猜疑と不安の波間で その3
多少顔をずらした程度で、薄く開いた扉の隙間から、シュティーナの表情は窺えない。
室内は薄暗く、ほのかに照らす魔法灯しか光源が無い、というのも理由の一つだ。
だから、仮に顔の向きが違っても、その表情はやはり見えなかったかもしれない。
そして、シュティーナ――。
彼女が刃先から血の滴るナイフを持っている。
ここで何をしたのか、何が起きたのか、あまりにも明白だった。
床には大きく円形の魔法陣が描かれており、その中心に倒れる女性は、まるで供物として捧げられた生贄に見える。
だが、殺した理由は別で、決して生贄を欲した訳ではないだろう。
何か明確な目的を持ち、殺意を持って一人の人間を殺したのだ。
殺人の動機も、大きな謎だ。
自分にとって不都合だったからか、それとも、見過ごせない悪人を已むを得ず排除したに過ぎないのか。
それによって、彼女に対する気持ちも変わってくる。
だが、それより気に掛かる事もある。
シュティーナがこの場に居る事で、それもまた大きな謎だった。
彼女とは東棟で別れている。
そして、独自にマコトを援助する為、動くつもりだと言っていた。
何をするつもりにしろ、先回りされていたのが不可解だ。
マコトとて、多少の足止めを受けたとはいえ、ほぼ一直線に西棟まで来たのだ。
すぐ後ろから付いて来ていた、というならまだしも、実際は大きく先行されている。
まさか、城内ではなく中庭を突っ切り、ここまでやって来たとでも言うのだろうか。
――あの危険地帯を?
シュティーナは確かに、魔物避けの匂い袋を持っている。
だからといって、単に袋を投げ込めば、全ての魔物を回避できる訳ではないだろう。
状況次第では、どうにもならない事も多い筈だ。
ならば、後はマコトの知らないルート――より安全なルートを通って、ここまで来たとでも言うのだろうか。
本当にそんなものがあるのなら、話は通る気がした。
例えば、安全な地下通路など……。
城というのは、王族を安全に逃がす時などの為、隠し通路を用意しているものだ。
一階の中庭に面した外壁にさえ、そうした隠し通路は存在した。
それを考えると、どこにどういう通路が隠されていても、おかしくないと思える。
――だが、何故……。
何故、シュティーナはここで殺人を犯したのか。
マコトは念話によってこの場所に誘導され、その先で待っている人物と会う筈だった。
場所を考えれば、待っていた人物とは、血溜まりの中で倒れている人と見て良いだろう。
それをシュティーナが殺している。
現状だけ見れば、マコトの送還を阻止し、逃亡幇助の裏切り者を処断したかに見える。
――もしも、そうだとしたら……。
マコトが思わず生唾を飲み込んだ時、シュティーナはゆっくりと後ろを振り返った。
まるで、最初から覗かれていたと知っていたかのようだ。彼女に動揺は見られない。
手に持ったナイフを後ろへ投げ捨て、冷たく見える表情に微笑を浮かべた。
見つかっているなら、いつまでも隠れて覗く意味などない。
マコトは薄く扉を開けて、滑り込む様に入ってから後ろ手に閉める。
その様子を黙って見届けていたシュティーナは、マコトが近付くのをただ待っていた。
そうして、マコトは残り八歩の距離を取って止まる。
研究室で話しをしていた時は、もっと距離は近かった。
今となってはその差こそが、心の距離を示していた。
シュティーナは全く気にした様子を見せず、一つ頷いてから口を開く。
「危ないところでしたね」
「……危ない? そりゃ、危ないでしょうよ。殺人を犯した人が、目の前にいるんだから。今この瞬間、これ以上なく危なく感じてるよ……」
「無理もない事です。……でも、武器は手放しました。あなたに向ける武器など持ち得ません」
そう言って踝まで伸びるスカートの裾を払い、エプロン部分を捲ってみせた。
何も持っていない、隠していない、というジェスチャーだった。
だが、その動作一つで信じるなど、到底無理な話だ。
ナイフ一つあれば、人は殺せる。
それは自明で、床に倒れる女性に、傷は一つしかないように見える。
つまり、的確に急所を刺し貫いたのだ。
人を殺す事は素人に可能でも、鮮やかな手並みとなれば、簡単な事ではない。
何より、魔物を殺す事に躊躇など生まれなくとも、人を殺すとなれば必ず生まれる。
だが、殺人を犯したばかりの彼女に、動揺も躊躇もあるようには見えなかった。
その普段と変わらぬ様子こそが、安易に近付くべきではない、と警告している。
「どうして、殺したんだ……」
「この女が、卑劣な裏切り者だからです」
マコトが死体を見つめながら言うと、シュティーナは事も無げに言った。
だが、その一言だけでは全く分からないし、何より先回りしてまでやった事実に不審感は拭えない。
「彼女が……その死体が、どういう人か知ってるの?」
「あなたを言葉巧みに騙し、ここまで誘き出した女狐……。姫様の手先か、あるいは隣国のスパイか……。そのどちらかだと推察しています」
