第5話 滝沢マヤ(1)

 退屈に負けるくらいなら多少の面倒ごとを抱える方がずっと愉快、一面に広がる美しい青空よりも親指程度の不穏な雨雲の方がずっとよい、というワタシの考えを他所のコースから来た島津羽莉は軽々と飛び越えてしまった。ワタシが求めていたのはちょっとした怪奇現象であって怪獣の出現ではない。ビルの隙間から怪獣の顔がちらりと見え、ぎょっとしつつ確認したらばただの看板だった、ぐらいのハプニングで良かったのだ。ビルをなぎ倒して怪獣が直進してくる規模のものは望んではいない。

「滝沢さん!」

 日本文学研究室に入った途端、ワタシは急に腕を掴まれ、強く引っ張られた。ワタシの身体は紐を引かれた独楽のようにぐるりと回った。振り向いた先にいたのは件の島津さんだった。

「ああ、どうも島津さん」

 ワタシが引き攣った笑みを浮かべると、島津さんはそれ以上に引き攣った顔でにっこりと笑った。島津さんが小学生が持つようなキルティング鞄に手を突っ込んだので、ワタシは例のやつが始まる、と反射的に身構えた。飴でも歯磨きガムでもクラゲでも何が来たって怖い。

「わたしこの間コンビニに行ったときね、滝沢殿に良い物を見つけたでござるよ、ニンニン。拙者の手裏剣受けてみよ、なんてね、ふふ」

 キルティング鞄に沈んだ島津さんの手がにゅっと出てワタシの掌に一枚の紙を乗せた。

「え、いや。島津さん」

「いやいや、遠慮は要らぬでござるよ滝沢殿。お受け取りくだされ」

 島津さんはにこにこと笑っている。ワタシは自分の手に乗ったウェブマネーカード二千円分を見つめる。背に冷たい汗がつっと伝ったのがわかった。

 確かに以前、ワタシは島津さんにウェブマネーカード二千円分なら受け取ると言った。言ってしまった。でもそれはただの冗談だ。本当に持って来いだなんて言ってない。

「あの、島津さん。島津殿。あのね、いらない。受け取れないからね、これ」

「え、でも、だってこの間滝沢さん確かに、」

「言った。言いました。でもね、冗談だったの。普通に考えたらわかるやつ。現金持って来いなんて、そんなかつあげじゃないんだから」

「じゃあ、あのときいらないって言って返してきたガムも、本当は欲しかった?」

「いやそれは本当にいらない」

 ワタシがそう言うと島津さんは泣きそうな顔をした。混乱しているようだった。

 いらないと言われた歯磨きガムは本当にいらなくて、いると言われたウェブマネーカードも実はいらない。その違いがどうやら島津さんはわからないらしかった。

「島津さん、島津殿、ごめんだけど、本当にごめんだけど。持ってきてくれてありがとうなんだけど、これは受け取れない。返す」

 ワタシは島津さんにウェブマネーカードを返した。島津さんは何かが刺さったような痛々しい表情を浮かべた。本当に手裏剣だったのかもしれない。ワタシは島津さんの得体の知れなさにぞっとしながら席に着いた。

 島津さんはウェブマネーカード二千円分を手にしたまま棒立ちしていた。硬直したまま動かないので三原杏奈が声を掛けた。

「島津さん、どんまいだよ。ね、もう誰かにあげるために何か持って来ることはしなくていいから。島津さんはもう気を使わなくていいんだよ」

 三原が声をかけると、島津さんはスイッチがばちいんと入ったようにぱあっと顔を明るくし、

「そうね、そうね、わかったわ。三原さんの言う通りにする」

 と素っ頓狂な声で言い、ぎこちない動きで席に着いた。そして急に電源が切れたように俯き黙って静止した。

 ワタシが座ったのは三原の後ろの席、恒山先生の日本文学演習までまだ暫く時間がある。退屈を埋めるにはこれしかない、とばかりにワタシは脚を伸ばして三原の椅子をがつんと蹴っ飛ばした。三原のまっすぐ伸びた背中がびくんと跳ね、次の瞬間、振り返った三原と目が合った。三原が笑ったのでワタシも笑い返す。

