猜疑と不安の波間で その4

 シュティーナは、マコトを置いて去って行った。

 その背を見送り姿が見えなくなるまで、マコトはその場から微動だに出来ずにいる。


 彼女を信じたくて、掛けた言葉なのは間違いない。

 だが、結果として心にシコリを残すだけで、終わってしまった様に思う。


 ――いや、マコトは味方であると信じたいのだ。

 ケルス姫が信用ならないと思うから、信じられる誰かを欲した。


 だが、こうなって来ると、誰も彼もマコトを利用しようと画策しているように思えてしまう。

 本当に味方なのか。

 そもそも、味方はいるのか。

 信用できる者など居ないのではないか。


 猜疑心ばかりが、いたずらに膨らんでいく。

 ――もしかしたら。


 マコトは倒れ伏した、女性の死体に目を向ける。

 仰向けに倒れた彼女は、苦痛に顔を歪めて天井を見つめていた。

 不憫に思ってか、マコトは傍らに膝をついて瞼を落としてやる。


 腹部からの出血は既に止まっていたが、肌はまだ温かった。

 恐らく、タッチの差でシュティーナはこの部屋に踏み込み、そしてこの人の命を奪ったのだろう。


「もしかしたら、この人こそ信用できる人だったのかもしれない……」


 呟くようにして出た言葉は、単なる願望に過ぎなかった。

 実際は、シュティーナの言うとおり、騙されて記憶を抜かれていた可能性もあったろう。


 日本に帰れるという甘言に騙され、また最初からやり直す破目になっていただけかもしれない。

 ――もしも、話を聞けていたら……。

 そうすれば、また何か違う発見もあったかもしれない。


 シュティーナは混乱させるか、二人の信頼を損なう嘘を口にされるのを恐れた、と言っていた。

 果たして、それを信じて良いものだろうか。


 だが、何を言われようと、マコトは判断する材料を持っていない。

 結局のところ、何を正しいか迷う事しか出来ないだけかもしれない。

 それが分かるから、シュティーナにも強い疑念を抱けなかった。


「何にしても、このままには出来ないな……」


 マコトは苦悶に歪む死体を見て、ポツリと呟く。

 シュティーナは関心すら見せず退室していった。

 また違うアプローチで援助する、とやらの目的の為に急いだのだろうか。

 今度は何一つ助言すらせず、まるで逃げる様に姿を消してしまった。


 本城へ辿り着く事が一先ずの目標だった事を思えば、来た道を戻るだけで目的は達成出来る。

 そこから更にどこを目指すか、という問題について、また考えなくてはならないのだが……。

 結晶剣とは、本城に辿り着けさえすれば、どこからでも目指せる場所なのだろうか。


「いや、それより……」


 考えが横滑りしている事に気づき、マコトは死体に目を戻す。

 果たして、魔物とは生きた人間しか喰わないのだろうか。

 現場を目撃していないから何とも言えないが、女性の肉を好むというなら、死体であろうと構わず喰らう気がした。


 腐っているのならまだしも、野生の獣は死肉だろうと構わず喰うのだ。

 ならば、きっとこの女性とて、その被害は免れまい。

 ――敵の繁殖を助けるくらいなら、ここで処理してしまった方が良い。


 それが分かっていても、死体の処理などした事のないマコトには酷な事だった。

 踏ん切りが付かず、女性と部屋の出口とを頻りに見比べている。


 どこであろうと、安全な場所は無い。

 血の匂いがどこまで広がり、どこで嗅ぎ付かれるのか分からないのだ。


 悠長にしていると、ここに魔物がなだれ込んで来る可能性だってある。

 処理する度胸がないというなら、せめて隠すぐらいはしておく必要があった。


「それに、出来る事といったら焼くぐらいしかないし……」


 まさか中庭まで担いで降りて、穴を掘って埋める訳にもいかない。

 ならば適切な処理など、火葬ぐらいしかいだろう。

 だが、焼けば当然匂いが出るし、煙に乗って広範囲に拡がってしまうかもしれない。


 それが魔物にとって食欲を誘う香りになってしまえば、自ら自殺場所を作るようなものだ。

 遺体の尊厳を守りつつ、魔物の食料にしないには――と、マコトは顔を巡らせた。

 何が出来なくとも、せめて餌食にならないよう、隠しておきたいという事らしい。


「とはいえ……」


 薄暗い部屋の中には魔法陣と、そこへ繋がるケーブル、そして何かの装置ぐらいしかない。

 研究室のように、書棚や用具入れなども見受けられなかった。

 そうして、気付く。


 動かなくなった装置の幾つかには、刃物による切り傷が付いていた。

 そして、その傷は真新しく、ごく最近できた様に見えた。

 それがついさっきの出来たものなのか、あるいは数日以内に出来たものなのか、そこまでは分からない。


 だが、何者かの手によって、破壊されたのは事実だ。

 ――あるいは、という考えが頭をよぎる。

 あるいは、つい先程この場に来た誰かが、破壊したのではないか。


 転移させたい者が、設備を破壊する訳もない。

