第8話 サッド・スライム・ナイト

 冷めた夜をさまよう。

 道には仕事帰りのアンデッドサラリーマンがあふれている。

 スーツ姿の彼らの中をかき分けるようにふらつきながらぶつかりながら歩いて行く。


 はっきりと向かうあてはない。

 ただ歩く。


 歩きながら思い出したことがある。

 前にも言った通りわたしはアイドル時代に仕事を自分で取ってこなければいけなかった。


 獲得できた仕事の数はいつだって少なくて困窮していたけれど、それでも最初のころは底辺組の中では取れていた方だったしまだ逆転に燃えていたからなんとか頑張ることができた。

 最後の方になるとだいぶ仕事も減ってしまって下から数えた方がいいくらいだったけど、それでもまだ根性だけで踏ん張っていた。


 いつか出口が見えると思っていた。

 いつか鍵のかかった戸は開くと思っていた。


 それがないと知ったのは冬のある日のことだ。


 わたしはその日、取ってきた仕事の依頼主と会っていた。

 場所は依頼主のマンション。

 ワンフロアをぶち抜きで所有しているそのゴブリンは、サイケデリックな髪色のアニメキャラTシャツを着ていて、チャイムを鳴らしたわたしをつまらなそうな目で見ると部屋に通した。


「とりあえずこれ着て。あとはこっちでやるから」


 渡されたのはだいぶきわどいというか全然隠せてなくない? って感じの水着で、わたしは危機感と不信感と焦燥感をまとめて抱え込みながらもギャラの良さを諦めきれずに奥のトイレでそれに着替えた。


 水着はやっぱり全く隠せていなくて、必死に胸や股を手で押さえながらゴブリンのところに戻ると、


「シャキッと立って」


 と言われてしまい、やっぱりわたしこのままアレなことになるのかなアレなんだよなうん……とあきらめにも似たものが頭をよぎってしまったことに気付いてぞっとする。


 そういう噂は結構聞く。

 枕なことだったりアダルトな映像の世界なことにのまれてしまった子たちのこと。

 わたしもそうなるのかもと思ったし、実際結局金の力に勝てない自分もまざまざと想像できた。


「よし、じゃ、目を閉じろ」


 ああ終わりか。

 グッバイわたしの初めて。


「息を止めろ」


 そうか唇からか。

 初めて穢れを知るのはそこからか。


 つまんないことをその時は本気で考えているうちに、何かが顔にべちゃっとぶつかった。

 冷たかった。


「……?」


 顔全体にぶよぶよとした何かが張り付いている。

 なんかこう、とても柔らかいゼリーっぽい。

 一体なにがと思って手で触れようとすると、


「動くな!」


 とゴブリンが叫んで、わたしはビビってしまって状況の意味不明さに体が硬直する。


 小さく震える体を必死で抑えているうちに顔に張り付いたその何かは少しずつ皮膚の上を広がっていって、頭を胸を胴体を腰を足を全身をすっぽりと包んでしまった。


「よし、いいぞ、そのまま動くな動くなよ!」


 ゴブリンの声が、耳に詰まった何かの向こうからぼやぼやと震えて聞こえている。


 わたしは何をされているのか全く把握できないままただただ「気を付け!」の姿勢を保ち続けたけれど、そのうち息が続かなくなって、もうギャラなんかいい死んじゃう、死んじゃうよと暴れようとしたけれど、時すでに遅し、体を包む何かは強烈にわたしを締め固めて全然動けなくてわたしは心の平静を完全に失って今まで祈ったこともない植物様に祈った。


 助けて! 犯される!


 なぜかこんな状況でも最後まで心配だったのは自分の貞操のことだった。

 そしてわたしは意識を失った。

 しばらくして目覚めた。


 わたしは床に寝ていた。

 ぼーっとしながら横目で窓を見るとカーテンの向こうはまだ暗いようで、気を失ってからまだそれほど時間はたっていないみたいだった。


 わたしは起き上がりながら自分の体を見下ろした。

 肌には傷も汚れもなくて、なんなら気を失う前よりきれいなくらいで、暴行の痕跡は何もない。

 痛みもない。

 きわど水着が完全にズレていたけれど、多分それは誤差の範囲だ。と自分に言い聞かせる。


 立ち上がって重い身体を引きずるように歩いて行くとあるドアの隙間から光が漏れていて、わたしはためらったけれどでもっぱり気になったからそのドアを開けた。


 本当はすぐにでも逃げ出すべきだったんだろう。


 中は狭い部屋だった。

 いや、それは正確じゃない。

 本当ならかなり広い部屋だったんだろう。

 ソファを置いて50インチの4K・8Kテレビを置いて観葉植物を置いて加湿器を置いて、それでも多分お釣りが来るはずの。


 でも実際はシャープな感じのデザインのパソコンの筐体? とデスクがドン、ドン、ドンとあってそれ用のディスプレイもずらっと並んでいて低い音がヴィ―っと床を小さく揺らし続けている。

