第3話 高山理子(3)

 恒山先生の日本文学演習が始まってから一か月が経とうというのに、島津さんは相変わらず我が日本文学研究室のドアをおっかなびっくり開ける。びくびくと震えながらドアを開けて、いったい誰に謝っているのか、すみませんと言って背中を丸めておずおずと入って来る。

「島津さん、やっほう」

 アタシは笑いながら島津さんの肘辺りをつついた。

 おっかなびっくりだった島津さんは、アタシの顔を見るなり表情を変える。緊張で強張っていた島津さんの顔は、みるみる溶けて別人のようになった。そしてアタシはその表情に怯んだ。アタシは島津さんのこの表情が怖かった。

「今日もいい天気やねえ、春のこの季節が一番いいわ。花粉は嫌やけどね」

「あ、りこちって花粉症なんだ、可哀想、その点わたしはまだなんだ。ふふ、羨ましいでしょ」

 適当に相槌を打つことなんか簡単なことなのに、アタシは言葉に詰まって島津さんの顔を見つめることしかできない。りこち、という島津さんの言葉を聞くとアタシの身体は強張ってしまう。いつの間にか島津さんはアタシのことをりこちと呼ぶようになっていた。 

「春のこの季節ですが、サンタさんからのプレゼントがあります」

 アタシの暗い表情に島津さんは気付くことなんてない。多分そういうことを読み取るのが苦手な子なのだ。島津さんはへへへと笑い、キルティング生地のおけいこバッグから、ガムを一本取り出す。底に押し込まれていたのだろう、きゅうりみたいにしおしおに曲がっていた。

「メリークリスマス、みんないい子にしてたかな」

 島津さんはガムをひとつぶちりと引きちぎってアタシの手に乗せた。大きな直方体の固形ガムだ。歯磨きガムと書いてある。

 島津さんはプレゼント癖があるようで、研究室に来るたびに何かとアタシ達に与えようとした。それは大抵食べ物で、先週なんかは「すっごくおいしいよ」とスーパーの袋からクラゲのサラダのパックを出してきた。たった一膳の箸でつまんだクラゲをグループ全員に向けてくる島津さんを前に、アタシ達は黙り込むしかなかった。黙り込んでいたので誰も口を開けなかった。

 それが、今日は歯磨きガムなのだった。

「メリークリスマス、どうぞお二人も良かったら。お二人は当然いい子だと思うので、あげちゃいます。なんて、ね、ふふ」

 島津さんは媚びるように笑って、既に席についていた山根くんと滝沢マヤの机にかこん、かこん、と歯磨きガムを置いた。歯磨きガムは固形のためいい塩梅に固く、机に当たるとほどよい音を響かせるのだった。二人は渋い顔をしてぽつんと置かれた直方体を見ていた。

「ほら、杏奈も。メリークリスマス、ね」

「うん、ありがとう島津さん。……でも、そんなに気を使わなくてもいいんだよ」

 島津さんは杏奈の手にも歯磨きガムを押し込む。杏奈は優しく笑っていたが、戸惑いは隠せないでいた。杏奈の言葉をそのままの意味で受け取った島津さんは、

「気を使うなんてそんなことないの、全然。わたしがあげたいだけだから。そうだ、いい子の杏奈にはもう一個おまけであげちゃいます。あげるんじゃよ、ホ、ホ、ホ」

 ホ、ホ、ホの笑い声にまるで割り込むようだった。眉間に皺を寄せ黙り込んでいた山根くんが、きっと顔を上げて島津さんに言った。

「いりません、困ります」

 はっきりした声だった。睨みつけるような眼をしていた。眉間にはやはり深い皺が刻まれていた。それに便乗するように滝沢マヤも言う。

「悪いね島津さん、ワタシもいらないよ。でも、ウェブマネーカード二千円分ならいつでも受け取るから、そのときは是非お願いします」

 滝沢マヤは笑いながら青い直方体をつまみ、島津さんの方に向けてすっと差し出した。島津さんはさっきまでの饒舌な調子はどこへやら、あっ、えっ、とか言いながらどぎまぎし始めて、研究室に入って来たときと同じ調子に戻ってしまった。

