第2話 あるなしの法則
マンション住まいをしているが、父親は、マンションを買うという発想はなかったようだ。
それは母親も同じで、父親は、市役所に勤めているので、基本的に退職でもしない限り、他県に勤務することはないということだった。同じ県内であれば、正直分からないが、同じ県内であれば、県の中心部に住まいを設けていれば、引っ越さなくても、通うことはできるのではないだろうか。
しかも、この県の、県庁所在地は、県の中心部にあり、ここからであれば、少々遠くであっても、勤務時間は、2時間以内で済みそうだった。
それに、通勤電車でも、車で移動したとしても、ラッシュの時間は反対方向になるので、それほど混むことを気にしなくてもよかったのだ。
ただ、給料はお世辞にもいいとは言えなかった。だが、それは、サラリーマンの平均年収に比べてという意味であって、民間企業でも、給料の安い人から見れば、きっと羨ましがられていたことだろう。
それでも、転勤はあっても、単身赴任などの心配がないことは、ありがたいことだったのだ。
公務員住宅として、分譲マンションが、公務員価格で買えるという話もあったが、両親は頑なに、拒否していた。
その理由は
「一度入ってしまうと、引っ越しが利かないからだ」
ということであった。
もし、隣に近所迷惑なやつが引っ越してきたとして、分譲だと、まず、相手が引っ越していくということは考えられない。
もちろん、こちらも、ローンが残ったままで引っ越すわけにもいかず、引っ越せたとしても、かなり面倒な手続きが必要だったりするだろう。
そんな一連の騒動で、プレッシャーから、精神的にかなりのストレスを抱え込むようになり、それがトラウマにでもなってしまうと、これほど厄介なことはない。
それを思うと、
「身動きが取れない、分譲マンションなどに入るものではない」
と考えてしまう。
それを考えずに毎月の家賃とローンの返済を考えると、確かにローンの方が安いこともあるだろう。ただ、その間身動きが取れないと考えると、まるで見えない鎖に縛られて、気が付けば。逃げることのできない状態に追い詰められてしまい、
「ヘビに睨まれたカエル」
のようになってしまうことは明らかだった。
もちとん、そこには、近所づきあいのようなものが絡んできたり、子供ができた時の、子供会であったり、父兄会などと言った、学校行事や、町内の問題などが絡んでくると、どこまで協力できるか分からないということから、ずっと、縛られるという状況は、それこそ、
「人生の墓場」
を見ているようではないだろうか?
賃貸であっても、一度借りてしまうと、他に移るということには、勇気がいる。
「移ってしまえばいいじゃないか」
と他人は言うだろう。
確かにそうなのだが、問題は、
「いろいろな可能性を考慮しないといけない」
ということであった。
移ったからといって、移転した先の隣に、どんな人が住んでいるか分からない。今と変わらないのであれば、引っ越しの手間などを考えれば、
「余計なことをした」
ということになるだろう。
この発想は、転職でも言えることではないか?
普通に会社に不満を持って辞めた場合、もし、就職難の時代でなかったとしても、
「今までの会社と同等以上のところには、就職なんかできっこない」
と言われていた。
つまり、
「転職すればするほど、条件はどんどん悪くなってくる」
というわけである。
相手が、社員を募集するということは、
「今までいた人間が、何らかの理由で退職したので、仕事が回らなくなった」
という場合であったり、
「引き抜きに遭ってしまって、ポストが開いた」
あるいは、単純に、結婚などの寿退社などが理由で、人が足らなくなってしまった。
などという理由である。
最後の寿退社というのは、考えようによっては、この結婚が、社内恋愛で、社内恋愛であるがゆえに、一緒に仕事をする場合に、仕事に支障をきたすということが考えられるのだろう。
だが、今の時代は男女平等の観点から、
「社内恋愛による結婚であっても、寿退社ということであれば、何か、会社のブラックな部分を疑わないわけにはいかない」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、最期の考え方には、ブラック性を感じるということで、考え物だと言えるだろう。
確かに昔の、
「終身雇用」、
「年功序列」
などと言われていた時代と違って、
「転職は、スキルアップのため」
ということもできるという意味で、転職はしやすくなっただろうが、その分、どこがブラックなのかということも分かりにくくなっているというのも、一つの事実だといってもいいのではないだろうか?
