第3話 長所と短所
桜沢は、自分の性格を決して好きではなかった。
「好きなものには一生懸命になるが、嫌いなものであれば、まったく力を入れず、いわゆる、手を抜く」
という性格だからである。
とにかく、好きなものだけを一生懸命にやっていれば、それいいという考え方であり、嫌いなものには、手も出さないというのは、それだけ、自分の中で、好きなものと嫌いなものを差別して扱っているということである。
この性格は、まわりから見ると、欠点しか見えていないように見えるが、果たしてそうなのだろうか?
確かに嫌いなものと好きなものを差別するというのは、いけないのかも知れない。しかし、世の中に、
「嫌いなものは一つもなく、好きなものだけしか存在しない」
などという、神のような人はいないだろう。
「嫌いなものも少なからずに存在するが、好きなものも結構多い」
というのが人間であろう。
確かに嫌いなものが少ない方が、人間は幸せなのかも知れないが、何もそれを無理に克服する必要はないだろう。
例えば、食べ物などで、他の人が結構好きなものを嫌いだったりすると、親は、まわりのことを考えてか、嫌いな食べ物を克服させようとして、強引に食べさせようとすることがある。
しかし、食べ物によっては、それは好き嫌いなどではなく、
「身体が受け付けない」
というのもあるのかも知れない。
一番危なくて、大人が気を付けてあげなければいけないのが、
「アレルギーのある食物」
であろう。
今は、結構、
「食の安全」
ということが言われるようになって、メーカーの表記義務もハッキリしてきた。
賞味期限は、消費期限などは当然のこととして、アレルゲン表記、さらには、産地表記など、特に生鮮食品や、日配関係には、うるさく言われるようになってきた。
これは、20年以上前だっただろうか、食品メーカーによる、ラベルの表示の問題が、社会問題になったからだった。
ひどいところは、賞味期限を偽装したり、普通であれば、信じられないような管理をしているところが、一つ見つかれば、あれよあれよという間に、1カ月の間に、5,6社も発覚したりしたものだ。
それだけ皆が、疑うことなく信用していたということなのか、それとも、一つが見つかれば、他のメーカーでも、
「さすがにまずい」
と思いながら、過去に事例がないことで、下手に明かすと自分がどうなるか分からないということで、黙っていたのだろうが、一か所が摘発され、問題が想像以上に大きくなり、そこから、他の会社でも見つかったりすると、
「うちも時間の問題だ」
ということで、マスゴミにリークするなどの、内部告発のようなことも結構あったに違いない。
そうなってくると、歯止めが利かなくなってくる。それだけ、どこでもやっていたということなのだろう。それまで、疑うこののなかった消費者が、今度は疑ってしか見なくなると、どんなに気を付けていても、もうその会社の商品は誰も買わなくなる。そして、そのうちに、消費者の間で、
「何を信じていいのか分からない」
という疑心暗鬼を産むことになるのだった。
「一つが出てくると、5件は似たようなことをしているところがあるだろう?」
と、まるで、ゴキブリを発見した時のような感覚だ。
だが、そんな時に、隠そうとすればするほど、ボロというものは発覚するものであり、逃れることはできなくなる。だから社会問題となるわけだが、問題は、マスゴミによって、必要以上に煽られてしまうことであった。
好きなものと嫌いなものというような、両極端なものが、えてして人間には備わっているようだ。例えば、
「長所と短所」
などというのも、その一つではないだろうか?
長所と短所は、これも、好きなものと嫌いなものと同じように、片方だけという人間はいない。
しかも、どちらも複数存在している、好きなものも嫌いなものも、複数あるわけだし、長所と短所も複数あるわけだ、
そして、もう一つ言えることは、
「それぞれには、中間というものが存在し、その中間が、すべての中での大半を示している」
といえるのではないだろうか?
好きなものを中心として見れば、
「好きなもの以外は、すべて、嫌いなもの」
となり、逆に、嫌いなものを中心として見れば、
「嫌いなもの以外は、すべてが好きなものだ」
というわけではないだろう。
しかも、例えば好きなものから見た場合に、中間層がたくさんありすぎて、嫌いなものが、思っているよりも遠くに見えてくるのではないだろうか? まるで宇宙のような、まわりに何の建設的なものがない世界では、距離がそのまま感覚に結びついてしまう。
つまり、本当はもっとたくさん嫌いなものがあるはずなのに、中間層を意識していないことで、それほど遠くに見えていないつもりでも、実際に錯覚という形で遠くに見えてしまう。
それが、遠近感を狂わせてしまうことになり、それを元に戻そうとすると、必要になるのが、バランス感覚である。
しかも、宇宙のようなところで、遠近感を持つことができない感覚となると、バランス感覚が致命的に狂ってしまうのだった。
そのことが、元々意識していない中間層を、ないがしろにしてしまい、自分の中で、好きなものと嫌いなものという目に見えているものだけに注目してしまうことで、見えるものも見えなくなってしまうのではないだろうか?
