第16話 山根隆(2)

 夏休みが終わり、各グループが小川未明全集のテキスト化を終えた。データはオンラインストレージで共有することになった。各班が担当分のテキストをアップロードし、それが終わり次第、早速ファイルを使って新たな課題に取り組むことになった。

 小川未明が使う色をリストアップし、それぞれの色がどんなシチュエーションで使われているか、またその効果はどんなものなのかをまとめ、自分なりに考察を加えて発表をするというのがその課題だ。うちの班は赤、青、黒、白の四色を担当した。

「やれやれ。打ち込みが終わったと思ったら今度は色のピックアップか」

「全部で十五巻、検索機能を使ったとしても大仕事ね」

 滝沢さんと島津さんが顔を見合わせて苦笑した。

 しかしこの課題が始まるのと同時に、研究室の空気が少しずつさざ波だった。妙な違和感を抱えながら日々を過ごしていると、川久保が俺の懐に飛び込んで囁いた。

「なあなあ山根、例のやつ、オレも見せてもらったよ。三原さん、やべえやつじゃん」

「えっ、なに。いきなり何の話だよ」

「イカホロの変態小説だよ。三原さんが書いたやつ。大量にあって内容も頭おかしいから、今研究室で話題になってんだよ。知らないのか」

 俺が本当に何も知らないことに気付くと、川久保は嬉々として俺に説明を始めた。オンラインストレージの小川未明全集のデータの中に何故かイカホロを扱った気味の悪い小説が混ざっていたらしい。しかもそれはいくつもあって、書きかけのものもあったという。それは小川未明全集の十一巻から十五巻の間に紛れていた。ちょうど俺たちの班が担当した箇所だ。

「そんな馬鹿な」

「まあ見てみろって。スクショもあるから」

 川久保に携帯画面を見せられ俺は絶句した。イカホロの乳首だとか男性器だとかいう卑猥な単語、これらによって俺の身体中の皮膚が泡立った。俺たちの世代にとってイカホロは子供時代の良い思い出だ。無垢だったあの頃の自分が、卑猥な言葉と思想に抱きすくめられ、執拗な愛撫を受けるような薄気味悪さと嫌悪感を覚えた。

「気持ち悪……」

「これを書いたのが三原さんっていうんだから、尚更笑えるよな」

 川久保は無邪気に笑った。俺は何か言ってやりたい気がしたが、うっすらとした倦怠感が全身を覆っていたために何も言葉が出なかった。川久保の携帯を突き返す俺の手は重く、震えていた。

 俺たちの班のデータのアップロードを担当したのは他ならぬ三原さんだ。おそらく何らかのミスで、イカホロのデータを未明の本文と一緒にアップしてしまったのだろう。

 俺は研究室にいた滝沢さんを呼び止め、この件を伝えた。滝沢さんも俺と同様この件について知らなかったらしく、言葉を失くして立ち尽くした。

 俺たちはすぐさまイカホロの変態小説をオンラインストレージから削除した。

 しかし、削除したから一件落着、というわけにはいかなかった。その後もイカホロの変態小説のスクリーンショットは研究室内に出回った。卑猥で常人には不可解な内容だったこと、三原さんはイカホロだらけの鞄を持ち歩く有名人だったこと、それらが災いして学生たちの格好の退屈しのぎとして持て囃され、あれよあれよといううちに三原さんがイカホロの変態小説を書いている人間だということが研究室外にも知れ渡ってしまった。

 退屈しきって餓えた学生たちは三原さんが大学に来る日を指折り数えて待っていた。わざわざ研究室に来たかと尋ねに来る他所者もいるくらいだった。しかし待てど暮らせど三原さんは大学には現れなかった。日本文学演習の三原さんの席もずっと空席だった。

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