第6話 神奈川のサービスエリアにあるフードコート


 無機質な光が真夜中の駐車場を照らしていた。

 僕は、その片隅に立ち尽くしていた。


 「ごめん……。姉さんは悪くないから……。気にしてない。うん、いまは……友達といる……」


 姉さんと電話している。声が耳に滑り込むけど、言葉の意味を知る前に、家で聞いてしまった姉さんの喘ぎ声を思い出す。肌寒い嫌悪感が僕の体をずっと蝕んでいる。


 「うん、いるよ。川上とか……。同じ高校の……。うん……」


 車のヘッドライトが僕を照らして、また去っていく。ここは足柄サービスエリアと言うらしい。連れてきた松浦さんは「俺の秘密の逃亡先」と言ってた。


 「女の子の恰好していたのは後で説明させて。いまはちょっといっぱいで……。ごめん……」


 僕はうつむく。ずっとうつむいたままでいる。


 人が来た。顔を上げると松浦さんだった。咥えたタバコが口元で赤く灯ると、紫煙が夜に紛れてく。

 僕はまたうつむく。目を合わせたくはなかった。


 「うん、うん……。ちゃんと帰るから。うん……。じゃあ……」


 通話を切った。スマホを手にしたまま、僕は何も考えられずにいた。

 タバコの灰を携帯灰皿に落とすと、松浦さんはぼんやりとしていた僕にたずねた。


 「もう、いいのか?」

 「はい……」

 「君の姉さんに嘘をついてしまったな」

 「松浦さんは友達だから……」

 「ふむ……。そういうことにしとくよ」


 世界が揺らいでいる。

 女の子の姿をしていたのを見られた。

 女になっていた姉さんを見た。


 あんなに僕をやさしく見守ってた姉さんがこんな……。

 松浦さん以外の人と……。


 そして、同じ欲望が僕にある。

 抱かれたいという欲求が体の中にある。


 気持ち悪い。

 男なのに。

 吐きそうになる。

 自分を殺したくなる。

 こんな自分、早く死ねばいいのに……。

 スマホをまっすぐ見つめたまま、僕はぽつりとつぶやいた。


 「僕は、どうしたらいい……のかな……」

 「どうしたらいいんだろうな」

 「もう、わかりません……」


 松浦さんの手が僕の頬に触れる。


 「だいぶ冷えたな。そのワンピースでは寒かろう」


 着ていた黒いコートを脱ぐと、僕にかけてくれた。


 「少しはいいか?」

 「はい……、あったかい……です……」


 少し恥ずかしい。その気持ちを隠すように、両手でコートをつかんで引き寄せる。


 「夏稀君、遠くへ行きたいって言ってたが……。どうだ、少しは気分が良くなったか?」

 「……よく、わからないんです」

 「頭の中で考えるよりも、いま思うことをそのまま吐き出したほうが楽になれるぞ」


 そんなことしても、何も……変わらない。変わるはずがない。

 のんきなアドバイスをする松浦さんに僕は怒った。


 「松浦さんはいいの? なんで! 姉さんに浮気されたんだよ!!」


 僕の肩を、ぽんと松浦さんが叩いた。


 「腹が減った。飯を食うぞ」


◆◇◆


 サービスエリアの建物の中は、少し薄暗く、そして寂しかった。磨かれた床のタイルが、所在なさげに広がっている。昼間はたくさんの人でにぎわっていたはずなのに、いまは静かな時間が流れている。

 細長いおみやげ売り場のを先に進むと、薄い机と椅子が並んでいるのが見えた。フードコート、なのかな。そのまわりには、わずかなお店が開いていた。おなかが鳴りそうな、いい匂いがしている。

