第4話 言い訳
大学時代の友達の中で、一番気が合っていたにが、梅林和也という男だった。
お互いに、相手のことがよく分かっていたというか、気が合っていたといっても、
「気持ちが通じ合えた」
というわけではなく、どちらかというと、
「相手の考えていることがよく分かる」
というものだった。
梅林は、自分からは言わなかったが、感じている思いは、お互いに一緒だったことだろう。
二人の間には、
「阿吽の呼吸」
というべきか、それとも、
「以心伝心」
といえばいいのか、相手の行動を見ていると、相手が何を考えているのかが分かるのだ、
だからといって、
「親友になりたい」
というような相手でもない。
どちらかというと、相手をけん制しているようで、緊張感が、他の人といるよりもあるせいか、結構疲れてしまうのだった。
そういう意味では、本当は二人きりになりたくない相手だったのに、なぜか、二人きりになることが多かった。しかも、それは偶然ではなく、気が付けば二人きりになることが多く、考えてみれば、
「皆といたとしても、そこには結局、二人だけの世界を作ることになったのかも知れないな」
と桜沢は感じたのだ。
きっと梅林もそう思っているのは分かっている。
お互いに、自分の考えていることの奇抜さや、その奇抜さをどこまで自分の中で封じ込めておけるかということを考えても、結局封じ込めることができずに、違う形で表に発散させることになるのだった。
しかも、お互いに不器用なようで、まわりの人に気を遣っているくせに。気が付けば嫌われるようなことをしてしまっていたのだ。
桜沢の場合は、
「他人と同じでは嫌だ」
という考えがあるから、抑えきれない思いを、違う形で発散させてしまうので、まわりからは、疎まれているようだった。
だた、梅林の場合はそうではない。
彼も自分の気持ちを抑えきれずに、持て余しているようだったが、彼の場合は、なるべくうちに籠めているようだった。
そのあたりが、それぞれに性格的に違っているところであるが、梅林にとって、桜沢のことを意識しているのは分かるのだが、考えていることの奥底までは、さすがに分からなかった。
そう思っていると、桜沢も、自分がどこまで分かっているのかということも、次第に自信がなくなってきていた。
自分のことがよく分からないのは、しょうがないと思っている。
自分のことは、鏡などの媒体を見ないと、決して見ることができないということで、自分で自分が分からないのは当然だと思っている。
だから、桜沢は他人を見るのだ。
他人が自分をどのような目で見ているかというのを感じ取ることで、それを見て、自分の性格を見る。
「人の振り見て我が振り直せ」
というよりも、
「人の目を見て、自分を知れ」
ということに近いのだと思うのだった。
「まるで、コウモリのようではないか?」
と感じる。
コウモリというと、
「暗い洞窟の中で暮らしていて、目が見えないために、自分で音波を出して、その反射で、まわりの状況を知る」
というものではないか。
梅林という男は、結構人に自分のことを話す方だった。そこが、桜沢との一番に違いであるが、それ以外は、ほとんど性格的にというよりも、性癖にといえばいのか、似たところがある。
ここでいう性癖というのは、
「性的なこと」
というわけではなく、どちらかというと、行動パターを伴う、考え方というところであろうか?
ほぼ、桜沢が感じたことを裏切らない行動パターンだといってもいい。
それなのに、たまに、梅林のことが無性に怖くなることがある。
「分かっているからこその恐ろしさというのもあるのではないだろうか?」
とも考えられた。
自分が相手のことを分かっているのと同じで相手も、こちらのことを分かっている。そう考えると、
「お互いに分からない者同士の戦いと、お互いに分かっている者同士の戦い。どっちが恐怖を感じることになるんだろうか?」
と考えてみた。
どちらとも言え売が、前者が探りながらのもので、後者が、アグレッシブな戦いになりそうな気がした。しかし、よく考えてみると、そうでもないような気がする。
「手の内が分かれば分かるほど、相手に攻めにくくなり、身動きができなくなってしまうのではないだろうか?」
と考えるからである。
お互いに守りに徹する人間同士の戦いと、攻めに徹する人間同士の一騎打ちということになると、その戦い方が難しくなってくる。
「相手のことをよく分かっている」
というのが、果たしていいことなのかどうなのか? 難しいところなのではないだろうか?
