第15話 山根隆(1)

 三原杏奈に気を付けろとアドバイスをくれたのは横田さんだった。

 横田さんはただの院生だが、留年を重ねているので日本文学研究室事情にやたら詳しい仙人のような存在だった。普段はろくに授業に顔を出さないのに、新しく二年生が研究室に入ってくる時期になるとふっと現れ、役に立つんだか立たないんだかよくわからないことを吹き込むのだった。俺も例外なく横田さんの餌食になった。

「山根くんねえ、三原杏奈ちゃんには気を付けた方がいいよ。あの子は可愛くて優しいから、色んな男子学生が行けると思って勘違いしちゃうんだよね。でもあの子が優しいのはうわべだけ。なめてかかると痛い目見るよ」

 山根さんはもともと老け顔なこともあって教授たちと同じくらいの年齢に見えた。

「ああ、そうなんですね。ありがとうございます」

 俺は人の判断を他人には任せない人間なので横田さんの戯言なんか真に受けていなかった。特に恋愛は主観が絡まり合って拗れるのが常なのだ。三原さんに袖にされた男子学生が悪口を吹聴することだってあり得る。ひょっとしたら横田さんだってその一人かもしれない。

「俺は彼女いるので大丈夫ですよ」

「なあん、そういう話じゃないの。この研究室でやっていくつもりなら、三原ちゃんに気を付けて過ごせって話なの。あの子人懐っこい笑みを浮かべるくせに、壁が凄いのよ。自分のことは絶対に話さないんだから」

「でも三原さん、こないだの歓迎会でイカホロが好きだって教えてくれましたよ。アニメじゃなくて、特撮の方が好きだってことまで」

「イカホロのことだけはいっぱい話すよ。それ以外は秘密なの。ボクら彼女の出身地だってわからないんだぜ」

 大学では俺たちは自然と標準語で話していた。高校と違い大学は出身地が異なる人間が集まっているから、ここでは皆自分の故郷の言葉を封印して生活する。三原さんも当然標準語だったから、言葉から出身地を推測することは難しかった。

 二年生の歓迎会は三日前に行われた。自由参加だったので研究室のメンバー全員がその場にいたわけではない。横田さんはいなかった。しかし三原さんはいた。

 三原さんは人懐っこい笑顔を浮かべ、緊張した二年生が早く打ち解けられるよう様々な話題を振って盛り上げてくれていた。初対面の人間が集まる場は出身地の話になるのが常だ。俺たちはぽつりぽつりそれぞれ出身地を打ち明けていった。

 次第に上級生の番になり、高山理子が大はしゃぎで能登出身だと言い、滝沢マヤが素っ気なく名古屋だと告げた。その後三原さんが笑いながら言った。

「アルカンシエル星から来ましたあ」

「出った! 例のやつ出った! みんなごめんね、この子ちょっと頭飛んどるげん。ごめんなあ、これは三原先輩の譲れんポイントねん。三原先輩はイカホロと同じ星から来たがや。わるいけど覚えといて」

 アルカンシエル星というのはイカホロの出身地らしい。研究室の空気をまだ今一つ読み切っていない俺たちは、三原さんと高山さんのやり取りを薄ら笑いを浮かべて眺めていた。俺たちはよくわからないなりに、これは自分たちを和ませようとしているのだと結論付け、曖昧な笑みを浮かべてその場を乗り切った。ぎこちない笑い声が消えないうちに四年生が出身地を告げ始めたため、三原さんの出身地はそのままアルカンシエル星になった。

「出身地はアルカンシエル星だそうですよ」

「ああ、三原ちゃんそれ言うよね。いつもそう。特に出身地は頑なに言わないんだわ」

 横田さんは顎を手のひらで撫でて無精ひげをざりざり言わせた。

 横田さんの不穏な預言が縁となったのかは分からないが、俺は小川未明の演習授業で三原さんと同じ班になった。研究室に入ったばかりの俺は、演習授業というものがどんなものなのか今一つ分かっていなかった。小川未明に興味があったから届け出を出しただけなのだ。

「二年生で恒山先生の演習授業に参加するなんて度胸あるね。でも大丈夫、できる限り私が手伝うよ。分からないこと、困難なことがあったらいつでもつかまえて相談してね」

 三原さんは俺に柔らかく微笑んだ。親近感を覚えるような優しい微笑みだった。多くの先輩が見せる社交辞令めいた優しさではなさそうだったので俺はほっとした。

 実際俺は多くのことを三原さんに相談した。恒山先生の授業の進め方、発表の形式、レポートの書き方、出欠の誤魔化し方まで聞いた。三原さんは嫌な顔一つせず、俺が真面目なときは真面目に答え、冗談めかして言えば冗談で応えてくれた。俺は三原さんに心を開き始めていた。

 俺の班には自分本位の高山さんと、他所の研究室から来た島津さんがいて、俺は正直なところその二人に辟易していた。三原さんは俺がこの二人を苦手に思っていることにしっかり気付いていて、空いた時間に声を掛けてくれた。俺が高山さんの標的に選ばれないようにするにはどうしたらいいか、島津さんのとんちきな振る舞いに巻き込まれないようにするにはどうしたらいいか、半ば愚痴に近い俺の相談を三原さんは茶々入れせず最後まで聞いてくれた。俺に労いの言葉を掛けてから、なるべく二人を俺に近付けないようにすると約束してくれた。三原さんはこの約束をきちんと果たし、俺は面倒ごとから解放された。

