第41話 誰にも渡したくない(羽菜side)

 宿泊学習最終日に、こんな事件が起きるとは思わなかった。山を歩いている最中に視界が霞んでよろけた直後、崖から落下してしまった。あろうことか綾斗も道連れにして……。


 綾斗が庇ってくれたこともあり、大怪我はしないで済んだ。だけど背中から滑り落ちた綾斗は、酷い怪我を追っているに違いない。自分のせいで綾斗に怪我を負わせてしまったと考えると、頭が真っ白になった。


「ごめんなさい! 私の不注意で、綾斗くんまで!」


 罪悪感に駆られて震えていると、正面からぎゅっと抱き寄せられた。温もりに触れると、震えがピタリと収まる。何度も嗅いだことのある綾斗の匂いに包まれると、恐怖心が薄れていった。


 綾斗からハグをされたことは何度もあったが、今日はいつもより頼もしく感じる。固い胸板に顔を埋めていると、改めて綾斗が男の子であることを実感した。


 心臓が暴れまわって仕方がない。これは崖から落ちたせいではなさそうだ。自分は一体どうしてしまったのか? 感情が高ぶって、涙が滲んできた。


「千颯が助けを呼びに来てくれるって。それまでここで待機していよう」

「はいっ……」


 動揺を悟られないように頷くと、不意に綾斗の手が頭に触れた。まるで子供を宥めるように、優しく頭を撫でる。


「大丈夫だから。泣かないで」


 その言葉でさらに涙腺が緩む。恥ずかしさのあまり、綾斗の胸に顔を埋めて泣き顔を隠した。


 綾斗が優しいことは分かっている。だけどその優しさに、ここまで感情を乱されるとは思わなかった。


「綾斗くんは、こんな時でも冷静ですね」

「うん。自分でもびっくりしているけどね」


 綾斗はいつも通り穏やかに微笑んでいた。その笑顔が今は頼もしい。


 だけど綾斗がどうしてここまでしてくれるのか分からなかった。崖に落ちたクラスメイトを助けるなんて簡単にできることではない。下手をすれば命の危険に晒される。冷静沈着で賢い綾斗が、どうしてそんな無謀なことをしたのか分からなかった。


