第5話 風が重い

 そんな、感じていることを表に出すのが苦手な桜沢であったが、逆に思っていることを口にしないと我慢できないのが、梅林であった。

 彼は、友達を作ると、まず、相手のことを知ろうとするよりも、まず、自分のことを知ってもらおうとして、相手がどういう人なのかは別にして、自分のことを話し始める。

 相手によっては、煩わしいと思う人も多いだろう。

 本当は別の話題で話をしたいものを、梅林は強引に自分の方に話を持ってくる。

 相手が、一人であっても、複数であっても一緒だった。

 彼の考えとしては、

「相手が一人よりも、複数の方が話に持ってきやすい」

 と思っているようだ。

 一人の方が相手しやすいと思われがちだが、複数のような団体になると、一人が話題の中心になると、まわりは、それについて行けばいいだけなので、楽なのだ。

 自分が輪の中心にいないと我慢できない人間だけが相手になればいいのだろうが、そんなに自分の話題に持ってきたいと思っている人は多くはない。

 むしろ、そういう人が複数いるようなグループには所属したくはない。相手が一人でないと、なかなかこちらが主導権を握るのは難しい。いわゆる、

「マウント」

 というやつであろう。

 子供の頃は、そんな言葉があったなどということを知る由もないので、相手がまわりに気を遣ってマウントを取るような相手であれば、こちらとしても、相手がしやすいと思っているようだった。

 ただ、梅林は、必死になってマウントを取りに行っていたような感じだった。小学生の頃までは、まったく人と会話をすることもなく、話しかけられても、自分から距離を置く感じだったのだ。

 まわりが彼に近づいてくると、自分から避けるという態度の方が、むしろ彼の性格からすれば、妥当な気がしていた。自分に自信がないくせに、マウントを取ろうとするのは、無謀といってもいいだろうに、なぜ、そんな態度を取ったのだろうか?

