彼にできたのはただ逃げ出すことだけだった。それでも変わることはできるはずだった。変わりたかった。
「謝ることなんか何もないよ」
瑠璃が不安を悟らせまいと明るい声を作る。それがわかるから蒼はしっかりと、彼女の不安を拭いたくてその手を握っている。瑠璃も不安を消そうとして蒼の手を握りかえす。昨夜、遅くまでメッセージをかわしていて対策を話し合ってはいたが、いざ現実となると全く勝手が違っていた。
瑠璃は蒼の瞳をのぞき込み、言った。
「信じるから」
蒼は自分が自分の物語の主人公になって、彼女だけのヒーローになれるよう、信じる。
「信じて。君が一緒なら、僕も負けないから」
それは自分の中になかったはずの勇気だと蒼は思う。ついさっきまでは絶対になかったが、今はある。そう言い切れるのは手のひらを通じて彼女から直接、勇気を貰っているからだ。脳内にアドレナリンが駆け巡っているのがわかる。今だけは、頑張れると思う。
蒼は大きく頷き、瑠璃は返す。
始業前のチャイムが鳴った。
2人は手をつないだまま、教室に戻った。
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