第7話 町屋の思い出のシーフードグラタン
見上げた2月の青空は、僕にツンとした寒さと開放感を与えてくれた。あの日から僕は松浦さんの家に住み込んでいた。中目黒にあるビンテージなマンション。そこで掃除や洗濯、ご飯の支度をしながら暮らして、もう3か月になる。
今日はグラタンにする。買い物袋には、牛乳や具材をたくさん買い込んだ。こんな寒い日には、グラタンの温かさがいい。きっと松浦さんも喜んでくれるはず。コートを抱き寄せながらそう思う。
服は松浦さんの趣味で女物ばっかりになってしまった。そういうことにしている。いまは黒いタートルネックのセーターと、タータンチェックのウールのスカートを着ている。コートだけは松浦さんのおさがりをもらった。男物の無骨なだけの黒いコート。僕はこれをライナスの毛布のように感じながら着込んでいた。
姉さんとクリスマスもお正月も過ごさないのは初めてだった。子供の頃から、ずっといっしょだった。あの冬の日だって……。
僕はまた歩き出す。うつむきながら歩いていく。姉さんとの思い出に浸りながら。
◆◇◆
僕らの父はお酒を飲むと暴れる人だった。母は働いていて、ほとんど家にいないので、夏休みと冬休みのときは、よく祖母の家へ避難していた。
祖母は荒川区にある町屋で暮らしていた。路面電車が走るのんびりとした下町だった。商店街のはずれには、普通の水槽がたくさん積み重ねられただけの「水族館」があり、そこでゆらゆらとしている金魚や熱帯魚を眺めるのが大好きだった。
僕が小学5年生、姉さんが高校1年生のときだった。もう少ししたらお正月というある日、姉さんと祖母が、埼玉の親戚へ会いに行くことになって、僕はひとりで留守番をすることになった。
こたつでテレビを見るのも飽きたとき、無邪気に家の探検を始めた。といっても6帖ぐらいの部屋だけだ。押し入れから箱を取り出し、開けて中の宝物を眺めるぐらいの、小さな探検だ。
仏壇の下の引き出しを捜索しているときに、それは出てきた。赤い石のペンダントがついた金色のネックレス。飴でも入れてたような小さなブリキの缶に入っていた。
赤い石を光に透かしたり、角度を変えて眺めてみる。
……きれい。キラキラしてる。
何気なしにネックレスをつけてみた。
首筋から胸に下がったネックレスを、指先でゆっくりなぞる。
安心するような愛おしいような、とても不思議な感じがする。
なんでだろう……。
でも、なんだかとてもいけないことをしているような……。
姉さんの「ただいまー」という声に飛び上がる。あわててネックレスを外そうとしたら、姉さんはそんな僕をすでに見つめていた。
「夏稀、どうしたん、それ」
「なんか見つけた、から……」
「そっか」
姉さんはそっけなく言う。でも、顔は真っ青になっていた。静かに短く僕へ言う。
「着替えよっか?」
「え? どこか行くの?」
「そうだね……。おなかすいたでしょ? お昼をだいぶ過ぎてるし」
「うん……」
それから姉さんは押し入れの中で何かを探し始めた。
「おばあちゃんちにも置いといたような……。あ、あった」
手を広げて見せたそれは、ひざ丈のスカートだった。飾り気はあまりない、深い赤色のスカート。それを僕にぐいっと押し付ける。
「これ、着て」
「お姉ちゃん、それ女の子の服だよ」
「そうだよ。昔、お姉ちゃんが着てたの」
「だから、それって……」
僕は必死の抵抗をしてみる。こんな服着たら、僕はまるで……。
姉さんが嫌がる僕の肩をつかむ。
「おばあちゃんが、いまの夏稀を見たら、家に帰れと言われるかもよ」
「それは、ちょっとやだ……」
「でしょ。なら、お姉ちゃんの言うことを聞かなくちゃ」
「うん……」
僕は結局、姉さんの言うとおりにした。それしか方法がなかった。
服を整え、髪留めをつける。それでもまだ何か足りないのか、リップをつけたりファンデーションをはたいたりした。
「これでよし」
やっと満足したのか、姉さんは僕をただじっと見ていた。
「鏡を見てみ」
言われるまま鏡台の鏡を見る。きっと化け物が映るんだろうと思っていた。
そこには女の子がいた。
ごく普通の、同い年に見える女の子だった。
姉さんは嬉しそうに言った。
「どうよ」
「どうって……」
僕はあいまいに答える。細い首筋。長い手指、華奢な体。そのすらりとしたラインに僕はドキドキしてしまった。自分の体なのに……。
とまどっていると、姉さんは僕の腕を引く。