桜沢は、高故意時代までに、人のことが分かるという感覚を味わったことがなかった。
「人が何を考えているかなんて、神様でもない限り、分かるはずなどない」
と思っていた。
だから、逆に、人からも自分のことを分かるはずがないとタカをくくってきたのだが。人のことを分かるというのは、一歩間違えると、自分の命取りにもなりかねないということだ。
それこそ、
「一つのかごの中に、二匹のサソリを入れるようなものだ」
ということになるのだろう。
それは、
「お互いに、相手を殺すことはできるが、相手に殺されることも、覚悟しなければいけない」
ということを意味しているのである。
それは、よく、
「核の抑止力」
という話の時に、たとえ話として出てくるものであった。
核兵器というものがいかに恐ろしいか。それは、
「報復がある」
ということである。
こちらが、一発打ち込めば、相手も報復で打ち込んでくる。もうそうなると戦争は別の形になってしまうのだ。
戦争というのは、できればしたくはない。そのために、戦争を始める前から、和平協定を行っていて、万が一戦闘が始まっても。必ず、どこで矛を収めるかということを模索するようになる。
そのためには、先手必勝で、ある程度有利に戦闘を勧め、その余波を買って、いかに都合のいいところで戦闘をやめるかというのが問題なのだ。
つまり、最初に一気に攻めて、相手を攻略すれば、
「相手が、戦意を喪失するかも知れない」
と考える。
そして、有利に和平交渉を進めるかというのが、先の大東亜戦争の戦争目的だったのだが、あまりにも緒戦で勝ち続けたので、矛を収めなければいけない時期を見失ってしまったのだ。
日本政府には昔からそういうところがあり、シナ事変でも、和平が成立しそうなところで、相手に条件を厳しくしたことで、せっかくの和平の機会を逃してしまった。それが、大東亜戦争のきっかけになったと言えるだろう。
お互いに、攻めに徹することに長けている場合、お互いが、防御にはある程度目を瞑って攻めに徹するというのも、一つの考えである。
「攻撃は最大の防御」
というではないか?
しかし、この言葉もその意味をしっかりと分かっていなければ、まったくの無駄になってしまう。
つまりは、同じ攻撃をするのでも、相手のペースに合わせてしまうと、お互いに先に進めなくなって、持久戦に入ってくる。持久戦というのは、ある意味、
「守りの戦い」
でもあるのだ、
一旦、持久戦に入ってしまったら、
「お互いに相手と同じことをしていては、埒があかない。かといって、先に動いてしまうと、相手の思うつぼに嵌ってしまう」
ということになりかねないではないか。
持久戦ほど、身動きが取れない。あるいは金縛りに遭って動けないということになるであろう。
突破口を開くには、
「相手を先に動かす」
という戦法もあるだろう。
こっちが、先に動くと見せかけて。相手に、先制攻撃の機会を与えることで、逆に別動隊が後ろに回って、挟み撃ちにするという手段だってある。
かつて、戦国時代に、薩摩の戦法に、
「つりのぶせ」
というものがあった。
これは、寡兵であるという、不利な状況を打開するという意味で、自軍を、いくつかに分けて、主力を正面に配置させ、正面で少し戦って、そこから慌てて後退しているかのように見せかける。ただでさえ兵の数が少ないのに、さらに兵を分けるのだから、ある意味自殺行為だといってもいいだろう。
さすがに、相手と緒戦力さを見せつけられて、臆する形で後退するのも無理のないことであろう。だから、相手は疑わずに、逃げる相手を追いかける。
そしてその隙に、別動隊をさらに二組に分けて。逃げる横から、潜ませておくのだ。
敵が罠に罹っているのを幸いに、別動隊が一気に横っ腹に向かって襲い掛かるというわけだ。
相手は、混乱するに違いない。楽勝だと思っていたのが、形勢逆転させられ、正面の敵にも抵抗する力がなくなってしまっているのだろう。
そのまま、まわりから挟み撃ちにされて。相手は、殲滅させられるに違いない。
ただ、この作戦も、
「もろ刃の剣」