 それは、小学生の頃に、自分の隣の席の男の子がいじめに遭っていたからだった。その友達というもは、苛められている間、何も言えなかった。

 彼の思惑としてはどういうことなのか、梅林には分かっていた。

「やつは、苛められている時、下手に逆らうと、余計に苛められるということを分かっていたんだよね。だから、下手に抵抗して、余計な気を相手に回させると、

「何だ、こいつ。俺たちに逆らおうというのか?」

 という思いにさせてしまうと、

「もっと苛めてやれ」

 ということになってしまう。

 抵抗もせずに、相手に、苛めることが面白くないと思わせて、苛めることが、疲れを誘うかのようにしてしまえば、すぐに収まるだろうという程度で考えていたのだ。

 だから、下手に逆らわない。逆らってしまうと、抵抗したように思われて、相手に苛めることの楽しさを教えるようなものではないか。

 それを思うと、抵抗もせずに、黙ってやりすごすのが、一番いいと考えるようになったのだ。

 だが、そのうちに苛められなくなると、本人はホッとしたようだが、今度はやっと友達の輪の中に入れると思ったが、何もできなくなった。

 もっとも、苛めが行われていた中で、その他大勢というのは、

「見て見ぬふり」

 をしていたのだ。

 そんな状態において、誰も助けてくれないと思うと、見て見ぬふりをしている連中が、

「卑怯だ」

 と思うようになってきた。

 下手に庇いたてなどすれば、今度は、苛めの矛先が自分たちに向いてくる。

 そんな状態は、たまったものではない。

「苛めが行われているところで、何も言わずに中立を保っている人間が、実は一番汚いんだ」

 と言われていた。

 確かにそうであろう。

 ただ、これも難しいところで、苛めの矛先が自分に向いてくることを予見できるだけに、何もできないのだ。

 梅林というのは、苛められる理由がどこかにあるから苛められるのであるが、苛める方としては、何も相手が、梅林である必要はない。

 梅林に代わる人がいれば、それで別にかまわないのだ。

 だから、苛めっ子が、梅林に飽きてきているのだとすれば、下手に首を突っ込んで、その矛先が自分に向いてこないとも限らない。

 それを思うと、

「黙っている方がいいだろう」

 と思うのだった。

 相手が誰だっていいのであれば、自分である可能性だってあるわけだ。下手に目立ってしまうと、自分に向いた矛先をそらすのは、完全に無理だというものだ。

 いじめっ子たちの後ろに、ボスのような人がいたのだったが、梅林はそれを知らなかった。

 一年先輩の人なのだが、その人は、実は、もう苛めのような低俗なことはしたくないと思っていたのだ。

 一年先輩だったのだが、先に卒業して中学に入ると、自分たちが中学生になった頃には、もういなくなっていた。

 あくまでもウワサだったのだが、父親が、犯罪を犯して、この街に住めなくなり、そそくさと引っ越していったという。

 父親が犯罪を犯したのは、

「上の命令」

 だったのだという。

 上といっても、やくざの鉄砲玉で、その人のさらに下だったわけなので、本当に情けないと思われても仕方がないだろう。

 そこまで階層が深いのだから、さぞや大きな組織なのかと思いきや、実際にはそんなことはなかった。

 今時、昭和のようなことをしているのだから、しょせんは田舎の組織だといってもいいだろう。

 そのボスは親のことを憎んでいた。

「俺はあんな情けない下っ端になんかなりたくない」

 と思っていたのだろう。

 だが、小学生の苛め集団の中のボスのようなことをしていて。すぐに、面白くなくなってきたのだ。

 その時には、父親が、少しヤバイことに首を突っ込もうとしているのではないかということを予感していた。

 それが、いつの間にか分かってしまい、父親が、案の定、どうしようもなくなって、自分たちもこの街にいられなくなるという、

「組に対しての奉公が、家族やまわりの人を混乱に巻き込むことになるのだがら、父親の権威など、まったくないといってもいい」

 何よりも、街にいると、命が危ないとまで言われたほどだった。

 ほとんど、夜逃げ状態で、身を隠すようにどこかに消えたらしい。

 それは、実に鮮やかだったということなので、ひょっとすると、以前、ドラマなどにあったような、

「夜逃屋」

 などという、組織が存在しているのかも知れない。

 実に信憑性のないものだが、忽然と消えた以上、リアルさは本当なのではないだろうか?

 それを目の当たりにしたことで、

「あんなに、皆が恐れていたような人が、簡単に、夜逃げをしていなくなるのだから、すごいことだ」

 と感じた。

「苛めというものは、風邪のようなものではないだろうか?」

 と、梅林は感じた。

 自分が苛めの、被害者ではあるのだが、そのくせ、苛めがなくなってしまうと、やけにまわりが暗く見えてくるのだった。

 しかも、動きが極端に遅く感じられるのだ。

 かといって、そのスピードは自分の方が早い。まったく遅い、凍り付いたような世界の中で、自分だけが早いということは、どういうことなのだろう?

 きっとまわりは、自分たちのスピードが普通だと思っているはずなので、普通のスピードで動いている自分は、超高速に見えることだろう。

 下手をすると、早すぎて見えないかも知れない。

 そのせいもあって、見えているスピードがどのようなものか。感覚がマヒしてきてしまっている。

「そういえば、前、自分のそばを一気に何かが駆け抜けるような気配を感じたようなことがあったな」

 というのを思い出したのだ。

 その時に感じたのは、一閃の光だったような気がした。その時、こちらを見られた気配があったのだが、元々、その存在すら、気配でしか分からないのに、目が合うなど、ありえないことでもあった。

「相手は自分のスピードに合わせようとしているようだったが、あまりにも差がありすぎて、合わせることができない。相手が、こちらのスピードに合わせてしまうと、一気に奈落の底に落ちてしまいそうな気がした。彼らがこの世界で自分たちと同じ高さに入る時、彼らにとっては、まるで天にでもいるかのように、かなり上の方にいることになっているのではないか?」