「グラタン食べに行こ。近所だし、いいでしょ?」
「え……」
「大丈夫だって。男だなんてわからないよ」
「だって……」
「それ、いっちにいっちに」
姉さんは嫌がる僕を外に連れ出す。恥ずかしかった。顔を真っ赤にさせながら、バレませんようにと願いながら歩くしかなかった。
グラタンを出すお店は、京成線のガード下にある小さなお店で、祖母の家のすぐ近くにある。そして、いつも必ずおいしい。
「ほら、大丈夫でしょ」
「でも……」
お店の前に来た。よく知っている人に見られたらどうなるんだろう……。怯えていたら、姉さんは僕の手を引っ張って、店の中へ連れていく。そこには、いつものやさしい店のおばさんがいた。
「いらっしゃい」
「どもー。2人ですー」
「こちらどうぞ」
姉さんはいつもどおりにおばさんと話す。僕はずっと下を向いていた。
「すみません、シーフードグラタン2つお願いします」
姉さんが注文を済ましてくれる。僕は何もしゃべれなかった。姉さんはたわいのない話を続けていた。母が会いに来るのがまた遅れるとか、父をイライラさせないでお菓子を戸棚から取る方法とか……。
ときおり電車が通るたびにガタンゴトンと大きな音が響く。
「お待たせしました。熱いから気をつけてね」
グラタン皿からふつふつという音が聴こえる。温かくて優しい香りが僕を包み込む。不安や焦りが、湯気といっしょに消えていく。
あつあつのところをちょっとだけスプーンに取る。少しふーふーしたあと、ゆっくりと口に運ぶ。
むぎゅーんっっっっっ。
熱くてとろとろしておいしいよおぉぉぉ!
よじれちゃうっっ!
んーっんーっ。
いろんな海の味が、まろやかなホワイトソースにゆっくりやさしく包まれている。今日の具材はなんだろうと、発掘作業を進める。ここのシーフードグラタンは、来るたびに具材が変わっている。今日は何が入っているんだろうと、いつも楽しみだった。
そして今日は……、たらこ! たらことホワイトソースが出会うと、トロトロツブツブでなんともおいしい。さらにワカメが入ってた。グラタンにワカメ……と僕も思ったけれど、これがおいしい。ホワイトソースから少しはみ出したところがパリパリと香ばしくて、とてもいいアクセントになっている。
ほかにイカやアサリ、タラの切り身……と、具沢山だった。アツアツを口に運ぶたびに、海が押し寄せてくる。身をよじらせてしまう。
「夏稀はおいしそうに食べるね」
「だって、おいしいから」
「うん、そうだね。おいしいね」
姉さんが笑顔になってる。恥ずかしさはまだあるけれど、ちょっとうれしい。心もお腹も温かくなる。
店には女の人が多かった。みんな嬉しそうにグラタンを食べてる。
その雰囲気にほわほわと安らいでく。
僕は男なのに……。
なんで、そう思うんだろ……。
最後のホワイトソースをスプーンに集めて口に入れた。その味に名残惜しくなる。
「夏稀、食べた?」
「うん……」
「そっか、よしよし」
姉さんは僕の頭を嬉しそうになでた。それから「お金払ってくるね」と席を立った。僕はその横を通り、逃げるようにお店の外へ出た。
風が冷たい。
雪が降りそうだ。
それでも体は、ぽかぽかと温まっていた。
店から出てきた姉さんが、にんまりと笑う。
「夏稀、お店のおばさんが『妹さん?』って聞いたよ。『そうです。かわいいでしょ』って答えといたから」
「……お姉ちゃんのバカ」
それが僕ができる精いっぱいの抵抗だった。
祖母の家に帰ると、すぐにコタツへ足を入れた。あったかい……。ふとももが冷たくて仕方がなかった。
じんわりとぬくもりを感じていたら、ふいに姉さんが後ろから抱きついた。背中越しに姉さんの泣き声が伝わる。
「ごめんね……。お姉ちゃん、今日はちょっと泣き虫さんだから」
姉さんの涙が僕の頬を伝わる。それが少しくすぐったい。
「父さんに何か言われたの? それなら僕が助けるから……」
「だめっ!」
急に姉さんが叫んだ。びっくりして振り向くと、悔しそうに顔をしかめて、何かを我慢しているようだった。
「お姉ちゃん……?」
「夏稀は私といっしょにいるんだ。絶対に離れるもんか」
玄関を開ける音がした。祖母が僕たちを見つけると、すぐに声を上げた。
「どうしたんだい、夏稀。その格好は?」
「えと、その……」
言い淀んでいたら、姉さんは僕を抱きしめたまま、きっぱりと言った。
「夏稀は女の子なところがあるんです。だから、おばあちゃんには渡しません」