 破壊したのは、魔法陣を使用させたくない誰かだ。

 しかし、これだけで誰がやったか断定できないのも事実だった。


 実はもっと以前に、破壊されていた可能性だってある。

 下手な考えで余計な猜疑を作り、それに囚われては本末転倒でしかない。


 マコトは女性の死体を、どこか都合の良い隠し場所はないかと室内を見渡し、そうして部屋の片隅に木箱を見つけた。


 マコトの鎧が仕舞われていた物と同様、釘打ちされただけの箱で、その大きさにも違いは見られない。

 開けてみると、そこにはお仕着せではなく、未使用のローブが敷き詰めて入っていた。


 召喚術士などが着るものなのだろうか、灰色をした布地は肌触りが荒く、着心地は悪そうだ。

 例えば職員用の制服など、もしかしたら、そういった物なのかもしれない。


 ともかく、これを全て出せば、小柄な彼女なら身体を畳んで入れられる。

 非常に窮屈な思いをさせてしまうが、魔物に喰われるよりはマシと思って貰おう。


 完全に脱力した人の体は、案外重いものだ。

 その筈なのに、鎧のお陰なのか、それともマコトの勇者としての力なのか。

 難なく持ち上げ、そのまま箱の中へと丁寧に仕舞えてしまった。


 そうして、一度取り出したローブを重ね、蓋が閉まるギリギリ、許す範囲で彼女の上に被せる。

 その一枚、更に一枚が、魔物から彼女を隠してくれるかもしれない。


 そう思っての、マコトなりの誠意だった。

 正しい埋葬もしてやれない申し訳無さが、その手付きを丁寧なものにさせていた。

 最後に蓋を閉じ、なるべく奥まった所へ隠し終わると、マコトは掌を合わせて頭を下げる。


「あぁ、そうか……」


 マコトはそこで、何かを思い至って顔を上げる。

 シュティーナが死体をそのままにして行ったのは、単なる薄情からではない。

 敵に対する情けなどない、という気持ちも少なからずあったろうが、それだけが理由でもない。


 シュティーナは単に無駄を省いただけなのだ。

 マコトが事を成したなら、全ては灰燼に帰す。


 まだ生存している者がいるかもしれないのに、致し方ない犠牲として、爆発に呑まれる事すら許容する彼女だ。

 死体の一つ程度、完全に考慮の外だろう。


 シュティーナへの猜疑心が高まり、信頼は更に低迷した気がする。

 だが、その中でも、精一杯の誠意を成した。

 全てが灰になるとしても、その成した気持ちはきっと大事なものだ。


 一通り作業も終わって、マコトはようやく部屋から出る決意をする。

 入り口の壁に背を当てて、そっと外の様子を窺った。

 左右どちらに顔を向けても魔物の姿は見えず、そして遠くには死体ばかりが見えた。

 一度一掃されたからこそ、付近に魔物はまだ寄り付いていないのだろう。


 思えば、この死体もまたシュティーナが殺していたのだろうか。

 召喚士を名乗った彼女は、自分は下っ端だと、いつまで魔物から隠れられるか分からない、と言っていた。


 それを考えれば、彼女に魔物を掃討できたとは思えず、手練れである事を見せたシュティーナがやったと考えるべきなのだろう。

 息を潜め、気配を感じさせない技術を持つのは、メイドの嗜み――。

 そうした事を言っていた。


 今も生きているのは、その技術と匂い袋をのお陰だ、とも言っていた。

 だが、これだけの実力があるのなら、むしろ生き延び続けていたのは必然とも言える。

 そして、メイドであるという本人の言い分にも、怪しい陰りが見えてきた。


 隠密を得意とし、ナイフ一本で標的を仕留める――。

 それではまるで、暗殺者の様だ。

 ――あるいは、スパイなどにも、その技術は有用だろう。


 もしかしたら、という猜疑心が膨らんでいく。

 一つ一つを思い返すと、怪しい部分があるのは確かだ。

 だが、敵国の暗殺者やスパイと決まった訳ではない。


 第一、この魔法王国にだって、そうした者がいたに違いないのだ。

 要人の警護として、メイドに扮して働いていただけかもしれない。

 彼女に凡人とは思えない技能があるからといって、即ち敵と考えるのは短絡的だった。


 それより、これから何処へ向かうのが正解か、それを考える方が重要だ。

 上に行くほど魔物との遭遇が減るのなら、本城へ戻ってから、上を目指すのは得策ではない。


 メインホールにある階段以外にも、二階へ上がる手段は、当然あるだろう。

 だがやはり、どこにあるかも分からない階段を探して、右往左往する勇気はなかった。


「ここからでも繋がってれば良いんだけど……」


 東棟にもあったのだから、本城へと繋がる回廊は、こちらの棟にもあると考えられる。

 そうと決まると、早速マコトは上へ続く階段を登り、視線の高さが三階の床へ達した瞬間、その動きを止めた。


 まるで氷漬けにされたかの様な、見事な硬直だった。

 見れば、三階の窮状は本城一階と変わらぬ程、魔物に荒らされてしまっている。

 当然、その数も相応に多く、巣窟といって問題ない規模に膨れ上がっていた。

 