確かに、戦国武将の、藤堂高虎のように、
「主君を、七人も変えた」
という人もいるくらいの人もいるが、それも何か特別な技能であったり、素質を持っていなければ、なかなかうまく行くわけがない。
何もないのに、転職をしようなとどいうのは、今であっても昔であっても、変わりのないことに違いない。
藤堂高虎の場合は、
「築城の名手」
と言われるくらいの人物だ。
戦国時代のように、城というと砦のようなものも加えれば、
「コンビニの数よりもおおかった」
というくらいにたくさんできている。
そんな軍事施設を建設するのに、名手ともなれば、当然、いろいろな大名から、引っ張りだこになるのは目に見えて分かるものだ。
しかも、彼は主君を変えながら、築城の技術を身に着けていったわけなので、これこそ本当の、
「スキルアップのための天職」
ということの手本とすべき人物なのかも知れない。
ただ、計画もなく、ただ、
「辛いから」
というだけで転職するのは、それこそ、無謀だといってもいいのかも知れない。
そんな転職と同じことが、転居にもあるということである。
転居してしまった先で、もし、隣に腹が立つやつがいるとして、果たしてどう考えればいいのだろうか?
考え方としてはいくつか考えられ、その考えた先でも、さらに分岐点が見えてくる。まるで、性格判断による、あみだくじ方式のようなものではないか?
隣に腹が立つやつが住んでいたとして、最初に考えることは、
「文句を言いに行けば?」
という発想もあるが、それは、逆恨みを考えるとなかなか難しい。
だとすれば、
「管理人に言えばいい」
というのもあり、たぶん、一番考えられる解決法とすれば、ここになるのかも知れないが、何しろ管理人は、部外者であることに変わりはない。
こちらが興奮して文句を言ったとしても、相手はこちらの言い分を、いい加減にしか聞かないだろう。特に興奮などしていれば、却って冷めてしまう可能性もあり、相手に余計な勘違いをさせ、本当はしてもらいたいこととは違うことを相手にいってしまったりして、却って話がこじれてしまわないとも限らないだろう。
「では、引っ越してしまえばいいではないか?」
と考えたとしようか?
そうして、またしても、引っ越し業者を雇ったり、自分で荷造りをしたり、会社を休むことになったり、転入転出届を出したり、などと細かい手続きも含めると、引っ越しというのは、一大イベントになりかねない。
会社の転勤によって、引っ越しを余儀なくされる場合であれば、会社が休みをくれたりするだろうが、自分の都合での転居に、会社はまったくかかわりを持たない。逆に、
「自分の都合で、仕事に支障をきたしたりのないように」
と言われることだろう。
そんな煩わしい思いをして、何とか引っ越しを終えたとして、今度は、隣の人が、本当に静かな人なのかという保証はないだろう。
「短い期間で引っ越しを繰り返し、結果、よくもなっていないのだから、この引っ越しは失敗だった」
ということになりかねない。
引っ越しをするのもただではない。かなりの出費を覚悟する必要がある。
そして、後悔するのだ。
「ひょっとすると、前の部屋に我慢して住んでいれば、隣の人間は、そのうちに引っ越したのではないか?」
と考えたりもする。
今回引っ越してきた先で同じような人間が隣にいたとして、その人も、最近越してきたばかりだったりすれば、隣が動く可能性は明らかに低いだろう・
だが、もし、隣が引っ越して行ったとして、一時期は静かになるだろうが、そのうちに、隣にまた誰かが入ってくるかも知れない。
その人がさらにうるさい人である可能性は、
「あるなし」
という考えでいけば、五分五分なのだ。
そういう意味でいけば、可能性のほとんどは、あくまでも可能性という考え方でいくならば、それは、平等に考えるべきである。
ということは、すべてにおいて、五分五分だと考えれば、
「そもそも、どちらを選択するか?」
というのは、博打のようなものであり、運でしかない。
そういう意味でいけば、後はその人の性格的な問題なのではないだろうか?
「ここで動いて、結果、動かない方がよかったのが分かった時の後悔と、動かなければ気が済まないという性格を持ち合わせているとすれば、どっちがいいということになるのであろうか?」
と考えれば、
「最初に動くか動かないか?」
というそれだけのことになる。
下手に動けば、
「負のスパイラルを産んでしまう」
と考えるのであれば、動かない方がよくて、自分なりに、いかに問題を大きくしないかということを、冷静になって考えるべきではないだろうか?
それが、ギャンブル的な考え方をするか、それとも、可能性の問題を冷静に考えるかということになってくるのだろう。
まるで、コンピュータのようではないか?