彼女としては納得いく理由なのだとしても、マコトには納得できないようだ。
怒りを薄く発露させながら、苛立たしげに重ねて問う。
「ケルス姫はともかく、隣国……? 魔征国シンソニア、だっけ……。でも、どうして?」
「あなたが優秀な、魔法技能師だからです。魔法による優位を取りたいと思うなら、あなたの存在は喉から手が出るほど欲しい存在でしょう。あなたはご自身の価値を、少し過小評価されています」
そう言われても、自分の成した功績を知らないし、実感もないのだから仕方がない。
だが、彼女が言うとおり、マコトの価値が高いなら、隙あらば奪いたいと思う者もいるかもしれなかった。
既に後がない国で死なれるより、説得して誘致しよう、という国もあるだろう。
あるいは、多少強引な手段や嘘で、騙して連れ去ろうという国だってあるかもしれない。
「しかし、改めて見て思いましたが、隣国シンソニアではないでしょう」
「……どうして?」
周囲を見渡して断言したシュティーナに、マコトは首を傾げる。
既に尋問でもして聞き出して判断したなら、その態度にも納得できる。
だが、聞いている雰囲気からすると、どうもそうではないらしい。
「周囲を良くご覧ください。全ての魔道具が息をしていません」
「息……?」
「魔力の供給を時として呼吸になぞらえ、問題なく動作する事を指して『息をしている』、と言います。ご覧ください……、どの魔法陣も動作していません」
薄暗い室内に魔法陣は他にもあったが、どれも動作しているようには見えなかった。
それらに詳しい訳ではないから、何を持って動作していると見て良いかは判断できない。
だが、床にある魔法陣が動作していれば、例えば光を発するとか、そういった動きを見せそうではある。
魔力の通った魔道具は、これまで中継機や記憶再生装置ぐらいしか見ていない。
だが、そのどれもが動作している間は、光を帯びていたものだ。
逆説的に考えれば、魔力を使って動作すれば、必ず発光が伴うと言える。
魔法陣は単独の人力で動かすものでなく、装置の補助を受けて作動させるものでもあるようだ。
床から一段盛り上がった魔法陣、その外縁部からケーブルらしき物が伸び、その先は謎の装置へ繋がっている。
中継機と見た目が似ている物、用途が全く不明な物と、多種多様の設備が、魔法陣へ何かを供給する仕組みになっている様だ。
壁一面が、それら何かしらの装置で埋まっていて、どれもが沈黙しているのは間違いない。
「でも、それがどうして隣国の者じゃないって意味に……?」
「連れ出そうとして魔法陣を使うというなら、つまり転移陣を使おうとした、という事になります。一人の術者が扱える転移というのは、長くても百ベーメルと言われています。それより遠くへ行きたければ、陣同士を繋げるしかありません」
「理屈の事は良く知らないけど、遠くへ行くには、入口と出口が事前に繋がっていないと無理なのか……」
「まさしく、そのとおりです」
「じゃあ、そうやって逃げた人もいたって事?」
「居たかどうか……、それは今となっては定かではありませんが……。見て下さい」
掌を差し向けた先では、一つの結晶体が砕かれていた。
光を失った装置も同様に、何か硬いもので殴りつけられ大きく傷が付き、内部の機構が顕になっている。
「あれが結晶剣から供給される魔力の中継機であり、増幅器の役割を果たしています。他の小さな中継機に管が通っているのが分かるでしょう?」
言いながら掌を装置に向けると、彼女の言ったとおり、砕かれた中継機には他に幾つもケーブルが繋がっていた。
「あれが壊れてしまえば、他の魔法陣も全滅です。使えなかったのは間違いないので、どこから来る事も、また行く事も出来なかったと判断できます」
「隣国からやって来て、それから砕いたのかも……」
「誘拐したいというのに、まず砕いて逃走経路を塞ぐ者は居ないでしょう。時限式の魔道具でも用意して、逃げると同時に発動させるならまだしも……。自らを袋小路に閉じ込める意味は、薄いと思います」
隣国からのスパイが、マコトを連れ出そうとしていたのなら、確かに意味不明だ。
城門は固く閉ざされ、高い城壁には返しがあって登攀を拒む。
誰かを担いで登るなど、それこそ無理だ。
いや、魔法があれば別に不可能ではないのだろうか。
先程の百ベーメルが、どれ程の距離を言っているのか不明なので、確かな事は言えない。
だが、城壁までの距離を超えるには心許なく思える。
とはいえ、今となっては死人に口なし。真偽の程は闇の中だ。
魔法のあるなしで、何が可能かも分からないのだから、そこを考えても不毛でしかない。
「それで、現在魔法陣が機能しないのだとしたら……、何処へも逃げられはしなかった?」
「――当然、ニホンにだって無理ですよ」
思わず、ドキリと鼓動が跳ねた。
シュティーナの微笑は、最初から今まで変わっていない。
だが、その表情は何もかも知っている、と物語っている気がした。
マコトが逃げ出そうと心が揺れていた事も、彼女は悟っているのだろうか。