だといってもいいだろう。
相手の総大将の頭がよくて、
「何かおかしい。罠ではないか?」
と思われれば、せっかくの作戦もうまくいかない。
また、奇襲であればあるほど、その評判は全国に知れ渡ることだろう。
しかし、そうなると、もう、
「奇襲は奇襲ではなくなる」
ということである。
そういう意味では、半永久にできるものではなく、ある意味、一回こっきりの作戦になりかねないということだ。
そうなると、戦に勝つために、
「次はもうこの作戦はバレてしまって、効果はない」
ということであれば、どんどん新しい作戦を考えなければいけない。
核兵器のような抑止力があればいいのだろうが、核兵器というのも、こちらも、同じ意味での、
「もろ刃の剣」
だといってもいいだろう。
戦争は、始めるよりも終わらせる方が数倍難しい」
と言われている。
それが、結婚と離婚でも言えることであり、別れてしまえば、余計に自分が何をしているのか分からなくなってしまうことだろう。
梅林は、自分の性格をよく人に話す。
「相手にわかってもらいたい」
ということになるのだろうが、その感情は分からなくもない。
逆に桜沢は人に話そうとはしない。なぜしないのか、自分でもハッキリとは分からないのだが、話をしてしまうことで、何かよからぬことが起こってしまうそうな気がするからなのだろう。
桜沢の親は、ちょっと、いや、かなりの神経質だった。桜沢が小学生の頃、学校で、筆箱を忘れてきたからといって、
「今から取ってきなさい」
と、学校に取りに行かせていたのだ。
学校まで、徒歩で、片道20分、しかも、一度帰宅してからなので、往復にさらに帰ってきた道のりを食わせると、歩くのは、普通に考えて、1時間ということになる。
正直、学校から帰ってきてから、疲れているのに、再度の1往復というのは、かなりの重労働となる。
しかも、やらなくてもいいことをやらされるのだから、これは、顔が真っ赤になるほどの屈辱だといってもいいだろう。
最初の頃は、
「なんでこんなことを?」
と思っていたが、そのうちに、
「これが当たり前のことなんだ」
と思うようになった。
つまり、
「うちだけのことではなく、皆、学校で忘れ物をすれば、親の命令で撮りに行かされているんだ」
と、慣れてくるにしたがって、当たり前のことだと思うようになっていた。
だが、学校の往復というのは、何回やっても慣れるものではない。本当に屈辱感は慣れによって、薄まることはなかった。
「だったら、忘れないように気を付ければいいじゃないか?」
と言われればそれまでのことなのだが、そうもいかないようだった。
意識すればするほど、忘れ癖はひどくなるような気がする。なぜなら、普段から、必要以上にしつこいほどに、
「忘れてはいけない」
ということを意識しているのだろう。
しかし、そう思えば思うほど、精神的な苦痛な時間がなくなってくる。
「少しでも気を抜けば、その瞬間、忘れてしまうことになるんだ」
と思うからだった。
しかも、実際に忘れる瞬間というのは、確かに、気を抜いた瞬間なのだろう、何しろ、忘れた瞬間、自分がいつだったのか、ハッキリとしないからだ。
気を張っている時であれば、後から思い出したとしても、その意識は忘れずにあるからではないだろうか。
そう思うと、母親から言われて、何度も何度も、繰り返して、学校に物を取りにいくというのは、ある意味、無駄なことに思えてきた。
母親の目的が何なのか、次第に分からなくなってきたからだった。
学校に取りにまでいかせるということは、本来なら、取りに行くという苦痛を味合わせて、
「忘れ物をすれば、取りにいくことになるんだ」
という戒めから、忘れないようにさせるという、教育の一環としての、一種の、
「体罰」
に近いものではないだろうか。
しかし、その効果が出ることもなく、何度も何度も、学校に取りに行かせるというのは、親の方としても、まったくの策がないということである。
ということになると、
「親の目的は、別にあるのではないだろうか?」
といえるのではないだろうか?