「時間くるまで構ってよ」

 ワタシはそう言って三原の机の脇に置かれた大きな鞄を見やった。バッジやラバーストラップやアクリルキーホルダーがぎっしりとついていて、しかもそれらはどれも同じキャラクターだ。蛇の王様のような顔をしていて、その顔に似つかわしくないほどの勇ましい筋肉を持ち、眩い虹色のマントを纏っている。宇宙からやってきた正義の味方「イカホロ」だ。

「いつ見ても見事な鞄ですこと」

「それはそれは。是非近くでじっくりとご覧ください」

 三原はワタシに鞄を向け、その反動でイカホロ達が一斉にじゃらっとこちらを向く。いつ見ても奇怪な鞄だった。これのおかげでどれだけ遠くからでも三原杏奈だと認識できてしまう。三原杏奈は人文棟ではちょっとした有名人だ。

「これだけついていると、一つなくなっても分からないんじゃないの。ひょっとして、既にいくつか無くなってたりして」

「そんなことないよ。一つでもなくなったらすぐわかる。私、毎日付け替えてるもん」

 三原はそう言ってにこにこしている。

「狂ってるなあ」とワタシが言うと、三原は「もっと褒めて」と言って笑った。

 それにしたっていくら地球を守る正義の味方といえど十も二十もひとつの鞄にしがみついているのは不気味だ。一人いれば十分だと思う。

「こんなにイカホロがいるんじゃ喧嘩のひとつでも始めるんじゃないの。イカホロが何十人いたって地球はたったのひとつだぜ」

「地球はひとつでも怪獣は二十六体もいるんだぜ。むしろ足りないくらいだよ。それにイカホロは友好的な紳士なので喧嘩なんてしません」

「友好的な紳士が怪獣ぶっ飛ばしたりするかよ。ねえ、怪獣二十六体って、それ全部覚えてたりするの」

「当然。あとね、イカホロは怪獣倒さないから。浄化するの、浄化」

「浄化ってなに」

「イカホロに出てくる怪獣って全部元人間なの。だから、安らかな眠りに就かせてあげる」

「えっ、あの怪獣ってみんな人間だったの。可哀想じゃん。だから浄化して人間に戻してあげてるの?」

「いや、人間には戻らないんだけど。戻らないけどせめて安らかな眠りに就かせるっていうか」

「浄化と死の違いがワタシにはわからん。いや、でも知らなかった。そんな話だったんだ、イカホロ」

 ワタシはふと隣の怪獣に目をやった。怪獣シマヅサンは何故かワタシ達からは遠く離れた席に座り、未だに電源が切れたように俯いていた。シマヅサンも昔は人間だったのかもしれない。それが何の因果か怪獣になってワタシ達の周りで暴れまわっている。可哀想と言えば可哀想だ。シマヅサンが研究室の皆と仲良くなりたくて奇怪なプレゼント攻撃を行っていることはワタシ達も気付いているのだ。

「ねえ、イカホロが流行ったのって、ワタシ達が小学生になったくらいの頃だったっけ。クラスのみんな、男子も女子も観てたよね。ワタシの家にもイカホロのおもちゃあったよ。さすがに弟のだけどな」

「ひょっとして、天球儀の形をしているやつ?」

「そう、それだ。天球儀」

 ワタシは手を打った。天球儀を模したそのおもちゃは、確か電子端末と対応していてパーツ分解ができるのだ。天球儀は銃や剣などひみつの武器になり、しかも電子音が鳴って派手に光る。弟はこのおもちゃが大好きでよく遊んでいたが、昼夜問わず鳴らして光らせるのでしょっちゅう親に怒られていた。

