第5話 もふもふが好きになった日

 聖女になった時に家名を捨ててからは没交渉になっているが、オリビアは子爵家の長女だった。

 跡継ぎがいなかったために4歳までは厳しくしつけられたが、弟……それも双子が生まれてからは状況が一変した。


「きいて、おかあさま」

「オリビア……見て分からない? いま忙しいの。後にして」

「はい……ごめんなさい」


 大きな溜息とともに名前を呼ばれ、びくりと肩を震わせた幼いオリビアは、目に涙を溜めながら母に頭を下げた。

 母の言うが来ないことをとっくに理解していた。


 父にしても同じだ。


「いやぁ……オリビア生まれずどうなるかと思ったが、ようやく我が家も安泰だ!」


 笑みを湛えて双子に頬ずりする父の目に、自分は映っていなかった。


「あの、おとうさま。わたし、絵をかいたの」

「絵? そんなものはどうでも良い。弟たちの手本になるようにもっと勉強をしなさい」

「……はい」


 両親はおろか家全体が弟たちのために動き始め、オリビアは独りぼっちになった。


「きょう、かていきょうしの先生にほめてもらったの」

「だから何だ。忙しいんだ、後にしろ」

「……はい」

「れきしのテスト、まん点だったの」

「これからも弟たちの手本になれるように頑張れ」

「……はい」


 そんなオリビアの孤独を埋めてくれたのは、屋敷の庭に住み着いた犬だった。白黒の毛がふさふさの、オリビアと同じくらいの大きさの犬だ。

 ちょっとした食べ物を持ち出し、犬に与える時だけが唯一の安らぎだった。食事中ですら碌に見向きもされなかったため、ものを選べば食べ物を用意するのは難しいことではなかった。


「ねぇ、あなた、おなまえはなんて言うの?」

「オリビア、いーっぱいほめてもらったの」

「きょうはね、ダンスの先生に頭をなでてもらったよ。すじがいいんだって!」

「あなた、しゃべれないの? それとも……もっとなかよくなってから、かな?」


 植え込みの影、はぐはぐと食物を食べる犬の頭を撫で、首を抱きしめ、柔らかな体毛に顔を埋める。


「あったかい……いつか、おなまえ教えてね」


 いつか話してくれると信じていたオリビアと犬との友情は、ある日突然終わりを迎えた。


「オリビア!」

「おとうさま。どうしたの?」

「どうしたのじゃない! お前、庭で小汚い犬を飼っていたな!?」

「き、きたなくなんかないよ!」

「うるさい! どうりで最近痒いと思ったんだ!」

「オリビア。弟たちはまだ赤ちゃんなのよ? もし噛まれたら大怪我するわ」

「かんだりしないもん! やさしいもん!」

「犬は捨てにいかせる! 二度と拾ってくるなッ!」


 父の決定に、オリビアは人生で初めて反抗した。


「やめて! おねがい! もっとべんきょうがんばるから! もっといいこにするから! おねがい! すてないで!」

「近づくなッ! 犬の毛がついているだろうが!」


 父に頬を打たれ、まだほんの子供だったオリビアは床を転がった。頬が真っ赤に腫れ、鼻血がドバっと噴き出した。

 痛みとショックにオリビアが呆然とするが、それでも両親の意識はオリビアへは向かわなかった。


「……万が一、病気を持っていたら怖いわ。しばらくは別々に食事を取ることにするから、子供たちにも近づけないで」


 侍女にそう命じ、母は頬が腫れあがったオリビアに背を向けた。

 その背中が完全に消えてから、オリビアはふらふらと立ち上がった。そのまま庭に向かうが、すでに唯一の友達の姿はどこにも見当たらなかった。

 探そうとして、しかし呼び掛けるための名前すら知らないことに気づいた。オリビアの頬に、涙が流れる。


「どこ」

「おいていかないで」

「おねがい……でてきて」

「…………わたしを、ひとりにしないで」


 庭の植え込みの陰、犬と一緒に過ごしていたところでうずくまった。手の中に残るぬくもりと柔らかな体毛の感触を忘れないよう、胸に両手を抱いて泣きじゃくった。


 どれほどそうしていただろうか。


 悲しみ。疲れ。孤独。恐怖。痛み。

 そして絶望。

 あらゆる負の感情が入り交じってぐちゃぐちゃになったオリビアは、自分が起きているのか寝ているのか分からなくなっていた。それどころか生きているのか死んでいるのかすら分からなかった。