学校に取りに行かせるというのは、ある意味、一番安直な考え方だ。子供が屈辱に感じ、それで次回から気を付けるようになるのであれば、
「一発でうまくいくくらいの、荒療治ではないか?」
と思える。
それが、何度も何度もうまくいかないのであれば、普通だったら、
「やり方が悪いんだろうか?」
とは思わないのだろうか?
普通何度も失敗していれば、考えることであって、それをしないということは、
「最初から考えてのことではなかったのではないか?」
と思えてきた。
つまり、これは、戒めであったりするわけではなく、
「息子が忘れ物をしたということは、悪いことをしたというわけだから、体罰を与えなければいけない」
というだけの理由だったのではないかということだった。
そこに、
「子供のために」
などという意識は、微塵もないのではないか?
もし、何かあるとすれば、それは、世間体というものなのではないかと思うと、
「息子の不始末に対して、親としてやるべきことはちゃんとしている」
ということを、対面的に見せているだけだと考えれば、どこか辻褄が合う気がする。
忘れ物をしたのが分かった時、子供を叱っているというよりも、かなりヒステリックになっていて、叱られている子供の方が、
「お母さんがここまで苛立っているのは、僕のせいなんだ」
と、自分で自分を戒めてしまうくらいに、後ろめたさを感じることだろう。
そう思って、母親に対して、
「申し訳ない」
と感じることが、子供としての礼儀のように思っていたが、親が子供に対して、礼儀のようなものがまったくなかった。
「親は子供に対して、礼儀などということを感じてはいけないんだ」
と思っているのではないだろうか。
ここまで、子供が親に対して感じる思いと、親が子供に対して感じる思いに、差があるというのは、どういうことなのか、子供に理解できるものではなかった。
本来なら、先に気づかなければいけないはずの母親が、気づくどころか、余計に感情をあらわにするということは、子供に対して、どれほどの歪んだ感情を持っているかということになるのだろう?
母親の、元からの性格から来ているものなのか、それとも、まわりの人、特に親しい人の助言などを過剰解釈して、さらに、子供を持って、それまでの空想が現実になったことで、さらに過大な感覚を持ってしまったことで、発想が歪んでしまったのか。
または、これまで育ってきた環境を、自分なりに解釈して得た答えがこれだったのか、ハッキリとは分からない。
ただ、大学生になった頃、子供の頃を思い出して感じたのは、最期の考えではないかと思ったのだ。
と、いうのは、あれだけ頑なに考えを変えようとしなかったからである。
明らかな間違いだと分かれば、やり方を変えるくらいのことは思いつきそうなのに、頑なに自分のやり方を貫いたというのは、いい意味でも悪い意味でも、
「徹底していた」
ということであろう。
その徹底というのは、
「そこに、期間という絶対的な感覚が入っているからではないだろうか?」
と感じたのだ。
「時間をかけて、身に着いたものは、短い時間でどんなに濃厚に考えたとしても、勝ることはできない」
といえるのではないだろうか?
それを思うと、母親のやり方がよかったとは、絶対に思わないが、
「過去に育ってきた環境によって培われたものは、そう簡単に、切り離して考えることはできない」
ということであり、同情の余地くらいはあるのではないだろうか?
