目覚めの時、或いは微睡みの継続 その5

 ケルス姫が何処に居るか分からない現状で、すぐに動き出すのは怖かった。

 階段を上がっている最中の鉢合わせもあり得るだろうし、不意遭遇など考えたくもない。


 直接的な危害を加えて来る訳ではないとしても、彼女には隠された薄恐ろしさがある。

 対面を望む声も、果たして何処まで本気なのだろう。


 記憶を奪ったのが本当にケルス姫であれば、その言葉の裏には、何か別の意図が隠されている筈だ。

 だから、出来るならケルス姫が階段を降りて来て、遠退く後ろ姿を見るのが理想だった。


 マコトは部屋からゆっくりと顔を出し、左を向いて動きを止める。

 十メートルほど離れた先に、上りの螺旋階段が見えた。

 今か今かと待ち詫びていても、階段の石畳を叩く音は聞こえてこない。

 それどころか――。


「グルルルゥ……!」


 獣に良く似た唸り声が、遠からぬ場所から聞こえて来た。

 また、新手の魔物が獲物を探して彷徨っているらしい。

 明確な目標を見定めている感じはしないので、マコトが何処に居るかまで分かっていない様子だ。

 しかし、同じ場所に留まっていれば、見つかるのも時間の問題だろう。


 戦闘音など響かせたら、ケルス姫に自らの居場所を報せる様なものだ。

 いつ来るかも分かりもしない相手を待ち伏せするのも、これでは賢明でないだろう。


 ならば一か八か、魔物に見つかる早く、階段を上がってしまう方が良い様に思える。

 魔物に見つかれば命の保障はないが、ケルス姫に見つかっても命までは取られまい。


 彼女に胡散臭いものを感じているのは事実だ。

 信じたい気持ちはあっても、ドーガに残された記憶は、ケルス姫が記憶を奪ったのだと言っている。


 そして、何かを信じるには、マコトが持ってる情報は少なすぎた。

 それを補おうと思えば、自分が残した記憶を確認するしかないのだ。


 何かあれば一報する、というシュティーナからも、未だ連絡はない。

 これは果たして、何も問題は起きていない、と考えて良いのだろうか。


「フシッ! フグルルル……!」


 魔物の気配は近付いていて、匂いを嗅ぐような鼻音までする。

 どういう魔物が、距離を詰めて来ているのかは分からない。

 既に何者かが潜伏していると、その確信だけは持たれているかもしれなかった。

 ――決断するしかない。


 マコトもまた、そう思った様だった。

 周囲を素早く確認すると、身を低く屈めたまま、小器用に移動を開始する。

 今だけは隠密に専念する為か、手には武器も、魔法も構えていなかった。


 途中にある柱や壁を遮蔽物として利用し、未だ視界に捉えていない魔物を警戒しながら進む。

 その時、背後の通路から、うっそりと顔を出して来たのは、恐竜の顔と身体を持つ魔物だった。


 外で見た魔物と、見た目こそ似ているが体格は全く違う。

 その頭は天井に届きそうな程高く、それに見合う巨体と筋肉の厚さを持っていた。


「……ッ!?」


 階段を目前にし、咄嗟の反応で柱の後ろに隠れ、息を潜める。

 鼻が利いているのなら、既に見つかっていてもおかしくない距離だった。

 頻繁に鼻を鳴らし、匂いを嗅ぐ音が聞こえて来るところを見ると、どうやら特定までは出来ていないらしい。


 ――いざとなれば、先制で不意打ちした方が有利になる。

 見つかると思えば、躊躇わずに攻撃を仕掛けるべきだった。


 マコトは右手を胸当ての宝石に当てるだけで、まだ武器を取り出さない。

 ただゆっくりと顔を横に向けて、極力音を立てない様に背後を窺った。


 荒くなりそうになる息を、必死に押し込んで細い呼吸を繰り返す。

 その時、魔物がズシリと音を立て、一歩また一歩と近付いて来た。


 魔物は一直線に、すぐ傍までやって来て立ち止まる。

 柱の裏で身を潜めている所に、その鼻先が視界に入り込んだ。


 ――先手を打ち、斬り込むべきだ。

 しかし、マコトは攻撃するより、柱を盾にして回り込み、姿を隠し続ける事を選んだ。

 常に魔物の死角となるように、柱を利用して対角線上に身体を隠す。

 そして、どうやらそれをするだけの意味はあった様だ。


「――フシッ!」

 

