第8話 島津羽莉(1)

 相手にプレゼントをすると喜んでくれるということに気付いたのは小学生の頃だったろうか。飴やガムなどをあげると、ありがとうの言葉と共に少しだけ距離が縮む。この作戦は高校生くらいまでは上手く行っていたように思う。しかしもう皆、わたしを含め大人なのだった。飴とかガムとかそんなもので喜ぶ年齢ではない。わかっている。わかっているが、他に方法がわからない。プレゼントするものを変えて、冗談を言ったりして、工夫するけれども、頑張れば頑張るほどわたしは空回り周囲に疎まれていくのだった。

 わたしは子供の頃から正しい人間関係を築くのが苦手だった。人が嫌いではなくむしろ好きで、独りぼっちよりも誰かと一緒にいる方が好きだという性質は却って大きな悲劇を生んだ。わたしは誰かを見ると嬉しくなって、仲良くなりたい、好きになってほしい、と思ってあれこれ画策してしまう。明るい声で、大きな声で、元気よく、笑顔でいれば誰ともお友達になれます。保育園の頃に掲げられたスローガンはわたしの心臓に深く刻まれ、成人した今も馬鹿正直に実行してしまう。結果、皆は顔を引き攣らせてわたしから去っていく。

 日本文学研究室に来たとき、他所から来たわたしは皆と仲良くなろうと張り切った。明るい表情と声を意識し、プレゼントを欠かさなかった。しかしわたしの行為は滝沢マヤを、山根隆を、高山理子を戸惑わせた。高山さんは優しくしてくれたのに、調子に乗ったわたしは無神経な冗談で彼女を傷付け、彼女の逆鱗に触れてしまった。無遠慮な冗談はお互いの距離を縮める格好の手段だと知っているが、わたしはそれを上手く扱うことができない。実行するといつも相手を怒らせてしまう。以来ずっと高山さんはわたしに冷たい。

 孤立したわたしを支えてくれたのは三原杏奈だった。三原さんは日本文学研究室の中心的存在で常に明るく誰にでも優しい女の子だった。三原さんは積極的にわたしに話しかけ励ましてくれた。高山さんと上手く行かないときも間に入って仲裁してくれた。わたしは当然三原さんが好きになった。わたしがどれだけ空回っても、おかしな贈り物をしても三原さんは皆が浮かべる引き攣った表情を作らない。三原さんはわたしを肯定し許してくれた。

 しかし、あることをきっかけにしてその感情は消滅した。わたしは三原さんのことが好きではなくなった。

 あるときわたしは、缶バッジやアクキーの大量についた三原さんの珍奇な鞄を見てこう言った。

「三原さんって、宇宙虹人の方のイカホロが好きだよね。だって、缶バッジもアクキーも全部UKじゃなくて宇宙虹人だもの。わたし、知ってるんだ。UKのイカホロは左足首にアンクレットがついているけど、宇宙虹人のイカホロは何もつけてないんだよね。三原さんの鞄のイカホロはみんなアンクレットがついていない。だからみんな宇宙虹人のイカホロ。すごいこだわりだよね」

 三原さんの鞄はイカホロのグッズがいっぱいついている。わたしは目についた看板の文字を読み上げる気持ちで言った。わたしはしばしばこのような行為をする。しかし、すぐに身構えた。高山さんのように三原さんも怒らせてしまうのではないかと思ったのだ。

 しかし三原さんは怒るどころかわたしの手を取って大喜びした。

「島津さんすごい! 私、『宇宙虹人イカホロ』を知ってる同い年の女の子に会ったの、生まれて初めて!」

 わたしは別に『宇宙虹人イカホロ』は好きではなかった。しかしわたしの友人がそれの熱心なファンだったのだ。わたしはそれに付き合って本編を見て、話し相手にもなっていたので、ある程度の知識が身についていただけのことだった。わたしにとっては大きな意味はなく、天気の話題と同じくらい軽い発言だったのに、三原さんにとっては月が木っ端微塵になるくらいの衝撃らしかった。

 三原さんはわたしを素晴らしい偉人を眺めるかのような輝かしい目で見た。そして太陽が煮えたぎるのに似た熱量で『宇宙虹人イカホロ』の話をたくさんわたしに振るようになった。

「イカホロの必殺技といえばアヌエヌエの矢だけど、私はヘイムダルも好きなんだ。全二十六話中三回しか出て来ないなんて信じられないくらいに印象深いよね」

「イカホロの逞しい身体が好きなの。守ってくれそう」

「私はイカホロの強さだけじゃなくて優しさも大好き。なんといっても第二十話。厭世ハルバッティの骨に花束を捧げに行く場面、イカホロの優しさが伝わってきて本当に好き!」

 三原さんは夢中でこれらのことを言った。

 三原さんはわざわざ大学内でわたしを探し出し、二人で喫茶店で長々とお茶をするようになっていた。わたしがどれだけ逃げても追いかけてくるのだった。

 三原さんは目の前のコーヒーなど見向きもせずに身を乗り出してイカホロの話をする。その様子はまるで別人、何かが乗り移ったかのようでもあった。

 わたしは三原さんの好意に応えようと、彼女の熱くて重い球を精いっぱい打ち返した。

「うん、ヘイムダル、いいよね」

「イカホロの身体、確かに逞しいよね」

「厭世ハルバッティの骨の話、わたしも覚えてるな……」

 わたしはやっとの思いでこう言った。暗い声で、小さな声で、元気なく、陰鬱な面持ちだった。わたしの発言内容はとても薄かったが、それでも三原さんの口は止まらなかった。彼女はわたしの三倍の量をさらに話した。