 と、感じたのだ。

 自分が苛めを受けている時、自分は、そのスピードの遅い世界の中にいたのだ。

 その世界では、普段は皆普通のスピードだったのだろうが、たまに、高速で動いている人がいることに気づいていた。

 苛められていた梅林は、自分のいる世界が、実はもう一つの世界の方で、

「凍り付いたような氷河期のような世界だ」

 ということを分かっていた。

 だが、そんなことを言っても誰も信じてくれない。

 いや、ひょっとすると、以前にそれを口にしたのかも知れない。自分では覚えていないのだが、それはあくまでも、

「夢の世界でのことだ」

 と感じていたからではないだろうか?

 ゆっくりと動いているという感覚はまったくない。ただ、一つ思ったのは、

「風が、今までに比べれば、重たい感じがする」

 ということであった。

 風が強い日というのは確かにあった。雨と一緒に風が強い時というのは、傘が役に立たないことが多かった。

 特に、風が重たいと感じるようになってから、傘が壊れる比率が高くなってきた。

 そのことを感じるようになってから、まるで図ったかのように、

「風が重たいんじゃないか?」

 と、いっている人が増えた気がした。

 ただ、そのことについて、深く触れる人は誰もいない。

 言い出しっぺも、口にはしたが、

「だから何?」

 とでもいいたげで、誰もそのことに言及はしないのだった。

「異常気象なんだろうか?」

 と、確かに、最近のこお異常気象は、信じられないことが起こったとしても、もう、誰も驚かないレベルにまでなってきている。

 何しろ、

「体温よりも気温の方が高い日が、何日も続いているんだからな」

 ということである。

 人間は、平熱が37度以上あれば、発熱と一般的に言われている。

 しかし、ここ十年くらいの間で、最高気温が39度以上などというのは、不思議でも何でもなくなってきた。

 昭和の頃であれば、33度以上の気温では、耐えられないといっていたではないか。33度などというと、6月の梅雨入り前でも普通にある。夏が過ぎたはずの、10月になっても、30度以上は当たり前、

「本当に、冬が来るんだろうか?」

 と、夏の終わりに、まったく信憑性が感じられないというようなのが、今の異常気象ではないだろうか。

 確かに冬であれば、身体が凍り付いたようになってしまって、身動きがまともに取れなくなってしまうだろう。

 だからと言って、夏になれば、身体が暑さとともに、動けるというわけではない。むしろ暑すぎて、身動きができなくなってしまう。

 確かに、適度な暑さであれば、風が吹いてくれば、涼しいと感じるだろう。

 しかし、ある程度の温度を超えると、今度は、動くほどにその暑さが耐えがたいものになってくるのだ。

 その温度というのは、

「体温」

 であった。

 体温よりも外気が高くなると、まるで風呂に入っているようなものではないだろうか?

 熱い風呂に入った時、熱いからといって、かき混ぜると、却って熱さが増してしまう。それと空気中も同じことで、体温よりも高くなると、動けば動くほど、摩擦が生じて、暑さが耐えられなくなってしまうのだ。

 今の夏は。そんな現象になっているのだ。今までであれば、

「そんなバカな」

 と、体温よりも気温の方が高いなどという現象を、信じられないと思っていたのではなかっただろうか?

 今の世の中、今までは信じられないと思っていたようなことが平気で起こる。

 考えてみれば、昭和の頃までは、クーラーのない時代があったくらいなのだから、扇風機で我慢ができたはずだ。

 しかし、前述の例と同じで、

「扇風機の風が、まるで風呂をかきまぜた時のような感じになる」

 ということで、扇風機を掛けていると、却って、暑さで耐えられなくなってしまうのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、昭和の頃は高くでも、35度がいいところだっただろう。今では、最高気温が35度以上の猛暑日というのが、