「どうして、助けてくれたんですか?」


 ただの友達のためにどうしてそこまで身体を張れるのか? 綾斗の真意を知りたくて尋ねてみると、迷うことなく告げられた。


「そりゃあ、大事だからだよ」


 驚いて顔を上げる。綾斗は、陽だまりのような優しい笑顔を浮かべていた。

 その瞬間、胸が締め付けられる。呼吸の仕方さえ分からなくなった。


*・*・*


 その後のことは、正直よく覚えていない。気付いた時には、病院の待合室で座っていた。


 隣には、養護教諭の間宮先生がいる。間宮先生は、いつも通りの呑気な口調で喋りかけてきた。


「二人が崖から落ちたって聞いた時は焦ったよ~。でも大怪我しなくて良かったね。白鳥さんは擦り傷で済んだし、菩薩くんも骨は折れてなさそうだったし~」


 羽菜は崖から滑り落ちた拍子に腕と膝を擦りむいただけで済んだ。念のため病院で診てもらったが、傷口を治療してもらっただけですぐに解放された。


 今は綾斗が診察を受けている。待合室の椅子に座りながら、綾斗の無事を祈っていた。


「それにしても崖から落ちたクラスメイトを助けるなんて、菩薩くん超カッコいいじゃん。先生見直しちゃった」


 その意見には同意だ。助けてくれた時の綾斗は、まるでヒーローのように格好良かった。


「あーあ、私があと五歳若かったら狙ってたのにな~」


 教師らしからぬ発言に、羽菜は眉を顰める。そんな反応すら楽しむかのように、間宮先生は目元を半月状に歪ませながら言葉を続けた。


「まあ、でも、今時年齢は関係ないよね。彼だったら秘密も守ってくれそうだし」


 本気で綾斗を狙っているかのような発言を聞いて、カアアっと頭に血が昇る。


「駄目です!」


 気付いた時には、人目を憚らず叫んでいた。隣にいた間宮先生は、驚いたようにこちらを凝視している。


 取り乱してしまった自分に戸惑っていると、間宮先生の口元がにやりと弧を描く。


「それなら、ちゃんと捕まえておかないと駄目だよ」


 ぱちんとウインクされる。何と返せばいいのか分からずに固まっていると、診察室から綾斗が出てきた。すぐに羽菜と間宮先生は椅子から立ち上がる。


「菩薩くん、どうだった?」

「軽い捻挫ねんざだそうです。……あと公共の場で菩薩くんは辞めてください」


 綾斗は片足を引き摺りながらも、淡々と訂正する。ひとまず大怪我はしていないようで安心した。


 ホッと胸を撫で下ろしていたのも束の間、間宮先生が綾斗の隣に駆け寄る。


「足痛い? 肩貸すよ?」

「すみません。助かります」


 一人では歩きづらかったのか、綾斗は間宮先生の肩に手を回す。その瞬間、激しい嫌悪感に襲われた。


 二人がくっついている姿をこれ以上見たくない。咄嗟に綾斗の隣に駆け寄ると、二人を引き剥がした。


「肩なら私が貸します!」


 突然乱入してきた羽菜を見て、二人はきょとんと固まる。驚く二人を見て、自分がいかに子供っぽい真似をしているか思い知らされた。


 どう言い訳しようか頭を悩ませていると、綾斗が困ったように視線を泳がせる。


「やっぱり平気だよ。一人でも歩けないことはないから」


 断られたことで、少なからずがっかりしている自分がいた。間宮先生は、綾斗と羽菜を交互に見つめながらにんまりと笑う。


「おやおや、これは……」

「先生」


 綾斗が牽制すると、それ以上揶揄ってくることはなかった。

 すると間宮先生はスマホを取り出して、二人のもとから離れようとする。


「とりあえず私は、二人の怪我の具合を報告してくるから。そこの椅子で待ってて~」


 タッタッタと片手でスマホを操作しながら、病院の外に出ていく。取り残された二人は、呆然と間宮先生の背中を眺めていた。姿が見えなくなったところで、話を振られた。


「座って待ってようか」

「はひっ」

「はひ?」


 急に話しかけられたことでおかしな声を上げてしまった。綾斗は不思議そうに首を傾げていた。


 二人並んで待合室の椅子に腰掛ける。いつもは他愛のない話をしているうちにあっという間に時間が過ぎていくのに、今は時間の流れがやけにゆっくりだった。


 綾斗の隣に座っているだけでドキドキして仕方がない。顔もどんどん熱くなっていった。


「羽菜ちゃん、大丈夫? 顔赤いけど、熱でもあるんじゃ……」


 綾斗は何気なく額に触れようとする。驚きのあまり、「ひゃっ」と悲鳴をあげてその手を叩き落としてしまった。


「あ……ごめん……」


 拒絶されたことで、綾斗はあからさまにショックを受けている。その姿を見ていると申し訳ない気分になった。


「えっと、こちらこそ、すいません……」


 謝りながら視線を落とす。心配してくれた綾斗の気持ちを無下にするのは申し訳ないが、こちらにも言い分がある。今、触れられたら心臓が飛び出してしまうに違いない。


(私は一体、どうしちゃったんだろう)


 綾斗の隣にいるだけでドキドキするし、顔が熱くなる。それだけではない。彼のことを誰にも渡したくないと思っていた。


 こんな感情は、他の友達には抱いたことはない。自分の感情の変化に戸惑っていた。


 綾斗とは友達でいたいのに、それだけでは満足できなくなっている。この先、どんな顔をして綾斗と接すればいいのか分からなくなっていた。



◇◇◇


ここまでをお読みいただきありがとうございます。第二部はこれにて完結となります。


第三部は期間を空けてからの再スタートとなります。

「いいところなのに~!」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、綾斗と羽菜の物語をより良い形でお届けするためにも、しばらく準備期間を頂けると幸いです。

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