第2話 潮崎という声優
「──し、潮崎さん」
あたしの思考は、なぜという言葉で埋め尽くされた。
なぜ塩崎がここにいるのか。
なぜ潮崎から雫さまの声がするのか。
そんなこと、ちょっと考えれば答えに行き着くはずなのに、理解が追いつかない。
「……青山さんだったんだ、藍子って」
ボソボソと、教室と同じように潮崎さんが喋る。
「あー、うん。その、なんていうか……」
どう言葉を紡いでいいのかがわからない。
「とにかく、今日はよろしく!」
思考を放り投げて、あたしはそう言った。
「あっ、はい。よろしくお願いします」
目の前にいる潮崎さんは、やっぱりあたしの知っている潮崎さん。地味で芋っぽい少女。服だって地味なジャージ。
彼女があの雫さまだとは信じられなかった。けど、最初の第一声は間違いなく雫さまの声だったし……。
「お、なんや。おまんら知り合いかいな」
と、スタジオに入ってきた男性が、あたしたちに声を掛けてきた。四十代ぐらいだろうか。
「おはようさん。雫ちゃんに──そっちは知らん顔やな。わしは
この気さくな人物の名前は知っている。高空透。知らない人はいないであろうレベルの人気声優。低くて落ち着いた声から、高くてハイテンションな役までこなしていて、国民的人気アニメのレギュラーまで得ている。
そのオーラに圧倒される。ベテランのオーラとでもいうのだろうか。目の前にすごい人がいるという事実があたしを緊張させる。
「は、はい。プラチナムリンク所属の青山藍子です! 本日はよろしくお願いします!」
「プラチナムリンク? あぁ、配信者系の事務所の。芝居の経験は?」
「シチュエーションボイスをやっています」
「ほー。ほいなら期待できそうやな」
高空さんは、ソファの真ん中より少し横に座る。台本も開かず、くつろいでいるようすだ。
「雫ちゃんも、いつも通りのいい芝居、期待しているよ」
「はい、頑張ります!」
そう答える塩崎さんの声は、やっぱり良く通るハスキーなイケボで、彼女が雫さまだという事実を裏付けていく。
……もしかして。
「潮崎さん、吹き替えの仕事って初めてなんだけど色々教えてもらえる?」
「あっ、うん……」
そう言う潮崎さんはいつものトーン。なるほど、これはあたしが話しかけると教室のトーンになるらしい。なんで、と言う疑問は置いておく。
「出番になったら、立ち上がってマイクの前で芝居をする。この時音は立ててはいけない。出番以外はソファで待機。タイムはメモしてある?」
ボソボソと潮崎さんがそう説明してくれる。そのトーンがいつもの彼女だから、あたしは彼女と雫さまを同一の存在として結びつけられないでいた。
「それぐらいはわかる。あと気をつけるところは?」
「うーん、そうだね……タイミングは合わせているみたいだし……あとがいい芝居をするだけかな」
「そっか、わかった。ありがと」
いい芝居かぁ、とあたしは思う。いい芝居の答えってなんなのだろうか。
人を感動させる芝居?
臨場感のある芝居?
なんにせよ、あたしはあたしの出せる全力を出すだけだ。
ただの客寄せパンダとしてのあたしを、あたしは覆してやると決意したのだった。
スタジオに何名かの声優が集まったあたりで、収録が始まった。最初にヴィランの会話があって、殺人事件が起きる。そして、潮崎さんが演じる主人公──ジェイミー・ボンドが登場する。
「君、名前は?」
初老の男性がジェイミーに問う。そして、
「ボンド。ジェイミー・ボンド」
と潮崎さんが声を出した。
低い、キャラクターに合わせた芝居。クールな主人公に合わせた芝居はハードボイルドで、かっこいい。
「ジェイミー、覚えておこう」
「いえ、お気遣いなく」
あぁ、これは紛れもなく雫さまの芝居だ。この瞬間、あたしの中で潮崎さんと雫さまが完全にリンクした。
完璧な芝居だ、とあたしは思ったのだが──。
『あー、今のところもう少し──ほんのわずかだけトーンを上げて芝居してくれるかな?』
映像が止まって、音響監督がそう言った。即座に、
「はい!」
と潮崎さんが返事をした。映像が巻き戻り、再び同じシーンが始まる。
「いえ、お気遣いなく」
微妙な変化なのだろう。あたしには声のトーンの違いがよくわからない。
今度はストップがかからない。OKだったということなのだろう。
そのタイミングであたしは立ち上がる。台本を持ってマイクの前に立ち、自分の番が来るのを待つ。
「ミス・ボンド。お話いいかしら?」
タイムが台本にメモしたところまで来たら、あたしはそう声を出す。同時に、ヘッドホンから原音のセリフが聞こえる。
これは、思っていたよりも難しい。セリフの尺や、原音の再現が困難だ。
シチュエーションボイスの場合、芝居は全てこちらに委ねられる。間の取り方、声のトーンに抑揚の付け方。芝居の根幹、感情までもが演者のもの。もちろんディレクションによって変化させることもあるが、基本は自分本位だ。
しかし吹き替えは違う。吹き替えの仕事とは、すでにある芝居に演技を乗せること。それがあたしには難しかった。
『はいストップ。今のとこね、セリフが走っていたから気を付けて』
「は、はい!」
何度も何度も同じセリフを言う。ミス・ボンド。ミス・ボンド。スタジオの空気が重くなっていく。
そしてついに、
『うーん、ちょっと後にしよっか』
と言われてしまったのだった。それを聞いて、
「赤井さん、ちょっといいですか」
と潮崎さんが発したのはなぜか。
『うん? あー、押しているから早めにね』
「ありがとうございます──青山さん、ちょっと」
潮崎さんはあたしの手を取り──以外と筋肉質な手のひらだ──、スタジオを出る。
スタジオが入居している雑居ビルの廊下の壁に背中をつけ、
「……本気で芝居してよ」
いつものボソボソとした声で。
鋭い、刺すような目線をこちらに向けてそう言った。
ギャル配信者の推し声優がクラスの地味子でした!? アトラック・L @atlac-L
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