「何を言ってるんだい、悠香!」
祖母の仰天具合はすごくて、僕をスカートからズボンに履き替えさせると、姉さんを置き去りにして、外に連れ出した。少し歩いたところにいる、占いの先生の家へ僕を連れて行った。
いまから思うと、祖母は困ったことがあったら、自分で決めることをほとんどしなかった。この日も同じだった。占いの先生は、たぶん大丈夫とかあいまいなことを言い続けて、祖母は「そうですよね」と相づちばかり打っていた。僕にはつまらなかった。早く時間が過ぎることを祈っていた。
ただ、占いの先生が僕を見て、こう言ったのを覚えてる。
「いいかい、人間は男星と女星のどれかをつかんで生まれてくるんだ。君は女星をつかんでいる。そのネックレスはそういうことだ。それはそういうものなんだ。変えることはできない。だから、これから起こることに、とまどうことはないよ」
それから僕は、外し忘れていたネックレスをずっと触っていた。
祖母は、そこから先は何も言わなくなっていた。
◆◇◆
あとでわかったことだけど、その日、姉さんが持ってた我が家の全財産は、ふたりで食べたシーフードグラタンと同じ額だった。この頃、母はもう家に帰ることも、お金を渡すこともしなくなってたそうだ。祖母も子供ふたりを養えるほどではなかった。ただ家を継がせるため、男である僕だけは養いたいと姉さんに告げていた。
姉さんはずっと悩んでた。助けてほしいと親戚へ相談をしていた。でも、むずかしいと断られ、ひとりで先に僕のところへ帰っていた。
僕が中学に上がる頃、僕らを押し付け合う親戚と、僕だけを引き取りたい祖母を前に、姉さんはこう啖呵を切ったらしい。
「夏稀は渡しません。私が育てます。お金がなければ私が働けばいいことです」
それから姉さんは高校を辞めて働きだした。あの日、助けることをしない大人たちを前に、姉さんは静かに暗く絶望していた。
僕もあの日から無邪気さが消えていた。心から笑うことも泣いたりもしなかった。僕といっしょに居続けるために、姉さんが見えない傷を増やしていくのを感じていた。
祖母は僕が中学2年のときに脳梗塞で亡くなった。まだ息があるとき、しきりに「夏稀、ごめんね……」と言っていた。姉さんには言葉すらかけなかった。
あの日から、優しいと思っていた祖母、遊んでもらっていた親戚の人たち、みんなが変わってしまった。
そして、僕と姉さんも……。
◆◇◆
坂道を登っていく。吐いた白い息が、冬の青空に向かって消えていく。坂の途中から、青い飾り屋根の古いマンションが見えてきた。もうすぐ。あとちょっと。息を切らしながら、マンションの中へ入る。鍵を開けて玄関に入ると、僕はつい「ただいま」と言ってしまった。松浦さんは仕事でいないのに、僕の家でもないのに。そんな自分に少し笑ってしまう。
部屋に入ると、テーブルの上に片づけ忘れたお揃いのコップがふたつあった。
松浦さんの中に僕が混じり始めた。そう感じていた。
キッチンまで行って、シンクの横に買い物袋をおろす。コートを脱ぎ、かけてあったペンギン柄のエプロンをかぶると、手早く食材を片していった。
玉ねぎを包丁で薄く切り、少し多めのバターで軽く炒める。そこに小麦粉を入れてかき混ぜる。粉っぽさがなくなったら、常温にしておいた牛乳を加えていく。分離しないように少しずつ。たぷたぷとしてきたら、ローリエの葉と塩を入れて軽く煮込む。これでホワイトソースが完成。いちばん手間がかからなくて、味が良い方法がこれだった。
大きめの耐熱ガラスの深皿にバターを塗り、茹でたマカロニと混ぜたホワイトソースを入れていく。これは少し残しておく。その上にタラの身、イカ、ホタテ、タラコとワカメを敷き詰める。そして秘密の隠し味も。きっと松浦さんは気に入ってくれると思う。きっと……。
残しておいたホワイトソースを上から流して、具材を隠していく。少しだけ出しとくのがポイント。カリカリなところを食べたいから、こうしておく。その上からチーズをたっぷり乗せた。
オーブンが予熱が終わったことを軽やかな音で伝えた。扉を開けて天板に載せたグラタンを中に入れる。ボタンを押すと、液晶に描かれた時間がカウントされていった。これで焼き上がりを待つばかり。
キッチンで洗い物を片しながら、僕は姉さんのことを思う。
適当なものを食べてるかもしれない。
酔っぱらってそのまま玄関で寝てるかもしれない。
寂しがっているかもしれない。
それなのに僕は……。
姉さんを捨てたんだ。
