第9話 きっと大丈夫

「そこで何をしてるんだ」


 声をかけられたのは、ちょうど橋の欄干に立った時だった。

 ちょっと前に降り始めた弱い雨の中振り向くと、少し離れてトモヒコが立っている。

 わたしはずっと下の方に流れる広い川面を見下ろして、震える息を吐いた。


「なあ、何をしてるんだ」


 もう一度かけられた問いかけをわたしは自分でも自分に問いかける。

 何をしてるんだろう。

 掃除だと思うけど、よくわからない。

 これでちゃんと掃除できるのかな。


 雨が髪を濡らしている。

 コンビニから着たままの制服も。

 周りにはわたしたち以外誰もいない。


 トモヒコはしばらく何も言わず、わたしたちは一緒の雨に濡れながら遠くからの電車の音、踏切の音を聞いていた。

 全部が通り過ぎて何も聞こえなくなってから、またトモヒコの声がした。


「答えられないようなら俺が何かしゃべろう。なんの話がいいかな」


 彼はいろいろ迷ったようだが、結局「兄のことを話そう」と言った。

 彼は兄のことばっかりだ。


「俺の兄は愚かだ。とても愚かだ。周りになじむことができず、ついていくこともできず、周りに助けを求めることもできない馬鹿だった。数学は知ってるな? 3a-aの答えはわかるか? 俺の兄は3だと言った。3aからaを取っ払えばいいから、と考えたらしい。年下の俺が何度2aだと教えても理解できないようだった」

「…………」

「兄はどうしても自分が持っているのとは別のルールが世の中にあることを理解できなかった。愚かだ。多分あんたもそういうことなんだろうと思う。アイドルになれなかったくらいで大袈裟だ。なんでそれで死のうと思う。本当に愚かだ」

「…………」


 ぼんやりと、なんで知ってるんだろうと思った。

 彼は続ける。


「兄は愚かだから自分を守るために自分の夢をでっちあげた。逃げるための方便だ。そんなくだらない自分の都合で周りに迷惑をかけまくって、そして最後には消え失せた。誰も探そうとは言い出さなかったよ」

「……だったらほっとけばいいじゃない」


 わたしは耐え切れずに声を漏らした。


「そんなに馬鹿にするなら探そうとなんてしないでよ。ほっといてよ。わざわざ連れ戻して傷をえぐろうとなんてしないでよ。もうたくさんだよこんなの。そっとしておいてよ」


 トモヒコは黙り込んだ。

 わたしの言葉にやりこめられたわけではないだろうけどようやく間が開いて、決心がついたわたしは今度こそ足を踏み出そうとした。


「それでも探しに行くよ」


 聞こえた声に、わたしはその格好のまま動きを止めた。


「それでも俺は探しに行く。他の誰が止めたって行く。あんたたちを探しに行く」


 トモヒコは一歩も動いていない。

 縮まらない距離の向こうから、彼は静かに語りかけてくる。


「それは別にあんたたちが特別だからじゃない。あんたたちがひどく愚かだからだ。愚かじゃなきゃ探しになんていくものか。愚かなあんたたちに帰ってきてほしいから探しに来たんだ。人気アイドルじゃなくても、敏腕業界人じゃなくても、俺は3a-aは3と答えるあんたたちが好きだ」


 その言葉の後、足音がした。

 トモヒコはわたしのすぐそばまで近づいてくる。

 そして、わたしの足元に何かを置いた。


「ただそれだけのことなんだ」


 振り向くともうそこには誰もいなくて雨の降る夜があるだけだった。

 足元を見る。

 そこにはペットボトルがある。

 500ミリリットルのリンゴジュース。


 わたしは思わずしゃがみこんで嗚咽を漏らした。

 なんかもうわからない。

 どうすればいいかわからない。


 あのスライムの夜が漫画雑誌の表紙の後輩のグラビアがかわいい衣装に身を包んだ妹の姿が、わたしを追い込んで頭をかき乱す。


 わたしはそのまま、ずっとずっと涙をこぼし続けた。




◇◆◇




 コンビニに戻ると中は荒れていた。

 ドワーフはもういなくて疲れた顔の店長が片づけをしていて、わたしは何を言えばいいかわからなかったけれど、店長は入り口に突っ立ったままのわたしにはい、と言ってゴミ袋を渡してくる。


「掃除。手伝って。濡れた服着替えてから」


 珍しく有無を言わさない感じの店長は、そう言いながら商品棚のひとつを抱え起こした。

 わたしはやっぱり何も言えないまま、着替えるためにバックルームに向かった。


 売り物にならなくなった商品を片付けて棚を並べ直して、一応の店の体裁を取り戻しそうになったあたりで店の外は夜から朝に移り始めていた。


 ほうきで床を掃きながらわたしは訊ねた。


「わたし、クビですか?」

「ああ、うん。まあ……そうだね」


 店長は一段と疲れた顔でうなずいた。


「あのお客様はなんとかなだめたけど警察のお世話になっちゃったし、そのあたりのことを上に報告するときにやっぱりどうしても君のやったことは問題にされちゃうよね」

「申し訳ありませんでした」


 わたしは頭を下げたけれど、店長は「いや、やめて」とため息をついた。


「本気じゃない謝罪をされても困るよ。謝るなら、本当に謝る気持ちがないといけない。……偉そうにごめんだけど」


 今日の店長は、今までで一番店長らしかった。

 わたしは、なんだかそのことが一番申し訳なくてもう一段低く頭を下げた。


「……ごめんなさい」


 店長はもう一度、さらに大きくため息をついた。

 でも、今度のは、少しは受け取ってもらえた気がした。


 片づけが終わって、わたしはクビになった。


「いままでありがとうございました」


 店長はやっぱり複雑そうな表情をしていて、でも最後にこう言った。


「ルーナちゃん、僕ね、君が好きだよ」

「え?」

「いやごめん、これじゃなんか違うや。言い方悪いけど、君自身のことはあんまり好きじゃないから」


 わたしはわけがわからずに店長の顔を見つめた。

 店長は頭をかいて、小さくうなって、だいぶ苦労して言葉を探しているようだった。


「なんていうかね、君の掃除が好きだよ。いや違うな、掃除をしているところが好き? これも違う。うーん、難しいな。ええとね、僕は、一生懸命な人は姿勢がいいと思うんだよ」

「は? 姿勢?」

「うん。好きなことにまっすぐな人は、スッ、と姿勢が伸びる。それはとても美しい。無駄な力が抜けて、何か大きな流れに導かれているように優美に見える。考えなくても手が動いてるって感じ。君の掃除にはそれがある」

「はあ」

「だからね、なんていうか……」


 しばらく考え込んでいた店長は、ようやく顔を上げてわたしの目を見返した。


「君は大丈夫。僕の経験上、断言する」


 気の弱い店長の経験はあてになるのかならないのか。

 わたしはそんなことは知らない。

 でも、3トントラックを受け止めて、優しく送り返すその足腰は信頼している。


 何も言わずに、もう一度頭だけを下げた。

 言葉では伝わらないものを伝えるために、涙目で、深く深く。

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