第四話

 彼が師匠となり、私は鍛えられることになったわけだが――それから始まった訓練は厳しく険しい道のりだった。

 毎日昼時になると、食堂で急いで食事を終え、裏庭に集合。ほとんど利用者がいないので格好の稽古場になるのだ。


「来てくれたか、ローレル嬢! では早速始めよう!」


 ニックは本当にいつも元気だ。あまりにも元気過ぎて、私はついていけない。


「裏庭百周! さあ行くぞ!!」

「こんな細い脚の私にできると思います!? 普通、まず最初はゆるいトレーニングから始めるんじゃ!?!?」

「オレについて来てくれ、ローレル嬢!」


 そう言うや否や、彼はものすごい勢いで走り出してしまう。

 必死に追いつこうとしたが、三十秒と絶たずに全身が悲鳴を上げ、心臓がばくばくと鳴り出してくたばった。


「……はぁっ、はぁっ、無理ぃ」


 前世でも体育は得意科目ではなかったし、勉強で優秀な成績を収めるのにいっぱいいっぱいなせいで運動不足だったローレルではウォーキングすらできるか怪しい。

 私が地面に座り込んだことに気づいたニックは駆け寄って来て、困ったような顔を見せる。


「この程度が貴女にとってきつかったとは思わなかったぞ! まだ準備運動程度なのだが?」


「あなたにとっての準備運動は私の限界値を超えてるんです……! もっと乙女の体を労ってください」


 こちとら前世も含めれば三十年以上乙女をやっているのである。心身共に貧弱なのである。


「仕方がない! じゃあ幼児向けの内容にするか!!」


 幼児向け? お散歩とかその程度だろうか?

 それならできる。だが強くはなれないだろう――なんて甘く見ていた私が馬鹿だった。


「ひぃぃぃっ、腕立て伏せ五十回とかないわっ! 幼児にできるかこんなもん!!」


 思わず口調が思い切り崩れてしまうほど地獄な目に遭わされていた。

 腕立て伏せ五十回。私の体型はスレンダーとはいえど、木の枝のような腕に支えられるわけもなく、十回程度で崩れ落ちてしまう。


「最低でもそれをしないと強くはなれないぞ!! 頑張れ、頑張るんだローレル嬢ッ!」


 私を激励するニックはといえば、見るからに重そうなダンベルを軽々と持ち上げたり、逆立ちの状態で腕立て伏せのようなことをしたりとボディービルダーのようなことをしている。とても貴族令息には見えない。


「うぅぅぅっ、でも負けてはいられない……!」


 私は歯を食いしばり、目をカッと見開く、

 手を地面につけ力を込め、体を上下させるだけ。簡単な話だ。頑張ればきっとできるはず。


 しかしやはり十回弱でぺしゃんこになり、全身が痛み始めた。しかし諦めずに挑んだ三度目、今度は五度で限界だった。


「ひぃ、ひぃ、ふぅ。これで限界……もう、無理です」


「何を言っているんだローレル嬢。筋肉が上げる悲鳴に耐え、限界を超えてこそ意味があるんだ! さあ!!」


 さすが脳筋!と叫びたくなるのを我慢して、私はフラフラと立ち上がる。

 ――そのあと腹筋十回をさせられて体力が死んだ。




 毎日のように腕立てをし、腹筋運動をはじめとしたありとあらゆる筋トレをし、裏庭を走りまくって、徐々に体力をつけていった。


「はぁ、はぁ、はぁ、足が攣る!」


 筋肉痛がひどいし、すぐに息が苦しくなるし、足が重くて前に進めなくなる。

 そんな私のすぐ隣についているニックは、「もっとできる!」だの「とにかくやるんだ!」だの励ます励まし、私がどうしても限界の壁にぶち当たった時は、意外に丁寧に説明してくれた。