 泣きすぎたせいか、まぶたはパンパンに腫れ、酷い頭痛にさいなまれていた。


「……なぜ泣いている」


 声がした。

 変声期特有の、ややザラついた子供の声だ。

 弾かれたようにオリビアが顔をあげると、そこには立派な体躯たいくの狼がいた。銀糸のような体毛に、冴え渡る満月のような金色の瞳。

 優美な姿とは裏腹にナイフのような牙を生やした狼が、まっすぐにオリビアを見据えていた。


「なぜ泣いている、と聞いた」


 オリビアは目が零れ落ちそうなほどに丸くして、それから狼に抱き着いた。


「っ!? 何を——」

「あのね。おともだちだったの」


 戸惑う狼に、オリビアはすべてを吐露した。両親が自分を見てくれなくなり、独りぼっちだったこと。

 寂しくて寂しくてたまらなかった時に、寄り添ってくれた大切な友達だったこと。

 両親に見つかって、友達はどこかへ捨てられてしまったこと。

 優しくて、あったかくて、ふかふかで——しかし、自分には最後まで名前を教えてくれなかったこと。


「わたし、おともだちじゃなかったのかなぁ……」

「普通の犬は喋らないぞ?」

「えっ!? そうなの!? でも、あなたはしゃべっているわ」


 常識を知らない子供だとあなどっていたのに、急に正論をぶつけられた狼は言葉に詰まる。


「……」

「……?」

「……ゆ、夢だ。これは夢だから狼が喋っても問題ない」

「ゆめ……?」


 おうむ返しに訊ねたオリビアに、狼は慌てて頷いた。


「友達をなくしたのだろう? お前は泣き疲れて眠ってしまったのだ……だからこれは夢だ」

「そっかぁ」

 

 眉をさげてしょんぼりするオリビアを見て、狼は顔を覗き込んだ。


「……あなたと、おともだちになりたかったのに。夢なのね……」

「夢だが、友達になっても構わんぞ」

「ほんとう!?」

「ああ、本当だ」


 オリビアは狼に飛びついた。首に手を回し、全身を体毛に埋めるようにして、顔をこすりつけた。


「あったかい……もふもふ……おひさまのかおりがする」

「……そうか」


 狼は居心地が悪そうにしていたものの、先ほどまで泣きじゃくっていた少女を追い払うこともできず大人しくしていた。


「……オリビアは家から離れて自由になった方が良いと思う」

「じゆう」

「ああ。貴族の子女が家から解放されるには……そうだな。どこかに嫁ぐか、そうでなければ聖女になるくらいか」

「せいじょ? せいじょってなぁに?」

「協会が認定した、神聖魔法の使い手だな。ケガや病を癒し、人々を助ける女性だ」

「なる! わたし、せいじょになりたい!」

「試験に合格しないといけないな。魔法をたくさん練習し、勉学に励め」

「……べんきょう、しなきゃだめ?」

「ああ、駄目だ」

「……がんばる」


 嫌そうな気配を隠しきれないオリビアに、狼が笑った。口元から鋭い牙が覗く光景は普通ならば悲鳴をあげてもおかしくない迫力だったが、オリビアはへっちゃらだった。

 ふにゃり、と陽だまりのような笑みを狼に返し、再び抱きついた。


「聖女よりどこかの家に嫁ぐほうがずっと楽だぞ?」

「や! せいじょがいいの!」

「なんでだ?」

「……もしおともだちがけがしてたり、病気になってたら、助けてあげたいの」


 狼は大きな前足をオリビアの頭に乗せた。爪が当たらないよう、肉球だけでゆるゆると髪を撫でる。


「そしたら、きっと、わたしのこといらないって言わないだろうから」


 あまりにも悲しい言葉に狼は言葉を詰まらせた。思わず叱ってしまいそうになり、しかしオリビアから語られた本人の境遇を思い出したのだ。


「友達は損得でなるものじゃないぞ。聖女でなくともそんなこと言うわけないだろう」

「ほんと!?」

「ああ、本当だ」

「じゃあ、もしあなたがけがしたら、ぜったいにたすけにいくね!」

「そんなことしなくても、友達だぞ?」

「うん! でもおともだちの役に立ちたいの!」

「そうか……なら、もしもの時はお願いする」

「うんっ!」


 それから狼とオリビアはたくさん話をした。オリビアが頑張ったことや我慢したことを話して頭を撫でられる。誰かにほめてもらうのは、ずいぶん久しぶりのことだった。

 一方の狼も嫌なことがあって家を飛び出してきたらしい。森の中を迷いながらここにたどり着くまでの冒険を話してオリビアが目を丸くする。

 家の外を知らなかったオリビアにとって、狼の冒険は絵本よりもずっと面白いものだった。


 ——楽しい時間はあっという間に過ぎる。


 気づけば日が暮れ始め、屋敷の中からオリビアを探す侍女の声が聞こえ始める。

 いかに興味がないとはいえ、両親の耳に入れば『大人の手をわずらわせた』と叱られるのは目に見えていた。


「いけない! もどらなきゃ!」

「そうか。元気でな」

「おおかみさん、おなまえ教えて!」

「……ルーカスだ」

「るーかす……るーかす……うん、おぼえた! またね、ルーカス!」


 泣きじゃくっていた頃とは別人のように元気になったオリビアを見送って狼――ルーカスは小さく呟いた。


「またね、か」

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