 魔物は鼻息を一際大きく鳴らすと、不機嫌そうに身体を反転させた。

 来た道を戻る様子を、マコトは柱の陰に隠れたまま見守る。

 緊張と恐怖で呼吸は震えており、荒れてしまいそうになるのを必死で抑えていた。


 もうすぐ切り抜けられる、その思いが強まったのだろう。

 それと連動して、呼吸までもが荒くなった。

 ――そして、どうやらそれが良くなかったらしい。


 魔物は突然動きを止めると、尻尾を振り上げて、柱を薙ぎ飛ばした。

 マコトは咄嗟に身を伏せたお陰で直撃は避けたものの、マコトが立っていた柱部分は半壊している。


 尻尾の通り抜けた部分が、ゴッソリと綺麗になくなっていて、マコトは喉の奥で引き攣った悲鳴を上げた。

 それを見たからではないだろうが、魔物は威嚇しようと顔を下げ、一際大きく口を開けた。


「グゴォアアアア!!」


 突き立った牙の奥から、恐竜の如き咆哮が巻き起る。

 耳を覆う程の大音量が空気を震わせ、根源的恐怖が身体を突き抜けて行った。


 それは捕食者に出会った獲物の恐怖だった。

 命の危機を頭でも、身体でも理解する恐怖。

 自分の意志ではどうにもならない、本能の恐怖だ。


「なんで見つかったァァァ!?」


 マコトは恐怖を叫び声に変え、魔物に背を向け脱兎のごとく階段へと走る。

 ――そこまで行けば逃げきれる。


 階段の入り口はいかにも狭く、巨体の魔物では頭どころか鼻先までしか入らない。

 そして、その階段は十メートルと遠くない位置にあるのだ。


 マコトが走り出せば、当然魔物も追い掛けようとして来る。

 前傾姿勢だったものを、床を蹴ろうと力を入れ、下半身が膨れ上がった。


 マコトは後ろを振り返りながら確認し、左手を突き出す魔法を放つ。

 【火炎リエッキ】の魔法は、放射される炎を生み出し、それが魔物の顔面を炙った。


「ギッ、ゴァァァ!?」


 突然現れた炎に驚いたのか、それとも、魔物であっても炎は怖いものなのか。

 放射された炎は魔物の出鼻を挫かれ、走り込むタイミングを完全に逸した。


「いっ、今だ……ッ!」


 その間にマコトは全速力で走り、階段へと入り込んで駆け上がる。

 ここに至って、ケルス姫に見つかるかもしれない、などという考えは、頭の中から綺麗に消えていた。


 十メートルという距離は、短いようで長い。

 特に命を狙われている者にとっての十メートルは、遥か彼方の距離だった。


 一歩、また一歩と入口が近付く。

 炎を振り払った魔物が、咆哮を上げながら近付いて来るのが分かった。

 巨体が走れば振動で床が揺れ、それがマコトの足にも伝わる。


 魔物の一歩は大きい。

 振動と足踏み音は、すぐ背後まで迫っていた。


 ――追い付かれる。

 そう思ったその時、マコトは入口に到達する。

 入口の縁を手に掛け、勢いを利用して体の向きを変えると、その勢いのまま階段を駆け上がった。


 一段飛ばしで三歩駆け上がったと同時に、大きな衝撃音が建物全体を揺らした。

 それ程の巨大で、盛大な振動が響き渡り、マコトも思わず転びそうになる。


「わ、ぁ、わっ……!」


 身体を前後に揺らし、壁に手を当て、落ちないよう必死に押し留まった。

 更にもう一度、頭突きでもしたかのような振動が響く。


「ひぃぃぃ……!」


 今度は転がり落ちそうになってしまい、必死に石壁へ指先を引っ掻けて耐えていた。

 何とか耐え切って、エビ反りの様になっていた態勢も元に戻す。

 マコトが落ちて来ない事を悟ると、魔物もそれを最後に足音が離れていく。


 息を押し殺しながら入口を窺っていると、足音が徐々に遠退いて行くと分かった。

 入口から見えていた影も、距離を離す毎に小さくなっていく。


 そうして、次第に足音さえも聞こえなくなった。

 安全になったと分かると、マコトは盛大に息を吐いて、その場にズルズルと腰を落とした。

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