第20話

「可哀想。」

その言葉はよく掛けられたが、私は今疑問に思っている。

なぜなら、本当に可哀想な人に、本人をつかまえてまで可哀想と言いに来れるだろうか?

私が言いたい事。

本当は可哀想と思っていないのではないかという事だ。

何か、私にはあってお前にはない、そんなものがあるのではないか?

まさかな。

お前が、私の家の3分の1位の家に住んでいるから。

まさかな。

私が母の傍にいる時間を長くとれているから。

そんな僻みじみたそんな事で、犯罪にまで手を出して、警察に言われている。

まさか、そんな事はないよな?

お前はいつも上から目線だ。

そんなお前が僻む。

それは、ないよな?

父が亡くなって、犯罪の被害にも遭いながら生きている私を僻む。

そんな事は有り得ない。

なぜなら、それだと本来の私はお前より随分上の方にいる事になってしまう。


人間の選択は、時にその選択をした人間の本性を垣間見る事が出来る。


例えば、


夕刻の時。

旦那が亡くなって泣き続けた私の母がいる。


深夜1時。

酒に酔って「じゃんけんぽん。」

楽しく騒いだ女がいる、とする。


さて、どちらを笑いものにしたいでしょうか?


うちの近所は、前者を取る。

何があっても。

元々おかしな地域だった。

時代が進むにつれ、全てが進歩し、技術が進んで豊かになっていくかと思いきや、うちの近所は逆行しているらしい。

私の同級生。

私の家をマンションと言った子は1人もいなかった。

だが、今はマンションと言われている。

ガレージでタバコを吸うやつ。

注意すれば、ここはおたくの家か?と返す。

近所の小学生はガレージの中でままごとをし、小学校に電話を掛けて先生に連れ帰ってもらう始末。

目が合えば

「何を見てんねん。」と言う男。

だからと言ってこの男が、どこかの組織に属していて、

「身も心もうずめる覚悟です。」

と、独身を貫いていそうでもない。

こんなセリフは一生独身の人間だけに使ってほしい言葉である。

目も合わせずに、誰かと付き合い、子供が出来る事など100%ないからだ。

そして、そんな近所は、老人から子供まで、皆、一斉にスマホを持った。


「店の奴等に土下座させてでも謝らす。」

なぜ、そんな言葉が私の前で発せられるのか。

私は知っている。


仕組まれたように、示し合わせたように、静まり返ったあの日。

いつもならその時間、店の前にお待ちの行列

が出来ている。

前のベンチも、私の写真を撮り続ける人々でいっぱいだ。

それがあの日、あの時だけ。

私と母とその店の店長だけになった。

その後、警察2名が追加される。


それでも2階からはその様子をずっと撮影し続けている奴等がいた。

そいつはいつも通りの事をしていたのだろう。

悪い奴等だ。

ただ、こういう事態でもレンズを向け続けたのは評価出来る。

なぜなら、警察が来た時だけレンズを向けない、撮影しないというのは卑怯者としか言いようがないからだ。

そして、そいつはそこで起きていた事を正しく伝えている。

警察の前で、頭を下げたのはどちらだったのか。

私と母か?それとも、店長か?

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