糾弾らしき言葉はなくとも、如何にも気不味ずく、居心地が悪い。
そんなマコトを見かねてか、シュティーナは更に笑みを深めて言った。
「誘惑されたら、揺らぐのは当然です。それだけ厳しい覚悟が必要な事を、あなたはしようとしているのですから。悪いのは、あの女狐です」
明らかな敵意を向けて、シュティーナは死体を睨み付ける。
その表情がこちらにも向けられた時の事を考えると、気不味さはより一層強まった。
だからという訳なのだろうか、マコトは明らかに話題を逸らす形で質問を飛ばす。
「でも、とりあえず隣国のスパイじゃない事は置いといても、それでケルス姫の……というのは?」
「この女は、私の名前を名乗っていた。……そうでしょう?」
シュティーナは一体どこまで知っているのだろう。
何もかも知られている気がして、気味が悪い。
それとも、念話とは盗み聞き出来てしまうものなのだろうか。
マコトは電信技術を応用して、現在の念話魔法を作り上げたと聞いた。
そして実際、携帯電話の盗聴は、やり方さえ知っていれば素人でも出来てしまうものなのだ。
「もしかして、聞いてた? 盗み聞きを……?」
「いえ、決してその様な……。ただ、あなたの興味を引く単語を多く使っていたのではないかと、そう考えた次第です。知らない名前より、知った名前を使われた方が興味を引きますし、何より仲違いの様な形に持っていく方が、何かと好ましい……。姫様が考えそうな事です」
その姫様の為人を知らない身としては、何とも答え辛い。
だが、ケルス姫をよく知る彼女からすると、そうした手管を取りかねないと思えるようだ。
直前に念話を飛ばして来たケルス姫は、協力者が居るのでは、と怪しんでいた。
向かう先がおかしい、という発言からも、マコトが西棟へ向かうのは意外と考えていた様だ。
しかし、今そこで倒れている彼女――恐らくこの彼女が、この西棟二階へと誘ったのだ。
シュティーナが言っていた、姫様の手先が彼女なら、この発言は矛盾する。
――だがそれも、全てはマコトを騙す演技だったとしたら、あるいは……。
「でも、何故ケルス姫がそんな事を……? 騙してここまで誘導して、それで一体どうするつもりだったんだろう」
「決まってます。もう一度、記憶を奪って最初からやり直すつもりです。既に姫様の思惑は失敗し、あなたには逃げられてしまいました。でも、再び記憶を奪ってしまえば……。今度こそ、姫様の望む展開に持っていける。……そうした期待が持てます」
――確かに、そういう事になってしまう。
記憶を奪われ、再びベッドの上で目覚め、そして同じ説明をされたなら……。
きっと何も疑わず、彼女の言葉に耳を傾けるだろう。
目覚めたばかりのマコトが、そうだったように。
一度接触に失敗しようと、そしてその後の誘導に失敗しようと、記憶を奪えるならやり直せる。
その為の誘導だったとしたら……。
何も知らずこの部屋に来て、日本に転移すると思わされて記憶を抜き取られていとしたら……。
十分、その危険はあり得たのだと、今更ながら理解して背筋が凍った。
――だが、シュティーナも頭から信じるには怖い。
マコトを守るつもりで、偽シュティーナを排除する必要があったとしても、殺す必要まであっただろうか。
ナイフの一刺しで殺せる腕前があるのなら、殺さずとも無力化も可能そうに思える。
簡単な事でないにしろ、殺すというのは余りに短絡的で攻撃的過ぎた。
本当に殺す必要があったのか、そう思えてしまうのだ。
シュティーナの持論が真実だったかどうか、それを確認するにも、生かしておいた方が良かった筈だ。
真実を喋るか分からない、互いの信頼を損なう嘘を吐かれる……確かに、その危険はあった。
だが、先回りされていた事といい、素直に信じるにはシュティーナも謎は多い。
マコトには、そもそも本当のシュティーナがどちらだったのか、その材料さえ持っていない。
その猜疑が伝わってしまったのだろうか。
彼女はマコトの横を素通りして、立ち去ろうとする。
背中合わせのような格好になり、互いに顔を見せぬまま、シュティーナがポツリと呟いた。
「どうか、ご自身で見た記憶と決断を信じて下さい。私は……その為に、心から協力する者です」
「待って……!」
言うだけ言うと歩き出したシュティーナへ、マコトは振り返って手を伸ばす。
即座に止まってはくれなかったが、部屋を出る直前になって、シュティーナは振り返った。
彼女が浮かべていた笑みに、魔法灯の明かりが指して影が生まれる。
単なる偶然、影が作った悪戯だと分かるのに、どうにも不安が拭えない。
彼女は真実だけ述べた――そう信じたいのに、偽シュティーナとの会話内容を知っていた事実が、不安を掻き立てる。
単なる推論だ、と彼女は言った。
ケルス姫が取りそうな手段を、予測したに過ぎない、と。
「信じて……いいんだね?」
「勿論です」
シュティーナが笑みを深めて頷くと、その影もまた深くなった。
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