 ケーブルがぞろりと這いまくっていてスナックの袋も散らかっていて足の踏み場もほぼほぼない。


 わたしは自分の体を抱きしめた。

 見ると黄ばんだ古いエアコンが最大出力で回っていて、それが部屋に冷気を叩き込んでいる。

 でもわたしが縮こまったのは寒いからだけじゃなくて不気味に感じたからだ。


 ごちゃごちゃと詰め込まれた機械の山、その中心にはすっぽりと収まるように小さな人影があって、その人はわたしに背中を向けて一心にキーボードを打ち続けている。

 耳にはワイヤレスイヤホンを突っ込んでいるからわたしが来たことにも気づいていないようだ。


「あの……」


 と言っても反応がなかったので、今度はもっとしっかり聞こえるように、


「あの!!」


 と言うとゴブリンはようやく振り返って、ただでさえ不愛想な顔にさらにメンドそうな表情を浮かべて「何か用?」と答えて、


「もう終わったから帰っていいよ。俺は忙しいし」


 と言った。

 その声にはわたしなんてどうでもいいって響きでいっぱいでおおよそ普通の人がアイドルにする反応じゃなくて、っていうかわたし今ほぼほぼ裸だよ? なんか言うことないの? と思ったけどわたしはその無関心さに戸惑ってしまってありもしない助け舟を求めて視線を泳がせることしかできなかった。


 その時変なものを見つけた。

 ゴブリンの足元、デスクの下、そこに半透明のゼリー状のものが詰め込まれている。

 形はサッカーボールくらいで大きさもそんなものだ。

 よく見ると端子が刺さっていて、そこから伸びるコードはパソコンの筐体につながっているようだった。


「それは……?」


 ゴブリンはわたしの目線を目で追って「ああ」とつまらなそうにうなずいた。


「スライムだよ。型取り用の」

「え?」

「だから、こいつが物の形を読み取って3Dモデルを作ってくれるの。パソコン上に」


 ゴブリンが指さすディスプレイの一つを見ると、そこにはわたしがいる。

 直立しているわたしの全身図。

 よくわからないけれど、それはわたしの形を読み取って作ったモデルということらしい。


「え、ちょ、ちょっと待ってください、何に使うんですかこれ」

「決めてないよまだ。今作ってるゲームに使おうかな、それともフィギュアの原型にして売るかな。プライベート用に調整する手もあるけど」

「ぷ、プライベート?」

「ああ、今パソコン作業の補助AI作ってて、そのモデルに使うのもありかなって」


 言いながら流れるようにキーをたたきこむ。

 すぐにディスプレイ上に"わたし"の姿が浮かび上がる。


『ご主人様! こんばんは!』


 その"わたし"はメイド服姿だった。

 あと猫耳を付けていた。

 わたしよりのよりもだいぶ高い、媚びまくった声だった。

 わたしと見た目はよく似ていたけれど全然違う、"キャラ"だった。


「まあ、こんなもんでもないよりはマシか」

「……え?」


 びっくりしてゴブリンの顔を見ると、彼は渋い顔で言った。


「いやね、本当は君じゃなくて君の後輩の子に頼みたかったんだよ。あっちの方が可愛いし何より愛嬌があるだろ? 俺のAIの性格にも合うし。でもなあ」

「え、え?」

「あっちはあんたと違って忙しくて受けられないってさ。仕方ないか、こんな怪しい仕事、馬鹿な貧乏人くらいしか受けないし。まああんた見た目だけは悪くないし、これで我慢するよ」


 わたしは絶句した。

 本当の本当に何も言えなかった。


 ゴブリンがさらにキーボードをたたいて"わたし"の胸を盛ろうとモーションをいじってこちらに向かって馬鹿みたいにセクシーなポーズを取らせようと"わたし"の体のいたるところをダブルクリックして『いやーん』だの『えっちぃ』だのアホなことを言わせてようと。

 全く何も言えなかった。


 わたしは今度こそそこから逃げ出した。

 堪えられなかった。

 「ギャラは後日ー」って声が追いかけてきたけど振り払うように走った。


 誰もわたしになんて興味ない。

 誰もわたしの中身なんて見てくれない。

 そんなこととっくにわかっていたつもりだった。わかっているつもりで後輩に偉そうに講釈を垂れもした。

 でも本当は全然理解していなかった。


 こういうことなんだ。必要とされていないって。


 後日本当に大金が振り込まれた通帳を見ながらわたしはまた泣いた。

 なんの涙なのかはもう自分でもわからなかった。

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