「何日連続で発生している」

 というほど、珍しくも何ともなくなっているのだった。

 そんな暑さを異常気象というのだろうが、異常気象はそれだけではない。毎年のように起こる、集中豪雨であったり、台風の極度な強さ。

 その理由として、

「海水温が下がらない」

 ということが一番の要因のようだ。

 海水温が下がらないと、台風が発生してから、日本に近づいてくるまでに、精力が落ちないのだ。

 普通台風というと、サイパンやグアム、テニアンなどと言われる、アリアナ諸島付近で発生する。発生してから、普通であれば、大体5~7日くらいの間で日本に上陸するのだろうが、その時、海水温が低ければ、精力はどんどん下がってくるのだ。

 しかし、今の日本付近の夏は、海水温が、28度くらいで、それくらいだと、ほとんど勢力が落ちないという。

 しかも、最近の台風は動きも不規則である。

 いわゆる、

「太平洋高気圧」

 というものが強く、まるで結界のように張り巡らされているので、それに押されて、台風は迷走することが多い。同じところをクルクル回ってみたり、いきなり、90度以上に折れ曲がって進んできたり、何といっても、普段なら、

「南西諸島から九州か四国に上陸するのが普通なのに、いきなり、関西に上陸した台風が、九州方向に曲がっていく」

 という、ありえないような動きをする台風まで現れた。

 最近は、台風だけではなく、集中豪雨もひどいものだ。

 同じ場所にずっととどまって、集中豪雨を長い間もたらすという、いわゆる、

「線状降水帯」

 なるものが、毎年、各地に、洪水などの被害をもたらすのだった。

「まるで、戦国時代の攻城戦のような、水攻めのようではないか?」

 というようなものが、一般的になってきている。

 このような甚大な被害をもたらす可能性のある異常気象を見ていると、

「気温が、35度以上の猛暑日が数日続いたくらいでは、ビックリしない」

 というものである。

 そんな異常気象を味わっていると、夢の中のことが、それほど不可思議にも思えてこない。

「事実は小説より奇なり」

 と言われるが、空想の話が、事実に近づいているのか、事実が空想に近づいてくるのか、それほど、差がないような気がしてきた。

 確かに夢というのは、

「実際に経験したこと異常を見ることはできない」

 と思っていた。

 夢の中であっても、やはり空は飛べないのだ。

 飛ぼうとしても、軽く宙に浮くくらいで、スーパーマンのように、マッハのスピードで飛んでいくということはできないのだった。

「夢だから」

 と、夢であるということが分かったうえで、もし、高いところから飛び降りるとすれば、できるだろうか?

 飛び降りるところの近くまでいくだけで、脚が震えて、動かない。飛び降りたとすると、「どうなるのだろう?」

 と考えるだろう。

「飛び降りた瞬間に、目が覚めて、身体が痙攣を起こし、そのまま足がつって苦しむことになるかも知れない」

 という思いと、

「地面に叩きつけられそうになる瞬間に、まるでエレベータが減速するかのように、一気に急ブレーキがかかり。事なきをえる」

 という、これもどこかで見たことがあるような、

「魔法の絨毯」

 のような話になるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「夢の世界も、現実の世界もさほど変わりがない」

 と思えてきた。

 それなら、宗教のように、

「信じれば、あの世で、天国に行ける」

 と言われるが、

「あの世にそんないいところがあるというのだろうか?」

 ということを考えたりする。

 そういえば、あれは、世紀末より、少し前だっただろうか? あれは韓国だったと思うが、一つの考え方に、

「世界の終わり」

 という説がある。

 宗教がらみのことなのだろうが、

「神が指定したその日に、世界が滅亡する」

 と言われるものであった。

 世界が終わるというその日に、これを信じている人は皆、どこかの競技場のようなところに集まって、仲間同士で祈りを捧げながら、来るべき日を迎えるということになっていたのだという。

 普通であれば、なかなか信じられるものではないのだろうが、それだけ、宗教団体としてお結束が固いということなのだろうか?