 松浦さんは無精ひげをさすりながら言う。


 「さて、どうしたものか。ラーメンはつらそうだな。ああ、うどん屋が開いている。あそこはうまかった。夏稀君、うどんでいいか?」

 「はい、でも……。いまはそんなに食べられないかも……」

 「残してもいいぞ。何でもいいからあったかいものを体に入れるんだ。そうしないと変な考えに取り憑かれる」

 「変な考えなんか……」

 「同じものでいいか?」

 「え、あ……。はい……」


 松浦さんが注文しに行く。僕は座ろうと、近くの椅子を引いた。ギギギという床を引く音が、がらんとした建物の中に響く。

 座る。冷たい椅子の温度を感じる。体が少しずつ冷えていく。


 「待たせたな」


 僕の前に置かれたこげ茶色のトレイには、熱々の丼が乗っていた。その中には、白いうどんの波とつゆの海に、大きなかき揚げの島が浮かんでいた。


 「赤いのはエビ……ですか?」

 「桜海老だそうだ。名産地がここから近いからな。もう少し待っててくれ。俺のぶんも持ってくる」

 「手伝います」

 「まあ、座ってなさい」


 そう言われて、浮きかけた腰をまた下ろした。

 それから僕は、そのままじっとうどんを見つめていた。


 白い湯気が薄暗い空気の中へ、ふわりと上がっていく。それは渦巻き、からみあい、そして消えていく。

 僕もこんなふうに消えたい。消えてしまえば楽になれるのに。みんな楽になれるのに……。


 トレイをテーブルに置くことりという音で、戻ってきた松浦さんに気がついた。僕の前の椅子に座ると、箸を持って「さあ、食べようか」と声をかける。僕はうなずくと、箸を持つ。では、いただきます。



 ちゅるんとする! ふにゅっとする!

 くにゅくにゅしちゃう!

 みんな温かくなって心が溶けだしちゃうよ……。



 だしつゆがあっさりとしている。うどんは少し柔らかめだけど、僕の冷たい体にはこれぐらいが嬉しかった。

 そしてこのかき揚げ。ばりばりとしている。これをあたたかいめんつゆに浸してほろほろにさせる。それがうどんに絡み合うと最高においしい。エビの香ばしさも、衣のコクも、つゆのうまみも、みんないっしょになって僕を喜ばせる。