あんなにやさしくしてくれて、がんばってくれる人を……。
あんなことで……。
僕はひどい人間なのだろう。
その証拠に、いまの暮らしにほっとしている。姉さんがいないことに、僕は安心してる……。
熱くなってくグラタンがふつふつと問いかける。それでいいのか、って……。
「ただいま」
松浦さんが帰ってきた。僕はキッチンから「おかえり」と少し大きな声で言う。松浦さんは、黒いコートを脱ぎながら、僕へ嬉しそうに言う。
「おお、今日はいい匂いがするな」
「グラタンにしたよ。寒かったし」
「うまそうだ。まあ、夏稀君が作るものはなんでもうまいが」
「褒めても何も出ないよ」
「なら、俺は食費を出そう」
「いいって。今日のだって、もらったお小遣いでやりくりできたし」
「なら、もっと金を出せばいいのか」
「どういう理屈?」
「俺は金を出すぐらいしか、夏稀君にすることができなくてな」
「この部屋に居させてもらえるだけで、僕はじゅうぶんだから」
「そうか。これが健気かわいいという奴か。なるほど」
「なにそれ……。あはは」
僕らはじゃれあうような会話をする。それは「我が家のルール」のようなもので、いつもと変わらない日常のひとつになっていた。
サラダを盛った皿を冷蔵庫から出して、買ってきたロールパンを別の平皿にふたつ置く。
「夏稀君。これは、もう出していいのか?」
「いいけど、気を付けてね。熱いから」
松浦さんは大きな鍋掴みを手にして、オーブンから天板を取り出す。グラタンは喋ってた。ふつふつという熱い声を上げていた。それをそっと大きな皿に移す。そのまま松浦さんがテーブルまで持っていってくれた。助かる。あれって重いし。僕はエプロンを取ると、スプーンとフォークを手にして持っていった。
テーブルには幸せが並んでいた。程よく焦げ目がついた大きなグラタン。トマトの赤が目立つサラダに、ちょっといいパン屋さんで買ってきたロールパン。それは確かに僕らの幸せだった。
「いただきます」と言うと、グラタンを取り分ける。チーズが糸を引き、とろっとしたものが湯気といっしょにあふれだす。
では、いざ、あむっ。
ひぎゅゅゅ、熱いのたっぷり、とろけちゃうー。
あつあつほっふほふで、香ばしくて、おいしいぃぃ。
ふにゅんとしちゃうよお。
コクのあるホワイトソースに仕上がっていた。そこに焦げがおいしいチーズに、カリカリなタラコ、ふっくらとしたタラ、パリっとするワカメが交じり合う。やっぱり具がいろいろあるのはうれしい。町屋で食べたあのシーフードグラタンとは比べ物にならないけれど、それに少しは近づけたかも。なによりこのおいしさを松浦さんといっしょに味わえるのは、素直に嬉しかった。
スプーンを口にくわえたまま、によによと笑っていたら、松浦さんが驚きの声をあげた。
「うん? ああ、これはアンチョビか。いいな。いいアクセントだ」
「良かった。おいしい?」
「ああ、もちろん。どこでこういうのを覚えるんだ?」
「なんか北欧にこういう料理があるって聞いて、レシピを調べて……。そんな感じかな」
「すごいな。よそでは食えない味だ。そうだ。白ワインはあったかな?」
「そう思って冷やしといたよ」
「完璧だ」
「ふふ。それはそれは」
僕はワインを冷蔵庫から取ろうと椅子から立ち上がった。そばを通ったとき、松浦さんが僕の腕を捕まえる。そのまま抱き寄せた。僕のお腹に顔をうずめながらぎゅっとする。それから大人らしくない言い訳を始めた。
「すまない。結構、感極まってる」
「もう……。最近、ハグするの増えてますよ」
「仕事でくたくたになっても、家に帰ればうまい飯と夏稀君が待ってる。何かが心に込みあげる。これは、いままで経験したことがない感情なんだ」
「ハグはあの日だけだと言ってたのに、仕方ない人ですね……」
「いましかないんだ。やがて消えてしまう幸せなんだと思ってしまう。いつか君は……。だから、こうして……」
僕は松浦さんの頭をそっと撫でながらやさしく言う。
「消えないです。そう教えてくれたから」
松浦さんに抱きしめられたまま、熱いうちに食べて欲しいなって、僕は思っていた。
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次話は9/6 20時ごろに公開! お楽しみにっ!
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