第8話 日向の縁側で
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ホワイトデーがあった週の土曜日、無料スタジオの予約が回ってきた。今度は複数枠のキャンセルが出て、結構後ろの方でエントリーしていたが、回ってきた幸運に、蒼と瑠璃のテンションは上がった。朝一番の9時からの90分間だった。
2人はその日の河川敷での練習を中止し、スタジオ練習に注力することにした。もう2週間あまり同じ曲の練習をしているから、その曲限定でだが、かなり上達したと蒼は思う。瑠璃との呼吸も合ってきた。この分なら本当に今月中に屋外ステージでチャレンジできそうだった。
前回、目撃されていた反省から、2人は同じ電車の別々の車両に乗り、乗り換え駅で合流した。今回の瑠璃は変装に近い格好だ。ベースボールキャップを被った上に深々とパーカーのフードを被り、度なし眼鏡をかけている。乗り換え駅のホームで瑠璃の姿を探し、見つけても、蒼ですら5秒間ほどわからなかったくらいだ。瑠璃が声をかけてきた。
「おはよう」
「本気でわからなかった」
「それなら良かった」
瑠璃の顔がとても近くにある。度なし眼鏡の奥で、彼女の目が笑っていた。
電車が来たが、まだ時間が早いため、前回以上に混雑していた。もう蒼と瑠璃はギグバッグを挟んで密着状態になる。
「通勤電車はもっと大変なのかな。ごめんね、こんな時間の予約になって」
「細野くんが謝ることないよ。それに嫌じゃないよ、君とくっついても」
そしていたずらっぽく瑠璃は笑う。
「返答に困る」
「他意はないよ」
「まあいいでしょう。そうだ、昨日のカラオケどうだったの?」
瑠璃は目をそらし、微かに笑った。
「まあ、楽しかったです」
瑠璃は昨日の放課後、90分ほどクラスのとりまき連中と一緒にカラオケに行った。事前に蒼には相談があったが、少し彼らに歩み寄ってもいいのではと考えていたから、行ってくればと軽く答えた。エネルギー使うんだけど、と言いつつ、彼女は行くことを決めた。
「アニソン歌った?」
「そんな引かれなかったよ」
「カミングアウトの伏線としては上々じゃないかな? これで僕らの活動がバレてもそんなに衝撃はないかも」
「普通のオタク趣味ならともかく、女児向けの魔法少女シリーズじゃどうかわからないな。しかし見事に流行の曲ばかりだった。私もYoasobiとか歌いたかったけど、今の私の歌唱力じゃ無理だ。よく歌うと思うよ。あと、席が男子に挟まれたのには困った。私はキャバクラ嬢じゃない。でも女子とは意外と話ができた」
「そこは良かった」
2つ目の駅で大勢の乗客が降り、一気に車内が空いた。蒼と瑠璃も離れる。
「あと、やっぱりなんだけど、あの中で恋愛沙汰があるみたい。面倒。平和でいたいな。私の隣に座った男子が好きな子がいて大変だった。あんな風に思い詰めるんなら私と細野くんが付き合っているって噂になったら、確かに細野くん大いに困りそう」
「だから素直に変装してくれたのか」
「変装を考えるの割と楽しい」
「それは何より」
「誰かに嫉妬する気持ちはわかる。無駄に気持ちを生じさせないであげられれば、それに越したことはないと思う。」
蒼は思ってもみない言葉に目を大きく見開いた。このウルトラ美少女が嫉妬するなんて。誰が相手で誰に嫉妬したというのだろう。考えにくい。
「なにか言うことない?」
「素直に驚いている。驚きすぎてよくわからない」
「私だって嫉妬くらいするよ!」
「誰が相手で、誰に?」
「学校で細野くんと話をしていたつむぎに! 気がつかなかったの?」
蒼は記憶を徐々に遡り、SNSのIDをつむぎから貰った辺りまできてようやく、なんとなくわかった。
「だからID教えてくれたんだ」
「鈍い。犯罪級に鈍い」
「軽く話をしていたくらいだったような……ああ、その程度で嫉妬されるならこうやって学校のアイドルと出かけてたりしたら、目的が何であろうと嫉妬されるね」
「先が思いやられる。だから魔法少女ヲタをカミングアウトしようとしているんでしょ。私は別に学校のアイドルじゃなくてもいいの!」
目的の駅に電車が到着し、瑠璃はあっかんべーをして先に降りていった。
「現実で舌を出してるのを見たのは初めてだ」
唖然としながら蒼も降りる。しかし美少女はあっかんべーすら絵になった。
蒼は瑠璃を追いかけ、瑠璃と並んで改札階への階段を降りる。
「ランチのデザートはおごるよ」
「じゃあ、許す」
瑠璃も本気で怒っているわけではなかったようで、すぐに機嫌を直してくれた。
9時から児童館の無料スタジオを使って、たっぷり90分間練習できたが、昼休みに学校の音楽室でタンブリンを借りてこっそり合わせたときと比べると、やはり歌とギターを合わせるのに苦労した。
2人は公営大型複合施設からショッピングモールまで歩く。ランチタイムまではまたウインドウショッピングの予定だった。
向かっている最中、2人は反省会を開催する。
「やっぱりパーカッション類が必要だね。僕のギターが下手なのが悪いんだけど」
「何かパーカッションの類いを買おうかな」
「じいちゃん家にタンブリンがあった気がする。あとで取りに行くか」
「もっと早く思い出してよ。おじいさん家はどこにあるの?」
「自転車で30分くらいの電車もバスもないところ」
「意外と近いね。一緒に行こうか。何があるのか見てみたい」
瑠璃は興味深げだ。自転車なら誰かに目撃される可能性も低いか、と蒼はOKする。
結局ランチよりもタンブリン探索を優先して、地元に帰ることにした。
駅に戻る途中、屋外ステージが見えた。またあの男の子と柴犬がいないかと思って眺めたが、別に誰もいなかった。瑠璃が言う。
「あのときは楽しかったね」
あの動画の件は沢田たちと一緒だったことにして、瑠璃の方からそれとなくその旨を広め、沈静化した。だが、何も心配せずに同じようなことをまたできるようになるのはもう少し先な気がする。
「本当にね」
2人でちょっとだけ昔のことに思いを馳せつつ、改札口に向かった。
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