第6話 滝沢マヤ(2)
それは五月も終わりに差し掛かる頃だった。
あと少しで日本文学演習の授業が始まる時間だったが、例によって恒山先生は研究室にはまだ来ておらず、学生たちは退屈そうに席について時間をつぶしていた。ワタシも頬杖をつき新作ゲームの攻略手順を考えていた。そのとき、ぎ、と静かに扉が開いたので、ワタシ達は恒山先生の姿を想像し、目をやった。しかし実際に入って来たのは両手いっぱい、抱えきれないほどのチューリップを持った島津さんだった。
赤白黄色、桃色オレンジむらさき。花を抱えているというよりは、色とりどりに狂い咲いたチューリップが島津さんの胸に一斉に突き刺さっているように見えた。そういうふうにデザインされた怪獣みたいだった。
島津さんはよたよたした足取りで研究室に入って来る。研究室にいた者は皆一様に言葉を失い、固唾を呑んで奇怪な姿の島津さんを目で追った。
島津さんは高山さんの席の前に立った。
「これ、これね! 高山さんにあげようと思ったの! 絶対絶対気に入ると思ったから!」
島津さんの顔は緊張で引き攣っている。
チューリップの長さはてんでばらばらで、長いのもあれば異様に短いのもあった。茎や葉はねじ切れて断面が痛々しい。ここに来る間にぶつけたのだろうか、花のうちのいくつかはつぶれて蠅の顔のようだった。包装されているでもなく、切り揃えられているでもない、裸のチューリップ群は、幼い子供たちが空き地でかき集めた雑草の花の姿とよく似ていた。
高山さんは青い顔で島津さんとチューリップの群れを眺めていた。
高山さんが受け取ってくれないので、島津さんは仕方なく口を開いた。消えるような声なのにとてつもなく早口だった。
「歩いてたら、すごく綺麗だなって思って。それで、それでね! 綺麗だから、高山さんにって思って!」
そこで島津さんは突然笑いだした。ふひゅ、ふひゅという引き攣った笑い声が研究室内に響く。優しく微笑もうとして失敗したらしかった。
島津さんがぐいと両手を押し出す。チューリップの群れが一斉に高山さんの方を向き、わっと笑いかけたので、高山さんは小さく悲鳴を漏らして身を引いた。
「受け取ってください、高山さん」
島津さんはチューリップを尚も強く高山さんの方に押しやった。その勢いで島津さんの腕からチューリップが一輪、二輪、三輪とこぼれていく。どっ、どっ、どっ、と赤や黄や桃の花と一緒に黒く湿った土も落ちた。よく見ると島津さんの両手の爪も黒い土が詰まっていた。
「い、……いらんわいね!」
「島津さん、そのチューリップどこで見つけてきたの? とても綺麗だけど、お花屋さんのじゃなさそうだね」
ふいに三原の声が響いた。三原は高山さんを背で守るようにして島津さんの前に立っていた。
「と、通り道で見かけて」
「通り道ってひょっとして、体育館の裏にある花壇かな? あそこ、チューリップがたくさん植えられていたよね。でもあれは大学みんなのものだから、勝手に抜いてしまったらだめだよ」
「あっ……」
島津さんは我に返ったような声を出した。か細い腕が恐怖でがたがたと震え、腕の中のチューリップが一斉に騒ぎ出した。チューリップ達は悲観した顔で島津さんの腕から次々と身を投げ、重い頭を床にぶつけてぼとぼとと潰れた。
「大学の、そうや。あれは大学の花壇や。どうしよう、見かけて綺麗やったから、反射的に」
「いい加減にしてください!」
高山さんが声を張り上げた。
「大学の花壇のチューリップを刈るって、あなた頭おかしいんじゃないですか? 一輪でもおかしいのに、そんな大量に刈るって、どうかしてますよ! そんなん持って来られたら、め、迷惑なんですよね! あなたがそんなことやって、うちの研究室のせいやと思われたらどうしてくれるんですか? はよ、何とかしてくださいよ! 一人でそれ、いいがにしてください!」
島津さんの顔は死人のように青ざめていて、高山さんの声が届いているのかどうかわからなかった。三原は床の上に果てたチューリップ達を拾ってから、島津さんの肩を優しく叩いた。
「島津さん、謝りに行こう。私も一緒について行くよ」
「杏奈、行かんでいいって!」
高山さんが叫んだ。
「あんたがそんなことせんでもええわ! 一人でやらせえ。甘やかすとつけあがるわ。彼女、何でも杏奈にやってもらったらいいって、そう思ってしまうがやぞ。お人好しも大概にせえや!」
「ごめんね」
三原は困った顔で微笑んでいた。
「りこちには迷惑かけないようにするよ。今日は確か発表もないし、プリントもあとから自分で恒山先生のところに取りに行く」
「そういう話じゃないわ。アタシの迷惑とかそういうのどうでもいいげん。アタシはあんたが無理しとるんじゃないかって、心配で」
チューリップを抱いた三原は島津さんの腕を引いて出て行った。出て行く直前、三原はくるりと振り返って高山さんに手を振って笑った。
扉の前にチューリップが一輪ぽつんと落ちている。島津さんが新たに落としていったものなのか、三原が拾いきれなかったものなのか、それはわからない。ワタシは反射的に席を立ち、迎えに行くような気持ちで拾い上げた。頭が重くぐにゃりと曲がった。生命から物になり始めていた。
この頃にはもう研究室はどっと息を吹き返していて、学生たちはめいめいに島津さんの奇行について話し合っていた。彼らは悲鳴と笑い声をあげてさんざめている。興奮しながらしきりに写真を撮る者もいた。
結局この件については口頭注意で済んだらしかった。チューリップの季節が終わりつつあったからか、または三原が上手いことやったのかもしれない。
「三原、あんまり怪獣と付き合うと怪獣になっちゃうよ。人間の友達は人間、猫の友達は猫、となると怪獣の友達ってやっぱり怪獣じゃん」
あるときふとワタシは三原にこう言った。
三原のかかとをこつんと蹴飛ばし、ワタシはにやにやからかいながら三原の隣にするりと自分の身体をねじ込んだ。三原は受け止めるような優しい笑顔をワタシに向けていた。ワタシはそんな退屈なお愛想ではなく、本当に笑わせたかったので、追い打ちをかけるように新たな冗談を被せた。
「ひょっとして三原も既に怪獣だったりしてね」
大笑いは期待していなかった、ややウケで良かったのだ。三原のこんな表情をワタシは望んでいなかった。三原を取り巻く初夏の青空や金色の日差しが、このときすべて白黒に沈んだ。
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