 ほっとする。


 じんわりとしたうどんの温かさが、体の中に巡っていく。

 それは僕の冷たく縮こまった心を、少しずつ解きほぐしていく。


 ふと松浦さんのほうを見ると、もうひとつ丼があった。


 「こっちはシラス丼、ですか?」

 「ああ。食べられそうなら、半分食べなさい」


 どんな味なのか、興味がある。

 僕は食べかけの丼をそのままもらう。


 箸で一口取り、口に入れる。ん……、おいしい。醤油の風味がシラスにからむと、うまみをさらに引き出す。それにこのシラス……。身が大きいし、味が濃い。


 「うまいか?」

 「おいしいです」

 「タンパク質に醤油は合うんだ。家では、クリームチーズにもおかかとわさびと醤油かけて食っている。これがまたうまい」

 「おいしそうですね」

 「よく晩酌のつまみにしてるよ」


 僕達は今日初めて笑い合った。


 「こういうご飯もいいですね。僕は好きです」

 「ああ。俺もそう思う。ふたりだけだからな」

 「誰もいませんしね……」

 「行きづらい店で女の姿をした夏稀君と食う飯もいいが、こうしてふたりきりで食う飯も悪くない」


 ここには誰もいなかった。

 松浦さんと僕しかいなかった。


 女装しなくても良かった。

 それでもこうして女の恰好をしたまま、松浦さんとご飯を食べている。


 「そう……ですね……」


 僕は何のために女装していたのだろう。

 僕の中の女は、いつ頃育ったのだろう。


 いまの僕は何味、なのかな……。


 うどんのつゆを飲み干すと、松浦さんはにこりと言った。


 「飯食って腹が突っ張ったら、たいていの問題はどうでもよくなるもんだ」

 「そんな単純な……」

 「人間はそういうふうにできている。逆らうからひどい目に合う」

 「姉さんもそうなんですか? あんなことしてる姉さんも……」


 ざさなみ模様がついたコップの水を飲み干すと、松浦さんは僕を射貫くように見つめた。それから静かに、姉さんのことを教えてくれた。


 「君の姉さんはそういう女なんだ。俺はそれを承知で付き合ってる」

 「知ってたんですか?」

 「ああ。俺以外の彼氏は、少なくても3人はいるようだな」

 「なんで……」

 「そんな彼氏たちの中でも、俺だけは弟の夏稀君に会えている。一歩リードしていると思っているが……」

 「姉さんはどうしてそんなことを……。僕のせいなんですか……」

 「君の姉さんは、愛情が欲しくて飢えている。むやみに求めている。それは仕方のないことだ。誰かひとりの愛で埋め合わせられるほど、君の姉さん……悠香は強くない」

 「そんなこと、僕には一言も……」

 「言うわけはないだろうな。君の女装と同じだ。言っても仕方ないことだろう。お互い寂しいくせに、お互いを頼れない。代償行為をお互いに知ったら、そのことで傷つく」

 「わかりません……」

 「世の中は、わからないことのほうが多い」


 姉さんと僕。

 姉さんと松浦さん。

 僕と松浦さん。

 お互いのことを知ってしまった。

 知らないふりをすることも、もうできない。


 「僕は姉さんにどうしてあげれば良かったんでしょうか……」


 松浦さんは僕に向かって、少し怒ったように言い始めた。


 「いいか、夏稀君。他人のことはどうでもいい。いつでも信じられるのは自分の気持ちだけだ。他人のではなく、自分のだ。悠香ですら、所詮は他人だ」

 「姉さんと僕はふたりきりなんです。僕がいることで、姉さんにずっと負担をかけている。松浦さんにだって。僕が消えたほうがいいのなら……」

 「消えるな!」


 松浦さんがあげた大きな声で、僕はびくっとする。


 「でも……」

 「人に左右されるな。君はわがままになるべきだ。だから……」


 そんなことできない。だって僕は……、男なんだし。

 見つめたまなざしの先で、松浦さんはしっかりと答えてくれた。


 「夏稀君は女の恰好をしていてもいいんだ。それが君の本当の姿ならな」


◆◇◆


 うどんを食べ終えたあと、松浦さんが「上へ行こう。いまの時間は、いい景色が見える」と言うので、ふたりで屋上にある展望デッキへ行くことにした。広い階段を上り、屋上につながるガラスのドアを開ける。山の匂いがする冷たい空気が、僕を通り抜けていく。


 朝が来ていた。

 黒い夜空は薄紫色へ変わり、地上のなにもかもを同じ色に染めようとしていた。

 駐車場に停まる車も、アスファルトの道も、あたりに広がる木々も、みんな薄紫色にしていた。


 「ほら」


 松浦さんが指差すほうを見た。


 夜明けの富士山がそこにいた。


 かぶっている白い雪も、ふもとの黒い森も、みんな空と同じ薄紫色に包まれていた。

 それは異世界のように思えた。ここではないどこか違う世界の景色に思えた。


 僕は自然と感情が口からこぼれた。


 「きれい……」

 「この風景を見てきれいだと思うんなら大丈夫だ。その気持ちを信じるといい」


 染められていく富士山を、ずっと眺めていた。

 手すりにつかまりながら、ずっと見つめていた。

 松浦さんは、そんな僕を見守ってくれていた。

 でも、もう……。


 「もう、終わりですよね」

 「そうしたいのか?」

 「いえ……。姉さんも心配するでしょうし、松浦さんへ迷惑をかけるのも……」


 これ以上は許されない。

 だから、もうここでおしまいにしたほうがいい。

 そういうふうに信じ込む。


 「夏稀君。いま本当に思ってることを言ったほうがいい。俺はそれを待つよ」


 この人は……。

 ずっと僕を見ていてくれた。

 憎まれ口を叩かれようと、ずっと自分のそばに寄り添って……。


 泣きそうになる。

 なんで、この人は……。こんな僕なんかに……。


 うつむいたまま、許されないと思ってた想いを、僕は途切れがちに言った。


 「しばらく……松浦さんといたいです。まだ、気持ち悪くて……。まだ、帰れなくて……」

 「わかった」


 松浦さんはタバコを口に加え、慣れた手つきで火をつけた。


 「それなら好きなだけいていい。悠香にはあとで話しておく」


 あふれないようにがんばっていたのに、僕はとうとう泣き出してしまった。しずくは頬を伝わり、ウッドデッキへ何度も落ちていく。僕は泣いてしまった言い訳を必死に考えながら、松浦さんにたずねた。


 「ねえ、なんで……。なんで、そんなに優しいの、かな……。優しすぎ……」


 松浦さんが僕に近づく。袖で涙をぬぐう僕を見ながら、少し困ったように言う。


 「なんでだろうな。まあ、言えるのは……。これが俺が信じてる気持ちだよ」

 「浮気している彼女の……弟なのに?」

 「夏稀君だからだよ」


 その言葉を聞いた瞬間、僕は無意識に松浦さんの袖を引いていた。


 「ごめん……」


 謝った。そして誤ってる。

 でも、そうして欲しかった。

 松浦さんは、ただ、こう言った。


 「今日だけだぞ」


 抱き寄せられる。

 ゆっくり包まれる。


 タバコの匂いがした。

 あれだけ嫌っていた男の人の匂いがした。

 それがいまの僕を安心させている。


 女の子のきれいなところ。

 女の子の汚いところ。

 僕の中にはいまそれが両方ある。

 姉さんと同じように両方ある。


 僕は矛盾してる。

 僕は何なんだろう。

 僕はどうしたらいいんだろう。


 抱き締められながら、何度も自分に問いかけていた。


 松浦さんが手にしていたタバコから煙が上がる。あのうどんの湯気と同じように渦巻いて、薄紫の世界に消えていった。



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次話は9/5 19時ごろに公開! お楽しみにっ!

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