 俺は横田さんの不穏な預言を忘れつつあった。三原さんは優しい。よく笑う明るい人だ。三原さんがいると研究室はぱっと明るくなる。困っている人がいればすぐに駆け付けてくれる。三原さんはとても頼もしい先輩だ。

 しかし四月も終わりになると、俺は次第に三原さんに違和感のようなものを抱き始めた。三原さんは俺によく笑顔を見せてくれたが、笑い終わった後すっと真顔に戻ることがある。ほんの一瞬のことだ。瞬きを一度でもすれば見逃すかもしれない。三原さんはその後繕うようにまた笑い始めるが、その笑顔は鋭利な刃物のように俺の周りの空気を冷たくすっ、と切っていく気がした。一度切られた空気は元には戻らなかった。

 ここにきてようやく俺は、三原さんとの間に厚い壁のようなものが存在していたことに気付いた。それは水族館の水槽に使われているアクリルガラスのように分厚く、そして透明であるためになかなか気付けない。


「三原さんて、誰も好きじゃないんじゃないかな」

 俺はふと同じ二年生の野沢さんと川久保に漏らした。女子である野沢さんは一笑に付したが、男子の川久保はわかる、と言った。秘密を打ち明けるような重々しい言い方だった。

「三原さんて、ちょっと冷たいよ。壁を作るっていうか」

 野沢さんは全然分からないと言って、珍しく暗い顔をしている川久保をいじった。川久保は野沢さんに取り合わず、真面目な顔のまま俺に向き直った。三原さんと話しているとまるで自分が穢れている存在であるかのように錯覚する、と彼は告げた。それは三原さんが優秀だから引け目を感じるといった類のものではなく、三原さんの言葉の端々や、表情や、振る舞いが、まるで自分を裁いてくるように感じるからだという。

「三原さんと話してるとき、なんかオレ、生ゴミだっけって思うときある」

 野沢さんはこの発言に腹を抱えて笑ったが俺は笑わなかった。俺も三原さんと話していると同じように感じることがあるからだ。

 三原さんが俺の中学時代の同級生である田沼雅成と付き合っていることは大きな驚きだった。たぬは勉強も運動もできなかった。女子に人気はあったがそれはクラスのマスコット的な扱いだったからで、まるで男扱いされていなかった。俺にはたぬが三原さんと釣り合うようにはとても思えなかった。それ以前に三原さんが誰かを好きになるなんて俺には信じられなかった。詳しく聞こうと思っていたら、たぬは別の女の子と付き合い始めた。同じバイトの子らしいが顔を合わせたことがないのでわからない。俺もバイトを辞めてしまったのでたぬとはそれっきりだ。

 それが関係しているかは分からないが、夏休みが明けて久し振りに会った三原さんは幽霊みたいに痩せていた。もともと小柄だったのに二回りくらい小さくなっている。本人は夏バテしたかも、と笑っていた。

 しかし考えてみれば夏休みに入る少し前から三原さんは痩せ始めていたし様子もおかしかった。授業中でも夢を見ているようにぼんやりしており、つまらないミスをすることも増えていたのだ。研究室で起きる揉め事に率先して駆けつけることもなくなっていた。研究室の隅っこに腰掛け、陰鬱な面持ちで俯いていたかと思えば、ぱっと明かりがついたように笑みを浮かべているのだ。

 小川未明の電子テキスト制作は夏休み明けまでに全て終わらせる話になっていて、俺の班では高山さん以外は担当分をすべて終わらせていた。しかし高山さんのやり残した量がとんでもなかったので俺たちは青い顔を互いに見合わせた。高山さんではきっと来年になっても終わらないと考えた俺たちは素直に残りを分け合った。テキスト入力が異様に早い三原さんは自然と担当量が多かったが、どういうわけか彼女の入力スピードは急に落ち、入力ミスも増え始めた。

「杏奈どうしてん。いつもの調子はどこに行ったんや。こんなん言いたくないけどなあ、彼女と一緒におるから、彼女のどんくさいのがうつったんじゃないけ」

 高山さんは入力ミスを理由にして日頃抱いていた鬱憤を晴らそうとした。

 彼女とは島津さんのことだ。高山さんは島津さんが気に食わないのだ。どうにかして島津さんを孤立させようと画策していたのだが、三原さんは島津さんがそうならないよう、暇を見つけては島津さんに声をかけていた。それが高山さんの癪に障っていた。

 実際のところ、島津さんはこの頃にはもう研究室に慣れており、三原さんはおろか滝沢さんとも仲良くなっていた。島津さんは確かに変な人だが、課題はしっかりとこなしてくるし根は真面目なので俺も苦手ではなくなっていた。この状況が高山さんの苛立ちに拍車をかけていた。高山さんの怒りの矛先はまっすぐに三原さんに向かった。

「杏奈しっかりしてや。あんたがしっかりせんとうちのグループの課題はめちゃくちゃになるし風紀も乱れるんやよ。こういうこと言いたかないけどなあ、あんたいっつも研究室のリーダー面しよってなあ、研究室の人気者やと自分では思っとるかもしれんけど、影ではあんた、皆から悪口言われて嫌われとるんやぞ!」

 そこまで言って高山さんははっと口元を押さえた。明らかに言い過ぎたというばつの悪い顔をしていたが、結局三原さんには謝らなかった。

 三原さんはというと、高山さんの言うことを聞いていたのかいないのか、まるで夢でも見るかのようにぼんやりと窓越しに空を眺めている。雲が流れるのがそんなに面白いのか、そこから何かが見えるのか、ときどきうふふと薄ら笑いを浮かべるので俺は背筋が寒くなった。

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