第5話 推しに特定されました。

 ボッ、と、辰巳の心臓が肋骨を飛び出ようとする。


 胸を押さえると、今度は喉元までせり上がってきた。びょんびょんと心臓が飛び回り、せわしなく感情が飛び交う。駆けめぐる血流に全身が痛むようだ。


 自分の顔を見せたくなくて、何かをうつしてしまうのも怖くて、マスクをあわててつける。


 先ほどまで薄暗い居酒屋だったのに、今は妙にまぶしく感じられる。

 辰己はゆっくりと深呼吸し、どうにか一言呟いた。


「なんで……」

「それは『どうやって』、『どうして』、どっちの質問だ?」


 端的に問い返す口調に、辰己はぎゅっと目をつむる。


 確かに推しだ。

 マスコミからの、颯大についての質問を無視しているときと同じ、芯の強さのある声は、間近で聞くと恐ろしさすらあった。


 縁治から距離をとるように、辰己は居酒屋の壁にくっつく。夕夏は手をあげた。


「えーっと、どっちも聞きたいです。どうやってここに?」

「お前らがいつもやってんじゃん。特定」


 縁治は自分のスマホを取り出し、辰己のSNSアカウントを表示した。

『詰介』という名前の下に表示された、先ほど投稿した写真を指さし、ニヤリと笑う。


「俺も前使ったし、写真見れば一発。皿とテーブルは変わんないし」


 ひ、と辰己は小さな悲鳴を漏らす。

 特定されるってこんなに怖いのか。


 ちょっとした投稿だけで、自分の個人情報が明らかになってしまうことは恐ろしい。だが、明らかにしようという執着を自分に向けられている事が、特に恐ろしく感じられた。


 自分のようなつまらない人間に、そんな執着を向けられる――しかも、推しから。

 考えたことがある方がおかしいだろう。


 夕夏はなるほどと呟く。


「もしかして今日、カテコで辰己の出席確認してました?」


 出席確認とは、主に舞台上の人物が、自分のファンが観に来ているのを確認することを言う。

 縁治は当然のように頷いた。


「してたしてた。上手の席にいたよな」

「ほら言ったじゃん。辰己、縁治から見られてるよって」


 自分の意見の正当性を肯定され、夕夏は得意げな顔をした。辰己は息も絶え絶えになりながら、気持ちを吐露する。


「俺……自分が狂ったかと思った……」


「なんで? あ、ローストポーク食べていい? オレ、腹減ってて」

「どうぞ……。

 だって縁治は推しだから、俺のことなんか見ないと思ってて、でも見てるから、縁治の見てるものを勘違いするくらい、狂ったかなって……」


 俺のことを見てくれているんじゃないか。

 自分の存在が、推しにとって意味があるものだと信じ始めてしまったのではないか。

 そう思ったことは口に出来なかった。


 縁治はまっすぐな男だから、きっと言ったら答えをくれるだろう。縁治にとっての辰己がどんな存在なのか、端的に表現してくれる。

 だが今の辰己はいっぱいいっぱいで、どう答えられても受け止められない状態だった。


 だって推しが隣でローストポーク食べてるんだぞ?

 もはや泣きそうになっている辰己に、夕夏は吹き出す。


「ヤバ。辰己がそんなぐずぐずになってるの初めて見たんだけど」

「そう? オレの前だとよくなってるけど」


「想像できるわ。てかめちゃめちゃ認知してるじゃん、辰己のこと」

「まー、オレの古参男子だし? さすがにねえ」


 旧知の仲のように縁治と話し始める夕夏に、辰己は怨嗟を漏らす。


「お前だって、ももなの前だったらテンションおかしくなるだろ……」


「飲み物どうする?」

「明日もマチネあるからノンアルかな。ジンジャエール……あとローストポークもオレ一人で食べちゃいそうだから、先に頼んどくわ」


 マイペースな縁治に、辰己は悔しいほど彼らしさを感じていた。

 目の前にいるのは確かに推しだ。何度目になるかわからない確証を改めて得る。だからこそ、今自分の目の前にいることが信じられない、という心の反発もあった。


 頭と口が回らず、オタクのテンプレートとなった言葉がまろびでる。


「……解釈違いです」


「えっ、ローストポーク食べちゃダメ? オレが好きなの知ってるだろ」


「違う。縁治がオタクに会いに来るのが解釈違い」


 おどろいて箸を止めた縁治に、辰己はゆっくりと答えた。


「縁治はファンに対してフラットだと思ってた……」

「まあそりゃそうだろうな。誰かを特別扱いしたら、あとあとめんどくさいし、いつも気を使ってるよ」


「なら、オタクに会いに来るのもないだろ」


 声がこわばり、突き放すような口調で辰己は言う。

 縁治は顔をしかめた。


「オレがここにいるのは迷惑ってことか?」

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