 筋肉の効率的な動かし方、負担軽減の方法など。

 教わったことをそのままやってみると、なるほど確かに少しは楽になった。


 それでもきついことはきついのだが。


「なかなかいい調子だ!! あと腕立て伏せ百回!」


 ニックの辞書に手加減という言葉はないらしい。

 おかげで私の細かった腕は元々とは比べ物にならないほど太くなり、足もずいぶんと逞しいものへ変化した。肩幅も広くなったもののまだ制服を着ていたらどうにか誤魔化せるレベルだが、ドレスを着てしまえば違和感が半端ないと思う。


(どうせいくら美しく着飾ってても笑われるなら、筋肉のついた令嬢が可憐なドレスを着ている滑稽さで笑われた方がまだマシかも知れないけど)


 筋トレに日々励んでいるおかげか、心も少し強くなってきたような気がしないでもない。

 いくら蔑みの目で見つめられても体を動かせばストレスが吹き飛ぶようになったし、もしかすると婚約破棄前より健康的な生活を送っているかも知れない。


 一ヶ月くらいの間ニックに指導されて、わかったことがある。それは彼が完全なる善意で指導してくれているということ。


 どうやら私の変化に気づいたらしいアデルさんが「一体何をしてるんですか?」と天使のような微笑みを浮かべながら、しかし目は全く笑わないで問いかけてきたことがあったのだ。こちらも笑顔でスルーしておいたのだけれど、つまり彼女の差し金ではないと判明した。

 ラッセル殿下の指示なら彼女も把握していてもおかしくないし、私自身少し探ってみたのだが大した繋がりは見られなかった。一応ご学友ではあるのだが、ラッセル殿下は彼の熱さに辟易して離れ気味らしいということは掴めたが。


 確かに常人であれば鬱陶しいと感じるだろう。しかし今の私にとって、裏表がなく、裏切られる心配がなさそうな人物というのは非常にありがたいものだった。


「ローレル嬢もだんだんと一人前になってきたな!! 芸術品のような肉体が光り輝いて見える!」


「そうでしょうそうでしょう!」


 ニックに釣られて私の声にも力が入る。

 認められているということが嬉しい。今の私になら、何でもできるような気がした。


 だから――。


「ニック、私、決闘したいと思っているんです」


「決闘? ああ、そういうことか! オレといよいよ対戦を」


「違いますっ。どうしてそうなるんですか、この脳筋! ……私がボコりたいのはラッセル殿下と男爵令嬢のアデルさんですよ」


 私がアデルさんをいじめていたことの冤罪をしっかり晴らそうだとか、名誉挽回だとかの目的はあるが、それは二の次三の次。

 それよりあのむかつく美少女顔を凹ませてやりたい、信じていたのに裏切ったラッセル殿下のイケメンな顔も腫れ上がらせてやりたいというのが私の純粋なる望みだった。


 決闘は合法だしそもそも提案してきたのは向こうなのだから何も問題ないはずだった。


「ラッセル殿下に、か。本来側近候補であるオレが言うべきではないのだろうが、それがローレル嬢の決断であればオレは応援しよう!」


「ありがとう。私、頑張りますね!!」


 ニック・メイブルは元のストーリーにおいてはいてもいなくても同じ、ただのモブ令息。

 けれど彼のおかげでここまで来られたのだ。さらにニックの力強い笑顔に背中を押され、私の覚悟は揺るがぬものとなったのだった。




 ――そして、その日の夕刻。

 授業が終わると同時に下級貴族の令嬢たちのクラスに赴いた私は、るんるんと鼻歌でも歌っていそうな足取りで寮へ帰ろうとしていた少女を引き留めた。


「こんにちは、アデルさん。ご機嫌麗しゅう」


「……ローレル様?」


 一気に怯えたような顔になるアデルさん。しかしその瞳を見れば、私を馬鹿にしつつも何か裏があるのではと探っているのは明らかだ。

 そんな彼女に、私は美しい微笑みを向けながら言った。


「あなたと、そしてあなたの想い人でいらっしゃる方に学園の裏庭にお越しいただきたいのですが、よろしいでしょうか」


「ま、またわたしにひどいことっ」


「そうですね。今回ばかりは、そうですよ。――決闘いたしましょう、アデルさん」

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