それが、
「長所と短所」
という、両極端なものに見えてくるようになり、さらに中間層というものを、まるで。
「路傍の石」
のように見せてしまうのではないだろうか?
道端に落ちている石というのは、見えているのに、誰にも意識されることはない。
つまりは、こっちらが意識していないことを、相手も分かっているのかどうか、分からないということにもなるのだ。
ただ、目の焦点がそこに行っているだけで、目が合っているわけでもないのに、相手だけが、こちらに見られているという意識をすることで、相手にプレッシャーをかけることができる。
しかし、実際に意識して見ているわけではないので、相手は、
「なぜ、自分が意識されるのだ?」
ということで、必要以上に意識をしてしまうということだろう。
だが、相手も、こちらの意識がないものだと分かると、すぐに安堵するものだろう。しかし、逆にいえば、意識もしていないのに、人を見つめるということに、自分という存在がまわりの人間に対してどういう意識を与えているのかということを考えると、恐ろしくなってくる。
「何もしていないのに、相手は意識もしていないのに、なぜか、注目される」
と考えると、
「自分の中に、人を引き付ける何かがあるのか??」」
というポジティブな考えであったり、
「何もしていないのに、警戒されたり、悪いことを企んでいるかのような詮索を受けてしまう」
ということになったら、最悪ではないか。
人を引き付けるというのは、ポジティブに考えるから、いい方に解釈できるのだが、悪い方に考えてしまうと、
「何もしていないのに、悪いことをしているかのように、勘ぐられてしまう」
ということにもなりかねない。
そんなことになったりすれば、一大事である。
「長所と短所は紙一重だ」
というではないか?
なるほど、野球などでも、ピッチャーがバッターを攻める時の攻略法として、
「苦手なのは、得意なコースのすぐ近くにある」
と言われたりしているのをおもいだしたりする。
ただ、
「だからといって、一歩間違えると、相手の得意なコースに投げてしまって、打たれる可能性もかなりある」
とも、言えるだろう。
これも、
「長所と短所は紙一重」
ということと同じ意味なのだろうが、ここでもう一つ対になる言葉として、
「長所と短所は、背中合わせ」
とも言われている。
それが、紙一重という言葉とのかかわりになるのだろうが、
「背中合わせと、紙一重」
ある意味、同じことを言っているように見えるが、会話の合間に入ってしまうと、正反対の意味に受け取られがちになってしまう。面白い現象だと言えるのではないだろうか?
ただ、この場合は、比較しているものが、相対しているものであるので、捉え方によっては、違った意味にも見られるし、距離が近いと思っていても、実際には遠くに感じられるのは、
「見えているようで見えていない」
という、
「路傍の石」
という感覚に似ているともいえるのではないだろうか?
まるで、SFの世界のように感じるのは、桜沢だけであろうか?
こういうことを考えている時に、頭の中に浮かんでくるのは、
「メビウスの輪」
であった。
実際には理論的には不可能に感じられることが、実際には起きているというのだから、想像することは難しいだろう。
たまに、絵に描いて説明しているのをネットなどで見ることもできたが、その内容がどのようなものなのか、その時は納得したはずなのに、時間が経って、その間に別のことが入り込んでしまうと、その納得したはずのことが、分からなくなってしまう。
「納得なんかできるはずのないもののはずなのに」
と、納得できたことに対して、疑問があるものだから、忘れてしまったことの方が信憑性があって、なぜ納得できたのかという方が疑問なのだ。
そう考えると、
「長所と短所は紙一重だ」
ということも、その裏に潜んでいる、
「背中合わせだ」
というキーワードを意識するから、納得できたのかも知れない。
ということは、
「メビウスの輪を理解できたのも、その時に、何か、相対する理屈を頭に思い浮かべた時、それまで繋がっていなかったことが、急に繋がって見えたのかも知れない」
と感じた。
それは、夢のような感覚に近いのではないだろうか?