「でもね、天球儀は私の好きなイカホロには登場しないんだよ。私が好きなイカホロは、滝沢が言ってたアニメ版じゃなくて、昔やってた実写版のイカホロなんだ」

「えっ、イカホロってアニメ以外に実写版なんかあるの?」

 ワタシは驚いた。ワタシはアニメーションのイカホロしか知らない。言われてみれば三原の鞄のイカホロ缶バッジは特撮画面の切り抜きを貼り付けたような絵柄だ。ラバーストラップとキーホルダーはデフォルメされたイラストだったから全く気が付かなかった。

「滝沢が知らないのも無理はないよ。実写版のイカホロはうんと昔、それこそ私たちの親よりも前の世代の作品なんだよ」

「そんな昔の作品をどうして三原が知ってるの?」

「うちはお父さんが実写版の大ファンなの。子供の頃に再放送していたのを見てはまったんだって。私は、そんなお父さんに子供の頃から実写版イカホロを観せられて育ったの」

「英才教育じゃん。だからそんなにイカホロが好きなんだ。でもアニメの方も観てたよね? 当時見てない子いなかったくらいだし」

「ううん、お父さんが実写版の熱心なファンでさ、リメイクであるアニメ版は許せないって言って、見せてもらえなかったの。大人になってからこっそり観たけどね」

「お父さん、信者ってやつじゃん」

「うん、そうだね。我が家はお父さんの信仰のおかげでイカホログッズだらけ。部屋はフィギュアやソフビで溢れてるし、日用品はすべてイカホログッズ。醤油入れまでイカホロなんだ。しかも全部実写版のやつで、アニメ版一切なし」

「醤油入れ……。とにかくお父さんは物凄い執着がある人なんだな。なんか、話を聞いてるだけで気が遠くなりそう」

「そう。でもね、やっぱり私もお父さんの血を引いてしまっているから。ほら、この鞄だし、それに毎日実写版イカホロのDVD観てるの。もちろん今日も観てから大学に来た」

「娘も熱心な信者じゃん。なんか本当に宗教みたいなんだな。聖書を読んだり、お祈りしたりする感覚でDVDを観てたりして」

「そうね」

 そう言うと三原はふっと口元だけで微笑んだ。ワタシの知らない三原の笑い方だった。

「宗教っていうのは確かにそうかもね。イカホロは私の絶対的なヒーローでありながら神様なのかもしれない」

 三原は少しだけ口を噤んだ。ワタシは突如訪れた沈黙に何故か心がざわつくのを覚えた。しかしすぐに三原はふふと微笑み、ワタシの方を見る。それがワタシの好きな屈託のないいつもの笑顔だったので、ワタシはさっき見た三原が見間違いだったような気がし始めていた。

 ふいに研究室の戸が開き、ワタシ達は身構えた。きっと恒山先生が来たのだと思っていたが、飛び込んできたのは高山理子だった。

「時間ギリギリや、どうけ、間に合ったんけ、遅刻なんけ」

「大丈夫。まだ恒山先生はいらっしゃってないよ、りこち」

 息を切らした高山さんに三原が声をかけた。

「ああ、杏奈、滝沢さん。やっほう」

 高山さんはワタシ達の姿を認めるなり駆け寄った。勢いが良すぎたのか、途中で机をひとつなぎ倒した。彼女は巨躯を大袈裟にさすりひとしきり痛がってみせてから、机を使っていた女子生徒にウインクひとつで損害を賠償した。

「ごめんあそばせ」

「ううん、うちらは大丈夫だよりこち。りこちに怪我がないかだけが心配だよ」

 高山さんと机の被害者がやり取りしている間、三原がすっと入って机を直した。あっという間に元通りだ。瞬きひとつほどの時間だった。

「凄い音だったね、りこち大丈夫?」

「いやあ、参ったわ。見てや杏奈、アタシの繊細な肌が傷ついてしまったわ。でもまあ、人生長いんやから机のひとつやふたつ倒すこともあるわいね。ねー、滝沢さんっ」

「うん」

 高山さんは豪快に笑い、ワタシの肩にぽんと手を置いた。そして、ふざけてぼいんと一度身体をぶつけてきた。思った以上に勢いと重さがあり、ワタシはよろけそうになるのを必死に堪えた。これが彼女の親愛の重さなのだ。受け止めなければいけない。

