第3話 記憶

III


なぜ僕の母が「虫」として目の前に現れたのかはわからない。


母と連絡を取らなくなってから、もう数年が経っていた。今さら彼女の生存確認をしようなどとは思わない。それほど、母との距離は遠くなっていた。


ただ、やはり状況が状況なだけに、やはりメッセージでも送って反応があるかを見ることにした。しかし、返事はない。


もし母がこの「虫」でなければ、今頃彼女はどこにいるだろうか。幼い頃に見た、母の笑顔を思い浮かべた。


メッセージに続き、勇気を振り絞って電話をかけてみることにした。しかし、電話番号が思い出せないうえ、登録もされていない。仕方なく妹に聞いてみることにした。


妹の反応は妙なもので、うまく状況を飲み込めているのか怪しい様子だった。4歳年下の妹は、その時大学受験を控えていて、この頃いくらか落ち着かない様子だったが、それが原因でもなさそうだった。


それはどこか、見知らぬ人への反応、他人ごととまではいかないが、実感の湧かないような反応だった。


無理もない。母がいなくなったのは、彼女が5歳のころ。記憶の中に朧げに残る母が、突然「虫」として表れたと説明しても、実感を持つことの方が難しいだろう。


とにかく彼女から母の番号を聞いた僕は、おそるおそるかけてみる。しかし、待ってみても一向に繋がらない。時間だけが過ぎていった。


メールもだめ、電話もだめ。こうなれば「虫」に直接訊いて見るしかない。覚悟を決めなくては。


「虫」の帰宅後、僕はここに来るまでの経緯について尋ねた。不思議なことに、以前「虫」が何をしていたかなど、これまでちっとも気にならなかった。


「虫」は答えようとする、が言葉が続かない。どうやら、その記憶は僕がこの「虫」に出会う直前からのみに限られているようだ。


僕が扉を開けて、「虫」と対面してから、「虫」は自らを認識し、僕を認識したのだ。


この「虫」に、人間だった頃の記憶はなかった。

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