だが、そんな母親の態度が、いつの間にか、桜沢の中で、トラウマになってきていることに気づいた。
「俺が親になったら、子供に対して、自分が受けたこの仕打ちは、絶対にすることはないようにしないといけない」
と、思うのだった。
だが、母親も、たぶん自分の親から同じ仕打ちを受けたからこそ、自分の子供にも同じことをしているのだろう。
ひょっとすると、自分と同じように、
「こんなことは、自分だけではなく、他の子供にも当たり前にあることなんだろうな」
と、母親も思っていたことだろう。
それでも、理不尽さと、情けなさの極致にあり、やはり、子供には、同じ思いをさせないという気持ちをさらに強く持ったはずなのだ。
母親は、子供を叱りつける時は、ヒステリックになって、その態度のどこにも、
「子供のため」
という意識が入っていないように思えてくるのだ。
もっとも、ヒステリックになっているのは、相手を思う感情が消滅していて、自分のための感情のみで、自分を何とか正当化させようとするから、生まれる感情なのではないかと思うようになってきた。
大学生というと、子供というには、思春期も通り越していて、成人もしていることになり、
「まだ、子供」
というには、あまりにもであった。
ただ、それは親などのような肉親から見てのことだろう。これが、肉親以外の大人から見れば、
「まだ、就職もしていない、社会人になり切れていない人間を、大人だと認めるわけにはいかない」
と考えている。
しかし、逆に、親から見た時、
「子供はいくつになっても、子供のままだ」
と言われるではないか。
ここに、矛盾があるのだ。
つまりは、
「大学生になったのだから、もう大人だ」
という考えの中に、
「何か間違いをしても、まだ子供なんだ」
という意識があることから、何かあった時の言い訳にしたいという、一瞬の二段構えなのかも知れない。
何もなければ、
「大人だから」
ということで、いいのだが、何かあった時、
「まだ子供なのに、大人がやらせたのだとすれば、それは大人の責任」
ということで、子供のためというよりも、自分が納得したいために、言い訳を与えることになる。
というものであった。
それが、言い訳ということであれば、
「すべてが自分だけのための言い訳だ」
というのは、少し偏った考えにはならないだろうか。
子供と大人の狭間で、悩むことになるのは、これは誰にでもあることだ。
それが、大学時代になるのか、就職してからになるのか、それとも、成人式のような儀式を感じることで、自覚が強まることからなのか、大人と子供の間には、大きな結界のようなものがある、
母親も同じところを通ってきたのだろう。桜沢もその場所を通り抜けようとした時、本当は、トンネルが見えた時、
「あれが、大人になるためのトンネルだ」
と意識したはずだ。
だが、トンネルからはいつの間にか抜けていて、気が付けば明るくなっている。
「入る瞬間は意識できたのに、抜ける瞬間は分からなかった」
というのは、入る瞬間は、絶対に意識しなければいけないもので、出口はどうでもないからなのか、それとも、入る瞬間は意識しなくても、抜ける時は意識が必要なのかという、理屈として、どちらかだということになるのではないかという考え方とは別に、
「抜ける時に感じないことで、大人になったという意識を持つことができない」
ということから、子供の頃に大人になったら、こんな理不尽なことはしないようにしようと思っていた感情を忘れてしまっているのかも知れない。
それを忘れさせるのが、
抜ける時、無意識でいるということで、これが自己暗示なのか、別のどこかからの力によるものなのか、考えさせられてしまう。
子供の頃に感じた思いを大人になってしまうと、本当に覚えていないようなのだ。
「そのくせ、筆箱を忘れてきた子供を叱る資格が、親にあると言えるのだろうか?」
と、考えてしまうのだ。
そんな大人になってから思い出してしまうと、
「人に言えば気が楽になるはずだと分かっているのに、どうしても、他人に相談できないという気持ちになるのは、それだけ、自分に自信がないところを、自分で知っている」
と思っているからなのかも知れない。
自分に自信のないことが、人との距離を遠ざける一番の原因なのだろうと、感じるのだった。
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