「イカホロのヘイムダルが印象深いのは、第一に日暈研究所が惨敗した巧妙ヒタムロンのビームに対抗できたのがそれだけだということ、第二に、混沌カルカル戦で人々を助けるために使われたということ。本当、劇中でたった三回しか使われてないだなんて信じられないね」

「イカホロの身体、最初見たとき笑っちゃった。それくらい凄い筋肉。でも見慣れると、守ってくれそうな安心感を与えてくれるんだよね」

「厭世ハルバッティの骨は、倒された後も住民たちに憎まれ続けるハルバッティがあまりにも可哀想で……。ハルバッティの死を悼んでくれたのはイカホロだけ。イカホロの優しさに私もハルバッティも救われる気持ちになったの」

 三原さんのコーヒーカップが斜めに傾いて倒れた。わたしは、あっ、と思いながらそれを眺めていたが、三原さんはそれに気付きもしないでイカホロの話を続けた。

 わたしの想定していた以上の量のコーヒーがどっとテーブルに広がっていく。わたし達が話してから何十分と経っているのに三原さんはひとつもコーヒーを飲んでいなかったのだ。三原さんはその後も一人で話し続けた。

 わたしは三原さんの姿を探しながら移動するようになった。誰かの足音がするとき、声がするとき、わたしの心臓は口から飛び出そうになる。例の奇怪な鞄が現れるのではないかと思うと気が気ではなく、常に神経を張り詰めて大学生活を送るようになってしまった。

 この頃にはもう、わたしは高山さんに会うことよりも三原さんに会うことの方が怖くなっていた。

「同い年の女の子とイカホロの話ができる日が来るなんて思わなかった。すごく嬉しい、夢みたい……」

 三原さんが頬を紅潮させほうっと息を吐いたのを聞き、わたしは友人を三原さんに紹介しようと決意した。彼女がわたしよりもイカホロの話ができる女の子を見つければ、わたしは日々の憂鬱から解放されるだろうから。

「んのんちゃん」はわたしの唯一の友達だった。んのんちゃんはわたし同様人付き合いが下手で、わたし達は互いの傷をなめ合うようにして仲良くなった。んのんちゃんはピンクとフリルとかわいいものが何より大好きで、そして変わり者なので大昔の特撮番組『宇宙虹人イカホロ』を熱狂的に愛していた。学校にも行かず、職にも就かず、毎日自分の部屋でじっと日々を耐えている。

 わたしの提案を三原さんは二つ返事で受け入れた。しかし、肝心のんのんちゃんは三原さんに会うことを怖がった。当然だった。それでも強引に約束を取り付け、わたしは三原さんを引き連れてんのんちゃんの家を訪ねたが、んのんちゃんは約束をすっぽかして外出してしまった。

 んのんちゃんの部屋は階段下にあった。部屋とはいえないただの空きスペースだが、んのんちゃんはそこに突っ張り棒をたくさん突っ込み、可愛いピンクのカーテンを大量に垂らして部屋を無理やり拵えたのだ。その部屋が空っぽだった。可愛いカーテンの群れをいくらめくってもんのんちゃんの姿はない。

 わたし達が戸惑っていると、背後でぎっと音がして、ある部屋の扉が開いた。そこから出てきたのはお兄さんの弘見くんだった。弘見くんはわたしの中学時代のクラスメイトでもあった。

 弘見くんはわたし達の姿を認めると緊張で顔を強張らせた。彼はわたし達同様人見知りなのだ。

「ね、ねえねえ弘見くん、んのんちゃん今日おらんがけ? 今日な、一緒に遊ぶ約束しとってんけど」

 わたしは両手いっぱいの飴を弘見くんの手に押し付けながら、明るい声と笑顔で必死に言った。

「あー。あー、おらんみたいやねえ。なんか今日は用事があるって朝早く出かけてったわ。今日はもう帰らんのでない?」

 両手から飴をぼろぼろ落としながら弘見くんが言った。今日はもう帰らない、という声にわたしは深いため息を吐いた。

「その人は?」

「はじめまして、三原杏奈です。今日はんのんさんに会いに来ました。でも、どうやらいないみたいですね。残念。私、彼女に会うのをとても楽しみにしていたんだけどな」

 三原さんはそう言って弘見くんに笑いかけた。自然な優しい笑顔だった。

 弘見くんは三原さんの優しい笑顔を用心深くじっと見ていた。用心深い目つきは次第に険しくなり、最後には睨みつけるのと変わりないようになっていた。三原さんは少しも動揺せず、むしろその敵意を包み込むような優しい笑みを浮かべ続けていた。根負けしたのだろうか、弘見くんは弾かれるようにして自分の部屋に逃げ帰った。

 わたしは仕切り直す気持ちで飴を口に入れた。いちごの香料が口いっぱいに広がった。少し溶けている。三原さんは溶けた飴が嫌なのか受け取ったものの口にしなかった。わたしは慣れた足取りで居間へ行き、飴の包み紙を屑籠に捨てた。

 そのときわたしは屑籠の底に大量のピンク色が詰まっていることに気付いた。それがんのんちゃんのスカートであることにもすぐに気付いた。ピンクのスカートは細切れにされていたが、生地にうっすらと浮かぶ花の模様に覚えがある。お気に入りなのと見せてくれたんのんちゃんの嬉しそうな顔を思い出し、複雑な気持ちになった。

 んのんちゃんは家族に嫌われていて、ときどきこんな風に持ち物を捨てられてしまうのだ。んのんちゃんにとって他者は自分を脅かす存在でしかなかった。知らない三原さんに会うことは大きな恐怖だったに違いない。わたしは己の行動を反省した。


「ごめんなさい三原さん。わたしもう一度んのんちゃんと話してみます」

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