納得できないことに直面した時、無意識のうちに、理解できている時があるが、その時は、何かひらめくものがあって、理解できているのだろう。それが夢の世界であり、現実世界に戻ると、そのひらめいたことが、現実にそぐわぬことであり、何かの力によって、記憶から消し去るという魔法を掛けられるのかも知れない。
それなのに、
「どうして、一度は自分に理解させるようなことをしたのだろう?」
と、その力が、夢から来ているものだと思うと、夢は、
「自分に対して、力を与えているのだが、それはあくまでも、夢側の都合であって、夢側の都合が悪くなったりすれば、記憶から消し去ることになっているのかも知れない」
と思うのだった。
逆に、夢というものは、忘却ありきで見るもので、本来は、すべてを忘れ去るはずのものが、夢を見ている自分の意識がたまに勝ることがあり、忘れきれずにいるのかも知れない。そう考えると、
「夢はたまに見るものではなく、毎日見ているもので、忘れることができるかできなかったかということによって、覚えていると考えるのではないだろうか?」
と考えるのだった。
「夢のメカニズムというのは、どうなっているんだろう?」
と考えることが多い。
確かに、覚えている夢というのは、怖い夢が多いような気がする。それは、
「夢というものが、本当に怖い夢しか見ることができないというものなのか、それとも、いろいろな種類の夢を見ていて、たまたま覚えているのが、怖い夢だというだけではないか?」
という思いに至るのであるが、この場合の、
「たまたま」
というのは、少しおかしいのではないだろうか?
単純に、覚えている覚えていないというだけであれば、偏った記憶になるというのは、その時点でたまたまではないのではないだろうか?
偏っているという考え方も、どこかおかしな気がする。自分の中で、覚えている夢に、怖い夢が多いという先入観があることから、
「偏っている」
といえるのであって、感じ方を少し変えれば、別に偏っているというわけでもないのではないだろうか?
覚えている夢が、見た夢のどれくらいに当たるのかということは、そもそも、どれだけの夢を見たのかということが分からないだけに、比較のしようがないというものである。
覚えている夢が、10個あったとして、実際に見た夢が、100なのか、20なのかで、まったく違った発想になってしまう。
これを、前述の加算法、減算法で考えたとしたならば、
「加算法であれば、少しずつ積み重なるもので、ゼロとマイナスはありえない。少しずつ積み重なると、20くらいになるだろう」
と考え。
「減算法であれば、まず、一気に減算しまい、残った部分から、精査することによって、残りがいくつになるのか、どれだけ減っても、限りなくゼロには近くなっても、ゼロになることはないだろうと思うと。元は100くらいだったのではないか?」
と考えるのだった。
小学生の時、夢をどのように考えていたのかを思い出していた。
あの頃は、怖い夢を覚えているという意識はあり、
「怖い夢って、その中でも一番怖いのは何だったのだろう?」
と考えていた。
いつだったか、こういうことを考えている時というのは、普通は、結論など見つかるわけはないのだったが、その時は、
「怖い夢というのは、もう一人の自分を夢の中で感じた時だ」
と、ハッキリ感じられるようになっていた。
もう一人の自分は、気配でなのか、夢を見ている自分の存在に気が付いているようだった。
しかし、姿が見えているわけではない。気配くらいは感じるのだろうが、時々、思い立ったようにキョロキョロしている。
その相手が見えているわけではないのに、気が付けば、夢を見ている自分と目が合っているように思えるのだ。
合っている目は、こちらをまったく意識していない。まるで、こちらが、路傍の石で、相手が、石を意識することなく見ているというような感覚ではないか。
目と目が合っているのに、相手がこちらを意識しないというのが、どういう感覚なのかというのを、初めて感じることができた。
夢の中での感覚だとはいえ、
「路傍の石の感覚というものは、本当に恐ろしいものだ」
と考えた。
「なるほど、これだけの恐怖であれば、夢という特別な世界に、意識して登場したとしても、無理もないことだ」
といえるのではないだろうか?
夢というものを、
「実に都合よく見えるものだ」
という感覚になるのだが、それはきっと、目を覚ます瞬間にあるのではないかと思うのだ。
本当にちょうどいいところで目を覚ます。まるでテレビドラマなどで、次回を考えて、ちょうどいいところで来週もみせようという作戦のようではないだろうか?
都合のいいことというのは、何も夢だけではないような気がする。時々、自分のリズムの中で、
「何か自分の都合がいいように進んでいると思うことがある」
と感じることが何度もあったりする。
かと思うと、
「何をやっても、うまくいかないことがある」
と感じることもある。
これは、歯車という意味で、うまく噛み合っている時は、すべてがうまく行くようん気がするのであり、ちょっとでも、歯車が噛み合わない部分が出てくれば、こちらも、何をやってもうまくいかない。
というのも、
「交わることのない平行線」
であって、
うまく行く時と、うまくいかない時は、紙一重ということになる、まるで、長所と短所の違いのようではないか?
それを考えると、長所と短所は、決して、
「交わることのない平行線だ」
といってもいいのではないだろうか?
そうなると、背中合わせというのも、同じ理屈でいけば、
「交わることのない平行線」
と同意語ということになるのであろうか?