 それよりも、聖書の中に書かれている、

「ノアの箱舟」

 のように、ノアが、陸地に大きな箱舟を作っているのを見て、まわりの人がバカにしたりしていたのだが、実際に洪水が起こってみると、皆死滅してしまう中で、ノアとあらゆる動物の選ばれたつがいたちと一緒に、洪水をやり過ごしていた。

 そんな話を見ると、世界の終わりという話も、まんざら嘘でもなさそうな気がしてくる。ノアの話と、

「世界最終説」

 との話とでは、その違いは、ノアの話が、一家族だけ生き残って、新たな人類が増えていくという考えと、世界最終説が、

「世界は完全に滅んでしまって、永遠の幸福を得られるのが、あの世でのことである」

 という考え方だ。

 どうせ皆死んでしまうのだから、

「天国に行って、幸せになるか、地獄に堕ちて永遠の苦痛を味わうか?」

 ということになるというのだった。

 ただ、そのためには、

「この世でお金を持っていても仕方がないので、死ぬ前に、教団にすべて寄付をしなさい。寄付をすれば、神様が天国へ導いてくださる」

 と言って、信者からお金を無心したことだった。

 明らかに、

「詐欺だ」

 ということは分かりそうなものだ。

 それなのに、誰も疑問を持つこともなく、実際に、問題の日を迎えることになる。

 当然のことながら、世界が滅びるなどというのは、完全に迷信だったのだ。

 だとすれば、

「この世の最期を一緒に迎えて、天国に上っていこう」

 ということで、この場に集まった人たちはどうなるというのだ?

「ああ、世界が滅びることはなかった。よかったよかった」

 で済むことだろうか?

 問題は、教団にお布施という形で寄付してしまったのだから、完全に、一文なしではないか?

 当然そこで、信者たちは目を覚ます。

「おいおい、これじゃあ、詐欺じゃないか?」

 といって騒ぎ立て、告訴をすることになった。

 実際にその判決がどうなったのか、正直知らないが、いや、知りたくないというのが事実かも知れない。

 そんな当たり前の詐欺に引っかかる方も引っかかる方である。

 だが、教団の側としても、

「世界が滅びることを、真剣に信じていた」

 というだろう。

 そして、彼らの役目としては、自分たちがあの世で天国にいくためには、この世で使用した寺院や、施設を、きれいにしてから、この世の終わりを迎えなければいけないということだったようだ。

 だから、信者から金を募って、お布施として、施設を綺麗にしてから、この世の最期を向ける予定だった。

 しかし、世界は滅びることはなく、指定された日も、23:59の次は、何も変わらない、次の日の、

「午前0時」

 だったのだ。

 一般信者は明らかに、

「騙された」

 と思うのだろうが、教団側とすれば、自分たちも中途半端に生き残ってしまったことが命取りになってしまっていた。

 そうやって考えると、この世が終わっても、地獄、生き残っても地獄だったと言えるのではないだろうか?

 果たして、彼らの目指す極楽というのは、どういうものなのだろう?

 宗教によっては、

「天国も地獄も、結局はこの世にしかない。別の世が存在するとしても、そこには、同じ世界しか存在しない」

 という、他の宗教をまるで敵にでもしたかのような発想であった。

 だが、この説が一番正しいのではないかと思えてきた。

 特に、この時のような、

「世界最終説」

 などという逸話が残る話においては、本当に、教えにあるような天国と地獄は存在するのだろうか?

「あの世に行ってしまうと、この世の記憶はなくなっていて、あの世に行った自分は、今の自分ではない」

 という発想になるのではないか?

 そう考えれば、宗教というのは、実に矛盾している。あの世に行って本当に自分としてあの世に行けるのかもハッキリしていないではないか。そもそも、輪廻転生といって、生まれ変わることができるのは、決まった人たちであり、しかも生まれ変わる時に、人間に生まれ変われる人の中から、もう一度自分に生まれ変わるなど考えられない。

 まず、地獄に行った人間は、生まれ変わるとすれば、人間以外のものになってしまうという考え方だからである。

 人間に生まれ変わったとしても、前世で記憶はすっかり消えているのも分かっているはずだ。それでも、

「極楽に行ける」

 といえるのだろうか?

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