「うん、だからほら。ね」

 滝沢マヤは促すように、つまんだ直方体をもう一度島津さんに突き出してみせる。

「あっ、はい。ごめんなさい……」

 島津さんは顔を真っ赤にして、消え入るような声でそう言い、俯き震えながら直方体を受け取った。山根くんも島津さんの手にそれを乗せ、直方体を返却した。

「島津さん、私はもらっておくよ。ありがとうね。でも、もう二人には持って来なくて大丈夫だからね」

 杏奈が優しい声で言った。アタシは手のひらに残っている歯磨きガムを見つめる。できればアタシにも、もう何も持って来ないでほしい。

 ガムを握りしめて立ち尽くすアタシと島津さんの目が合った。すると、島津さんはぱあっと顔を明るくして、この不穏な空気におよそ不釣り合いな明るく大きな声を出した。

「ねえ、ずっと思っていたんだけど、りこちって目を怪我してるの? いっつも赤いよね」

「え?」

 アタシはいつも赤とグレーのツートーンのシャドウを入れている。目頭は赤に、目尻はグレーに。これはアタシのこだわりで、この二色を入れることでアタシの目には強い光が宿る。アイメイクを終えたあとに鏡を覗き込むと、アタシの目は鋭く光りだし、今日がどんな日でも乗り越えて見せるという強い気持ちになれるのだ。これはいわばアタシの大切な儀式のようなものだった。

 直方体を握りしめるアタシの手が震えだす。島津さんはへらへら笑い、薄汚れたキルティング鞄に手を突っ込んだ。

「わたし、良い塗り薬持ってるんだあ、貸してあげるね」

 島津さんが取り出した小さなチューブの塗り薬は、ずっと鞄の中で放置されていたのだろうか、細かい糸くずがいくつもいくつも巻き付いていて、おまけに消しゴムのかすの潰れたようなものがべったりとキャップに張り付いていた。

 アタシが押し黙っていると、島津さんはすっと薬を引っ込めて、ひっくり返ったような明るい声を出した。

「なんちゃってね、嘘だよ。それが怪我じゃないってこと、ちゃんとわかってるよ。メイクだよね。ふふ、りこちのそのメイクってさ、はじかみ生姜に似てるよね。ほら、知ってるでしょ。煮物とかに添えてある、細長くって片方が赤い生姜のさあ……」

 アタシはぐっと直方体を握りつぶし、島津さんを睨みつけた。掌に直方体の角が刺さってぎりりと痛む。アタシはそれに負けないように島津さんを睨む。強く、強く、島津さんの身体を貫いてしまえるほど、鋭く。鋭く。鋭く。

「あ、あれ、怒ってる? ごめんねえ、りこち……」

「気やすく呼ばんでくれますかねえ!」

 アタシは吐き捨てるように言った。島津さんがびくりと身体を震わせる。その隙を見逃さず、追撃するように言う。

「名字で呼んでくれますか、島津さん。アタシらそんな仲と違うんで。失礼ですよね、アタシいつあだ名で呼んでいいって言いました? 少し考えればわかるんじゃないですかねえ! そうでしょう!」

「あの……、ごめんなさい……。次から名字で……、高山さんって呼びます……」

「はあ、そうですね! そうしてください!」

 アタシは島津さんを軽蔑していた。憎み始めたといってもいいかもしれない。周囲に迷惑を掛けてばかりで、人の気持ちを考えることのない、礼儀を欠いた人間を、アタシはどうしても受け入れることができない。

 アタシはもう二度と島津さんを気遣うこともしない。声も掛けない。同情もしない。アタシは白黒はっきりつける性質の人間なのだ。

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