 高山さんは時間ぎりぎりに飛び込んできたというのに、恒山先生はまだ来なかった。ワタシ達は暫く待ったが、五分十分と待っても一向に来ないため、三原が立ち上がって研究室の皆に向かって呼びかけた。

「恒山先生が来るまで、各グループ電子テキストについての進捗状況の確認と今後の打ち合わせをしてください」

 三原の呼びかけで各グループそれぞれ集まって打ち合わせを始めた。ワタシ達Cグループも集まった。高山さんはチョコレートをもぐもぐと頬張りながら、ひほふ、と言った。

 ワタシ達Cグループは結局手打ちで電子テキストを作成していた。テキストスキャナーを使うという案もあったが、実際に使ってみると上手くいかなかった。本文を読み込むのは良いが、「おばあさん」が「おぱあさん」になるなどの読み込み間違いが随所に見られた。

 原本と読み込んだテキストを見比べ、間違いをひとつひとつ修正していく案も出たが、その手間と、最初から打つ手間となら、後者の方が断然楽だということで手打ちに決まった。

 ワタシ達の中で進捗状況が最も良いのは三原だ。彼女はパソコンで文字を打つのがとても速かった。ワタシもパソコンの扱いには慣れており、ブラインドタッチもできるのだが、三原は段違いなのだった。彼女が実際にキーを叩く姿を見たことがあるが、彼女は話すのとほぼ同じスピードで文字を打つ。

 進捗状況が次に良いのは意外にも他所のコースから来た怪獣の島津さん、その次が一つ後輩の山根隆だった。

 逆に進捗が芳しくないのは高山さんだった。高山さんはパソコンを使えないのでスマホでテキスト入力をしているが、打つのが遅い上に間違いも多かった。機械に疎いのかと思っていたが、単に面倒くさがっているだけのようだった。今日も前回確認したところからほぼ進んでいなかった。ところが本人は「すごいやろ、先週から一ページも進んだがやぞ」と得意顔なので、ワタシと三原は無言で顔を見合わせた。

 三原がルーズリーフに現在の進捗状況をまとめ始めた。電子テキスト化の作業は、研究発表がCグループにまわってくる前に何とか終わらせておきたいところである。三原と島津さんのペースは何ら問題ない。ワタシと山根くんもこのままいけば大丈夫だろう。しかし高山さんは予定よりもかなり遅かった。早く終わった三原が高山さんの分を打つにしても、厳しいものがある。

 三原が険しい顔でボールペンを走らせる。ワタシもそれを覗き込んだ。チョコの甘い香りがしたと思ったら、高山さんの顔もぬっと現れた。

「それ、それそれそれそれ」

 高山さんは急に三原のボールペンを指さした。

「出たあ、例のそれ。イカホロ。アタシあんたのこと好きやし、尊敬しとるけど、こればっかりは理解できんぞいね。気色悪くてしゃあないわ」

 三原のボールペンには虹色のシルエットが印刷されていた。よく見ると『宇宙虹人イカホロ』とロゴが入っている。

 高山さんはボールペンを指さして嬉しそうに笑っている。

「そんなん子供が好きなやつやろ。成人した女子がいつまでも持っとるが、おかしいやろ。普通の感覚と違うわ。特にアンタの鞄、同じやついくつもいくつもつけて、きちがいみたいやわ。アタシが秋間くんにきゃあきゃあ言うがはわかるよ。秋間くんは実在しとるからなあ。でもイカホロはないわあ」