コンピュータというのは、0と1の数字しか持っていないという。
つまり、オンオフだけの問題であり、それが複雑に絡み合ったとしても、最終的には、オンオフの組み合わせでしかないのだ、
そういう意味では、すべてにおいて、五分五分の考え方というのは、当て嵌まるというものだ。
「天邪鬼」
というものがあるが、これは、
「普通の人と、いつも正反対の選択をする」
というイメージであるが、
「そもそも、普通の人というのは、どういうことなのだろう?」
民主主義の考え方は、当然のように、多数決である。
相手が0であっても、一人しか差がなかったとしても、
「多い方が勝ち」
なのだ。
そのため、少なかった方の人の意見や考えは、基本的には握りつぶされることになる。選挙などで、一票差であっても、多い方の勝ちは勝ちなのだ。
だが、一歩間違えれば、すべてが逆になっている可能性がある。その一票が、
「何かの間違いで、無効票だったら?」
あるいは、
「勘違いして、違う人の名前を書いていたとすれば」
それによって、当選者が変わってしまう。
最初から、投票する人を誰にするか決めていた人は、それほど変化はないだろうが、投票場に行ってから決める人は、誰にするというのだろう?
ひょっとすると、その場で立候補者の顔を見て決めるのかも知れない。特に今の時代のように、政党が信じられないと、その傾向は強いだろう。
今の選挙であれば、
「消去法しかないだろう」
加算法だったら、いいところを探そうとしても、ないものをどうやって探せばいいのか、
「0対0では、勝負にもならない」
といえるだろう。
逆に、嫌なところは山ほどある。まずは、与党を考えてみれば、たぶん、最初に感じた嫌なことで、当選ラインを一気に下回るに違いない。
それは、野党も同じことで、基本的に、批判しかせずに、
「恰好いいことを口では言っているが、やっていることは、やくざも同じ」
という、まるで弁護士のようではないか。
弁護士の仕事は、
「依頼者を守ること」
である。
それが、どんなに人の道に離れていようが、法律的に間違っていようが、優先されるのは、依頼者の守秘である。
法律に逆らえないからといって、依頼人を裏切ったりすると、弁護士としては終わりである。
つまり、いかに卑怯と言われようが、依頼人の意思にそぐう仕事ができた人間が、
「優秀な弁護士」
となるのだ。
政治家は、もっとひどい。自分の保身のためには、仲間だって平気で裏切る。悪いことをしていて、バレそうになると、誰かに責任を押し付けて、自分は生き残りを図る。まるで、人柱のようではないか。
それが今の与党であり、そんな連中を政治家として倫理的に許してもいいものなのだろうか?
かといって、野党は、そんな与党を批判するだけである。
「批判するのであれば、代替え案があるんだろうな?」
と言われると、そんなものは何もない。
ただ批判していればいいとでも思っているのか、それこそ、自己満足でしかない。まるで、自分のためだけの自慰行為にすぎないではないか。
要するに、減算法は、そんな二つが減算していくだけであって、決着がつかずに、結果、最期には、
「0対0」
になるのだ。
結果は、減算法も、加算法でも同じことであり、結局どちらも中身がないということで、それでも決着をつけるとすれば、その方法というのは、選挙のような多数決しかないということで、
「史上最低の勝負」
といってもいいだろう。
最近では、まったく信用できない、政府や政治家のことを考えると、加算法でも、減算法でも、結局どちらも、0対0という結論しか出ないように思うのだが、果たしてそうだろうか?
一つ考えているのは、
「果たして、減算法にした場合に、必ず最後は0になるのだろうか?」
ということであった。
何が言いたいのかというと。一つ考えているのは、
「合わせ鏡」
の発想である。
合わせ鏡というのは、自分の前後、あるいは、左右に鏡を置いた時、一つの鏡に視線を合わせると、まず、鏡には、自分がそのまま、いや、左右対称という形で写っている。
すると、自分の後ろには、もう一対の鏡が映っているわけで、その鏡には、反対側の、つまり、顔は反対側を向いているので、後頭部が映し出された自分が写っているはずである。
そうなると、その鏡には、自分の正面には自分が見ている鏡があって……。
というように、どんどん、
「鏡に映っている自分の姿が、どんどん先の方まで見えていることになり、鏡に映った自分が、理論上、繁栄強敵に見えていることになる……。
そんな現象を、
「合わせ鏡」
というのであって、その状態を考えていると、もう一つ思い浮かんでくる発想が、入れ子になっているという意味で、ロシアの民族工芸としての、
「マトリョーシカ人形」
を思わせるのだ。
マトリョーシカ人形というのは、一つの人形があって、その人形は、側面が開く形で、正面と背中を残して、パカッと割れる形になっている。
その中にも、また別のデザインの少し小さな人形が入っていて、さらに、その人形も、中が割れるようになっている。
つまりは、これも同じように、まるで、
「親があって、子があって、孫がある」
というような感じである。
しかも、どんどん小さくなるわけだが、これは理屈から考えると、ゼロになるということはないのだ。
それは、数学の理論を考えれば、おのずと答えが出るもので、
「割り算をして、0になるには、元の数、つまりは、分子が0でなければありえない」
といえるのだ。
逆に、0から何を割ったとしても、0でしかなく、そもそも、分子が0の割り算というものは、元々が矛盾した計算でしかないような気がするのだ。
そうやって考えると、どんどん小さくはなっていても、到達する先は、
「限りなくゼロ」
に近づくだけだ。
ということになるのではないだろうか?
