第8話 誰もいない廊下で

 綾斗あやと羽菜はなは自習室でみっちり勉強し、下校時刻を知らせるアナウンスを聞いてから帰り支度を始めた。


「帰ろうか、羽菜ちゃん」

「はい。いつの間にか、私達だけになってしまいましたね」

「ホントだ。もうみんな帰っちゃったみたいだね」

「最後の人は自習室の鍵を閉めて、職員室に返さないとです」

「そうなんだ」


 羽菜は自習室の常連だったようで、手慣れた様子で壁にかけられた鍵を取り、自主室の鍵を閉めた。


 それから二人で職員室に向かい、図書室や音楽室などの鍵が保管してある壁掛けフックに自習室の鍵をかけた。


 ふと、屋上の鍵が紛失した話を思い出す。壁掛けフックに屋上の鍵をかける場所がないか探してみたが、屋上とラベリングされた場所は見当たらなかった。


(さすがに生徒の手に届くような場所では保管はしないか……)


 もし他の鍵と同じように屋上の鍵を保管していたとしたら、盗まれても仕方ない。さすがに先生もその辺は分かっているらしく、屋上の鍵は別の場所で保管されていたようだった。


 もし鍵を盗んだ生徒がいるとするならば、保管場所を突き止めた上で盗んだことになる。計画的犯行だったのかもしれないとぼんやりと考えていた。


 すると隣にいた羽菜が不思議そうに顔を覗き込む。


「どうしました?」

「いや、なんでもないよ」


 綾斗は笑って見せる。頭の中で推理小説を真似事をしていたのは、羽菜にはあまり知られたくなかった。


 職員室を出て、生徒のいなくなったガランとした廊下を歩く。そこで綾斗は、あらためて羽菜にお礼を伝えた。


「今日はありがとう。羽菜ちゃんに教えてもらって助かったよ」

「そう言っていただけると嬉しいです」


 お礼を受け取った羽菜は、俯き加減で小さく微笑む。それは密かに喜びを噛み締めているようにも見えた。


 顔を上げると、羽菜は言葉を続ける。


「綾斗くんは解説を理解するまでの時間が早いですよね。きっと地頭がいいんでしょう。私は数をこなさないと理解できないので、正直羨ましいです」


「それは買いかぶり過ぎだよ。でも、今日一緒に勉強して分かったけど、羽菜ちゃんは努力家タイプなんだね。あの問題集だってもう三周はしてるでしょ?」


「よく気付きましたね。私は凡人なので努力する他ないのです」


「努力できることも才能だよ。現に結果も出してるんだし」


 綾斗は褒めたつもりだったが、羽菜は目を伏せながら浮かない表情を浮かべた。


「勉強は努力した分だけ結果が返ってきますからね。でも、勉強ができるのを評価されるのなんて学生の間だけです。学生という枠を超えたら、私なんて役立たずですよ」


 いつになくネガティブな発言に、綾斗は戸惑う。


「役立たずなんてことはないでしょう……」

「いいんです、フォローしていただかなくても……」


 羽菜は小さく溜息をつく。丸まった背中はどこか頼りなかった。夕焼けに飲み込まれて消えてしまいそうな危うさも感じる。


 放っておけない。綾斗は反射的にそう感じた。


 羽菜を励ます言葉を探す。……が、ちょうどいい言葉が見つからなかった。咄嗟に思いついた言葉なんて、羽菜にとって紙のように薄っぺらいものに感じた。


 他に羽菜を励ます方法がないか。そう考えた時、ある方法を思いついた。


 昨日、羽菜に癒してもらったように、ぬくもりに触れれば羽菜の気持ちも少しは軽くなるかもしれない。


 自分とハグをすることが羽菜の癒しにつながるなんて考えるのは、あまりに傲慢だろう。思い上がりにもほどがある。何を勘違いしているんだって罵られても文句は言えない。


 だけど……。


 自分の言動で、ほんの少しでも羽菜の気持ちが紛れるのなら、試してみる価値はあるのかもしれない。


 綾斗は足を止める。そして緊張を隠しながら伝えた。


「ちょっと疲れたね」


 流石に正面切ってハグしようなんて言えない。昨日、駅のホームでうっかり口走ったのは油断していたからだ。まともな思考回路では到底口にできない。


 だからこんなにも遠回しな言い方になってしまった。羽菜に伝わるかは……正直分からない。


 唐突な綾斗の言葉に、羽菜は目を丸くしながら立ち止まる。


「勉強で疲れましたか?」

「うん」

「そうですか」


 恥ずかしくて羽菜の顔が見られない。視線を逸らして俯いていると、羽菜が目の前までやってきた。


「それなら、仕方がありませんね」


 羽菜は上目遣いのまま綾斗に身を寄せる。そのまま華奢な腕を綾斗の背中に回した。


(伝わった……)


 疲れたの一言でも、羽菜にはちゃんと伝わった。そんな勘の良さも心地よく感じた。


 柔らかくて、温かい感触に包まれる。勉強の疲れがジワジワと抜けていくような気がした。


 だけど今回は自分だけに意識を向けているわけにはいかない。羽菜の気を紛らわせることが目的なのだから。


 視線を落として、肩に顔を埋める羽菜を見る。ハグをしていることもあり、通常では考えられないほどの至近距離で羽菜を直視することになった。


 肌は透き通るように白く、まつ毛はくるんと綺麗なカーブを描いている。唇はほんのり艶のある桜色をしていた。


(羽菜ちゃんは、やっぱり可愛い)


 そう思わずにはいられなかった。


 羽菜は綾斗を抱きしめながら、優しく目を閉じていた。それはまるで、視界をシャットアウトして綾斗の体温を確かめているようにも見える。そこまで考えるのは自意識過剰かもしれないが、少なくとも嫌々ハグしているようには見えなかった。


(ほんの少しでもいいから、気が紛れればいいけど……)


 羽菜のぬくもりを感じながら、そう願っていた。


 密着していた身体をそっと離す。目の前の羽菜は、恥ずかしそうに頬を赤らめていた。


 さっきまでの暗い表情は、もうそこにはない。羽菜は頬を赤くしながら指摘した。


「綾斗くんは、ハグ依存症ですね。用法容量を守らないと中毒になってしまいます」


 視線を逸らして早口で指摘する羽菜。その反応さえも、可愛いらしく思えた。

 綾斗は冷静を装いながら提案する。


「それならルールを追加する?」

「そうですね。ハグは一日一回までにしましょう」

「それは……十分すぎるくらいだよ……」


 一日一回、羽菜とハグをする。それだけで中毒になってしまいそうだ。


◇◇◇


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作品ページ

https://kakuyomu.jp/works/16817330662880922417

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