 高山さんはうふふふと愉快そうに笑った。秋間くんは男性アイドルの名前だった。そっちの方面に疎いワタシですら名前を知っているくらいの人気者だ。

「杏奈、あんたひょっとしてイカホロと付き合えると思っとるが?」

「いや、イカホロをそんな目で見たことはないかな」

「そうやろうなあ、もし頷いたらどうしようかと思ったわ。うふふふ」

 高山さんは笑いながら大袈裟に天を仰いだ。楽しいことが大好きな高山さんは、とにかく何でも囃し立ててその場を盛り上げるきらいがあった。

 高山さんの楽しそうな声に反応して研究室にいる人間が少しずつこちらを見る。くすくす笑っている者が何人かいた。自分が注目され高山さんはご満悦らしかった。

「いやあ、痛い人もいたもんやわ。なー、みんな指さして笑ったろ。滝沢さんも一緒に笑お」

 高山さんはワタシの肩に手を置いて言った。しかしワタシは高山さんに返事をすることができなかった。

「あ? 誰が痛い人だって? イカホロを馬鹿にすんな。我々が一体誰のおかげで日々楽しく過ごせてると思ってんの? イカホロ様がダイダイ皇帝から地球を守ってくださったおかげだろうが? え?」

 三原が高山さんの横腹を肘でぐりぐり突いた。顔はいたずらっぽく笑っている。声も明るくあっけらかんとしていた。

「いややばい。その発想がマジでやばい。妄想と現実の区別がついとらん」

「あ? イカホロ様は現実だぞ。イカホロ様の名誉と誇りを傷つけるやつは誰であろうと私が許さん。アヌエヌエの矢を浴びて浄化されろ」

「ア……なに? ようわからん矢を浴びて浄化されろって何やそれ怖いわ」

 高山さんがそう言うのと同時に三原があははと笑い始めた。

 爽やかな夏の空を思わせるような笑い声だった。彼女の笑い声に影響されたのか、研究室にいた人間のほとんどが笑い始める。

 笑いに包まれる研究室の中で三原はにこにこ笑いながらイカホロのボールペンを仕舞い始めた。

 高山さんは明るくて人懐っこく、いつも輪の中心にいる女の子だが、とても繊細で気難しいことで有名だった。さっきまで笑っていたと思えば急に機嫌を損ね、押し黙ってそっぽを向く。それだけで済めばいいが、高山さんに嫌われたが最後、徹底的に冷たくあしらわれ、無視を決め込まれ、遠回しに嫌味を言われたりする標的になる。

 高山さんはどういうわけか「一人」を選んで執拗に攻撃するという悪癖があり、この研究室の学生は自分が標的に選ばれるのではないかと日々戦々恐々としていた。ワタシ達はたびたび根回しして高山さんに新しく選ばれた標的を確認し合っていた。そして標的から解放された学生は涙ながらに喜ぶのだった。ひとつ先輩の角野さんなど、安堵のあまり泣き出したほどだった。

 三原は研究室で高山さんを上手く扱える唯一の存在なのだった。高山さんは三原を気に入っており、三原もそれを自覚して高山さんの傍についていた。高山さんが問題を起こしそうなときはすぐに三原が割って入ってその場を繕う。三原の言うことなら高山さんも素直に聞くのだ。

 ワタシ達は三原に感謝する一方で、何か起こったときは三原が何とかしてくれるだろうと甘えていた。事実、面倒ごとはすべて三原が何とかしてくれるのでこの研究室ではすべてを三原に押し付ける風潮ができつつあった。

 そうこうしている内に恒山先生がプリントの束を抱えてどたどた研究室に入って来た。

「すみませんすみません。ちょっと印刷に手間取っていたものですから。さあ皆さん席に着いてください。今から授業を始めます」

 ワタシ達はぞろぞろと席に着き筆記用具を取り出した。ふと高山さんが、遠く離れた席に座っている島津さんに向かって言った。

「はあ、島津さん。もう少し近くに座ってくれませんかね。アタシ達グループで固まって座ってるんで、そんな離れた場所に座られたら困るんですよね。考えたらわかるんじゃないですかね」