マトリョーシカにしても、合わせ鏡にしても、ゼロにならないのだとすれば、減算法というものが、マイナスの域になることはないことを考えると、
「引き算ではなく、割り算なのではないか?」
と思うのだ。
かたや加算法は始まりは、0からであって、後は増えていくだけではあるが、加算するものがなければ、0でしかない。
どこまでいっても0でしかないのであれば、
「加算法と減算法が、どこかで交わることはないという理屈も可能性としては、まったくないわけではない」
といえるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「加算法には上限がなく、減算法には、マイナスや0はありえない」
ということになるのではないだろうか?
「オール・オア・ナッシング」
という言葉がある。
スポーツのプロリーグなどで使われたりするが、ここでは、
「すべてか、無か?」
という意味での言葉として考えてみる。
要するに、
「0か100か?」
ということになるのだが、では、1から、99までは、どちらになるのだろうか?
これは、この言葉をどう解釈するかによって変わってくる。逆にいえば、
「考え方によって。どうにでもなる」
ということではないだろうか?
トップを中心に考えるのであれば、
「100でなければ、0」
ということになる。
しかし、果たしてそれでいいのだろうか?
0と1の間には、
「有と無」
という結界のような大きな壁がある。
しかし、99と100の間に、何か結界のようなものがあるだろうか?
もしあったとすれば、それは、その人が勝手に作った解釈ではないだろうか?
あくまでも、桜沢の考え方の中では、
「あるなしの法則」
というものがある。
0と1との間での葛藤はその時々だけではない。電球であれば、光が灯っている時と、消えている時、その状況を把握するのに、見えていないはずの結界が、どこかにあるのだろう。
そんなことを考えた時の、
「合わせ鏡やマトリョーシカ人形のように、減算法では、限りなくゼロに近づくことはできるが、絶対にゼロになったり、マイナスになったりはしないのだ」
つまりは、
「ゼロや、マイナスという、普通に考えれば出てこない発想は、減算法によって、証明されている」
といえるのではないだろうか。
「加算法であっても、マイナスは考えられない。ゼロから始まって、上しか見ないわけだから、ひとたび始まってしまうと、ゼロに戻ること、ましてや、マイナスになんかなりっこないのだ」
そういう意味で行けば、
「加算法と減算法は、少し角度を変えれば、結果は同じなのだ」
といえるのではないだろうか?
「どちらから考えても、梱包の中にあるものが違っていなければ、辿り着く道は、おのずと同じところにやってくるのだ」
といえるのではないだろうか?
そんな。
「あるなしの法則」
を考えていると、
「負のスパイラルがあるのであれば、プラスのスパイラルも存在するのではないか?」
と思えてきた。
結論が同じだとして、考え方もさほどに違わないとなると、それは自然な流れの中での同一性だと考えると、本来であれば、違う時間のものを一緒に考えるということであり、結果として、同じところを同じ次元で進んでいるのだから、同じ発想になるというのは、ある意味、思考の矛盾が存在しているのではないかと思うのだ。
「あるなしの法則」
というものが、
「出てきた結論を重視するのか、それとも、起点と過程を重視することで変わってくると思っていたが、そうではない。どれか一つに焦点を当て、それぞれのパターンを見ていくという、ある意味オーソドックスであるが、画期的な考えであると思うと、
「原因、経過、結論」
と、それぞれに同じものが存在しているということになるのだろう。
「あるなし」
で考えるということは、そういうことなのだ。
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