これは、三段論法の考え方である。
「A=B、B=Cであれば、A=Cである」
という考え方である。
一種の、
「三つ巴」
といってもいい関係であろうが、その似た言葉としては、
「三すくみ」
というものがある。
しかし、この場合のように、三つ巴と、三すくみとは同じだと言えるのだろうか?
いろいろと考えてみると、堂々巡りを繰り返してしまいそうで、すぐに考えるのを辞めてしまったのだった。
とにかく。三角形というものは、何かと奇妙で、奇抜なデザインといえるのではないだろうか?
陰陽師などでは、五芒星などという五角形のものが図形としては奇抜なイメージを持たれることになっているが、三角形というのは、その造形よりも、それぞれの関係性が微妙に影響しているようである。
とかく、昔から、偶数よりも、奇数の方が、重宝されているように思うのは気のせいであろうか?
そもそも、昔から日本では、
「奇数は、縁起がいい」
と言われてきている。
陰陽師などが、その謂れだというが、確かに偶数よりも奇数の方が縁起がいいと言われれば、それにふさわしいというものがあった。
例えば、正月の初詣など、
「三社参りなどというように、偶数で終わらせてはいけない。必ず、偶数で終わらせるのが大切だ」
ということであったり、お寺などにある、
「何重の塔」
と言われるものも、
「三重塔」
「五重塔」
などと奇数しかなく、一番多いので聞いたことがあるのは、
「十三重塔」
などと言われるものもある。
数としてはかなり多いようだが、有名なところとしては、奈良県桜井市の多武峰にある、
「談山神社の十三重塔」
が有名ではないだろうか?
さらに、俳句なども、
「五七五」
という十七文字ではないか。
「長所と短所」
あるいは、
「奇数と偶数」
のように、まったく対照のものを比較する時、背中合わせであったり、紙一重だと考えることは、無理もないことではないだろうか?
どうしても、自分の中で都合よく考えようとすると、対照的なものを、あまり遠くに置いておくことは、不利な気がしてきた。一周回って戻ってくるような感覚で、その時には、紙一重であったり、背中合わせであったり、ただ、この場合は、
「紙一重」
というよりも、
「背中合わせ」
の方が、よりリアルに感じる。
紙一重といってしまうと、
「得意なコースであっても、一歩間違えると、苦手なコースになりうるが、一歩間違えると、危険すぎるということになりかねない」
という理屈に似ている。
「交わることのない平行線」
それを描いているということになるのだ。
子供の頃から、
「どうして、自分の力で手に入れたものでなければ、大切にできない」
という発想があったのは、この紙一重という感覚があったからなのかも知れない。
何に対して紙一重だったのか分からないが、その分からない理由というのが、
「背中合わせであるために、自分では、それを見ることができない」
というもので、それも、ただの鏡ではダメであり、そこには合わせ鏡のような後ろからでも見えるものでなければいけないのだ。
そもそも、自分の姿は、自分では、鏡のような媒体がなければ、見ることができないというものではないだろうか?
紙一重というものは、あくまでも、ニアミスであって、平行線であれば、重なることはありえないのだ。
逆に、背中合わせであれば、最初から背中はくっついているわけで、ただ、その場合、お互いを見ることはできない。
しかも、目の前で起こっていることを、同じ視線から絶対に見ることができないということで、あまりにも見ているものが違うという意味で、紙一重と背中合わせでは、一長一短が存在し、結果的に、
「似て非なる者」
ということになるのではないだろうか?
自分の力で手に入れるものを大切にするということは、
「何事に対しても、一生懸命にしよう」
という気持ちが、他人よりも強いということであろう。
そのために、どこかに、気持ちの上で、
「遊び」
のようなものを持っておきたいという気持ちから、その反対である、他人から与えられたものであったり、押し付けられたりしたものに対しては、どうしても、おろそかになってしまうということが考えられる。
この性格をうまく利用されて、不利になったこともかつてはあった。
それにしても、
「よく、俺のこんな性格を分かったものだ」
と感じたが、案外、自分で感じるよりも、他人の目から見た方が、正解をとらえているのかも知れないということなのかも知れない。
「人の振り見て我が振り直せ」
ということわざがあるが、まさにその通りなのだろう。
しかも、それを分かる人というのは、自分と紙一重のところを見ているのかも知れない。ひょっとすると、そのあたりに、その人の紙一重なところが、まるで蜃気楼のように映っていて、それをまやかしだとは思わずに、まさしく、その人の性格に違いないと思い、紙一重なだけに、信じて疑わない自分にも、酔ってしまうところがあったりするのではないだろうか?
そんなことを考えてみると、紙一重というものの恐ろしさが分かってくるというものであろう。
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