 島津さんは顔を真っ青にして、ばねのように立ち上がった。そして、

「ごめんなさい」

 と消え入りそうな声で言ってから、高山さんの席の近くに座り直した。しかし島津さんが近くに座ったら座ったで、高山さんは心底嫌そうに舌打ちをして顔を顰めた。研究室が水を打ったようにしんと静まった。

 三原が高山さんと島津さんの間に挟まる位置に座り直し、ワタシの前の席がぽっかり空いた。

 さっきまで上機嫌にべらべらと喋っていた高山さんは、今は歯を食いしばってぎっと押し黙っている。鬼のような表情は非常に迫力があり、ちょっとした魔除けに使えそうだ。

 恒山先生が前の席の学生にプリントの束を渡し、グループでまわすよう促した。Cグループでは島津さんにプリントがまわって、そこから山根くんとワタシと三原が次々に自分の分を取っていった。高山さんだけがそっぽを向いて取らなかった。

「あの、高山さん。プリント……」

 島津さんが声を掛けて促しても高山さんは返事をしなかった。島津さんの顔すら見ない状態だった。聞こえているのに聞こえないふりをしている。見かねた三原が、

「ねえ、りこち、りこち。島津さんが話しかけてるよ」

 と声を掛けるとさすがに無視できないのか、

「はあ、すみません」

 と言って、渋々島津さんからプリントを受け取る。そしてその後、高山さんはこれ見よがしに鞄からハンカチを出して手を拭った。

 島津さんは席に座り直し、じっと俯いていた。

 研究室にいる学生たちが居心地悪そうに高山さんと島津さんから目を逸らした。

 島津さんの得体の知れなさはこの頃すでに研究室内に知れ渡っており、誰もが島津さんを恐れていた。高山さんの機嫌を損ねて標的になるのと同じくらい、島津さんに懐かれることがワタシ達は怖かったのだ。高山さんが言いふらすので飴の雨のこともクラゲのこともはじかみ生姜のことも研究室の皆は知っていた。学生たちは自分がそんな目に遭ったらどうしようと身震いしていた。

 この研究室で島津さんに話しかけることができたのは三原だけだ。持ち前の責任感の強さからか、むしろ積極的に話しかけているように見えた。島津さんが高山さんに潰されないよう、様子を見ているのだろう。授業と関係ない場所でも三原は島津さんに交流を持ち掛けていた。図書館の前で三原が島津さんに話しかけているのをワタシは見かけたことがある。

 このことは高山さんも気付いていた。

「杏奈が最近島津さんとよくおるがは、アタシのせいねん。アタシのせいで杏奈が犠牲になっとるがん、アタシもようわかっとる。この間なんて、食堂で島津さんとお茶しとったわ。杏奈にそんなことまでさせとるがは、他ならぬアタシや。分かっとるげん。分かっとる。けど、どうにもできんげん。アタシ島津さんを見ると、どうしてもイライラしてしまうげん。だめやって思っとるけど、きつく当たってしまうげん」

 高山さんはワタシにこう漏らした。島津さんが標的になる前はワタシが高山さんの標的だった。つい最近までワタシは高山さんにろくに口を利いてもらえなかったというのに、高山さんはそのことをきれいさっぱり忘れているのだった。

 どうしていいかわからないと言った高山さんは、島津さんにますます厳しく接するようになっていた。ワタシ達は、島津さんが近いうちに授業に来なくなるのではないかと思っていた。それでも島津さんは青い顔をして出席し続けた。

「わたしが休むとCグループのメンバーに迷惑がかかってしまうから、頑張ります。それに三原さんが親切にしてくれるから、なんとかやっていけます」

 あるとき島津さんが三原にそう告げているのを聞いた。その顔は初夏の空のように真っ青だった。

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