 マコトは喉の奥で悲鳴を抑えつつ、身体を仰け反らせながら、ゆっくりと数歩階段を降りた。

 上へ行くほど安全、とは何だったのか。


 だが、よくよく考えてみれば、二階にだって本来は安全から程遠い数の魔物がいたのだ。

 死体ばかりだったから勘違いしただけで、殺された魔物の数は多かった。

 生存した魔物がいなかったから、三階も同じ様なものと勘違いしてしまっただけだ。


 しかし、嘆いてばかりもいられない。

 結局のところ、本城一階よりはマシと思うなら、ここを進むしか道はないのだ。

 今は三階に上がってから、魔物をどう突破するのか、それを考えなくてはならなかった。


 そこへ、脳を揺さぶる念話が飛び込んで来て、マコトは身体を強張らせた。

 近くの魔物に気付かれないよう、ゆっくりと身体を戻して頭も下げ、少しずつ離れていく。


『マコト、愛しいマコト……』


 ケルス姫か、と悪態めいた言葉遣いを呟いてしまったのは、誰にも責められないだろう。


わたくしは幾度も止めました。待っていて、と。ここに居て、と……。それでも、あなたは進むのでしょうか』


「進む以外に道も、方法もなさそうだからね」


『何故でしょう。何の為に? 危険を冒してまで、あなたは何をしたいのですか? 留まれば……留まってさえいれば、あなたは危険から遠ざかっていられたでしょうに……』


「どこも安全じゃないからだよ。隠れたところで魔物に見つかる。そして、喰われる。それなら、やられる前にやれって思うし……進み始めたからには……、終わらせないと」


『それは本心ですか?』


 マコトとしても、どこまで本気で言った台詞か分からなかったろう。

 しかし、ケルス姫は予想以上の反応を見せ、語気を強めて言葉を続ける。


『終わらせる為に、尽力すると言うのですか?』


「それは……まだ……、なんとも……」


『決意を見せるでもなく、覚悟を決めた訳でもなく、流されるままに動いていると? だったら、すぐにやめてください。あなたが魔物の餌食になる光景なんて、見たくありません……』


「それは……、本心で?」


『勿論です。私が願えば、あなたは止まってくれますか?』


 意趣返しのつもりで言った台詞に、意外なほど真摯な声が返ってきて困惑してしまう。

 ケルス姫は心からの本音で、それを願っているように聞こえる。

 だが、実際のところを考えると、裏があるように思えてならなかった。


「悪いけど、君の言葉には素直に頷けない」


『そう言うだろうと思いました。……でしたら、私から一つ、教えられる事があります。【焼夷炎スティーバ】の魔法です。炎が長く留まり、魔物にも卵にも非常に有益な魔法です。これが、あなたを助けてくれるでしょう』


「名前だけ教えられても……」


 それだけ言って、いつか言われた事を思い出した。

 マコトは既に魔法を、その身に宿している。ただ、忘れているだけだ。

 だから、使えると認識すれば、実際に使用する事が出来てしまう。


『それもあなたが開発した魔法ですよ。……共に、私と。戦争の為に開発された魔法でした。それを使えば、一階ロビーなど問題なく突破できたでしょうに。でも、使わなかったならば、あなたの協力者は使える事を知らなかったようですね。他には一体、何を習いましたか……?』


「いや……」


 実際は、何も教えられていない。

 知っていたら、確かに出し惜しみすることなく伝えられていただろう。

 シュティーナには、敢えてマコトを窮地に陥らせる理由がない。


 だが、それを馬鹿正直に教える必要もなかった。

 何を知っているか、あるいは何を知らないか、その些細な情報で足元を掬われるかもしれない。


 ケルス姫は聡明であると、シュティーナから聞いていた。

 ならば、迂闊に情報を漏らす事は避けねばならない。

 沈黙が続くと、ケルス姫の方から言葉が掛かる。


『また、あなたと共に歩けて行けたら……。あの時の様に、共に手を携えられたら……。そう、今でも思ってしまうのです。でも、あなたは何もしなくて良い。……して欲しくないのです』


 ケルス姫の声音は切なく、遠い憐憫を見て言っているかの様だった。


『きっと、いずれ分かり合えるでしょう。今の考えの方が異常なのだと、きっと分かって貰える筈……。かつてあなたが考えた様に、また共に手を携えて歩ける道はあると信じています。だから、その時まで……。また再び会える日まで、どうか無事で……』

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