束の間の安らぎ

ジリリリリリ


 いつもの機械音で目を覚ました洋子は、目覚まし時計を止めるとボーッと目の前の壁を眺めていた。


「……彰くん」


 夢の中での出来事を思い出す。両頬にキスをされた後、鈴のように高く、それでいてとても澄んだ綺麗な声が、洋子の耳元で囁いたのだ。


『あなたに祈りと祝福を』 


 その言葉は、夢から覚めた今もまだ、洋子の耳に響いていた。


「幸愛さん……」


 洋子は両方のほっぺを軽く擦ると、夢だと言うのに未だに残る感覚に、しばらくの間浸っているのだった。


。。。


 洋子が暫くベッドの上でぼーっとしていたせいで、降りてこない事を心配した母が洋子を呼びに来てしまった。


「お母さん……」

「どうしたの? 洋子。体調でも悪い?」


 洋子の不安げな顔を見て、優香はそっと手を伸ばしてくる。洋子のおでこに、冷たい優香の手が触れた。ご飯を作り終えた後だから、調理器具を洗っていたのだろう。


「お母さんの手、冷たくて気持ちいいね」

「熱は無いみたいだけど、具合が悪いなら休む?」

「ううん。具合が悪いんじゃないの」


 洋子はそう言いながら、優香の胸にポスッと身体を預けた。甘えるように抱きついて「夢を見たの」と一言だけ言った。


「そう……」


 優香に連れられて下に降りた洋子は、慌てた様子の兄に迎えられて、驚いた。


「どうしたの?」

「洋子が中々降りてこないから、心配したんだよ」


 いつもは目覚ましの音でスっと目覚める洋子が、今日はなかなか起きて来なかった。恭弥はずっと心配で、リビングでそわそわと待っていたらしい。


「大丈夫だよ、お兄ちゃん。心配かけてごめんね」

「そうか。何ともないならいいんだけど、洋子が寝坊だなんて珍しいね」


 恭弥はほっと安堵の息をつくと、洋子の頭を優しく撫でて言う。


「夢を見たの。双子の…彰くんと、幸愛さんの夢だと思う」


 洋子はそう言うと、恭弥と優香に甘えるように、身を寄せた。特に、目の前で頭を撫でてくれていた恭弥の手をぎゅっと握って、温かい手の温もりを感じている。


「そう言えば、あなたは昨日、彰さんの家に行ったんだったわね」


 彰の名前を聞いた恭弥が軽く眉を寄せる。前にも、洋子は彰の夢を見たと言っていた。


「洋子は前にもその子の夢を見ていたよね?」

「うん。彰くんはキラキラしてて、とっても綺麗なんだよ」


 洋子は優しくて、しかし悲しげな表情でそう言った。恭弥の眉が更に皺を作るように寄せられる。


「そのお話は帰ってからにしましょうか。二人とも、遅刻しちゃうわよ?」


 優香がそう言うと、洋子と恭弥はハッとする。洋子は急いで朝ごはんが置いてある席に着くし、恭弥はバタバタと玄関へと急いだ。


「今日は早いから。ご飯は洋子の好きなきのこハンバーグでいいかな!?」

「うん! 嬉しい! お兄ちゃん、行ってらっしゃーい!!」


 玄関とダイニングという離れた距離で会話を交わして、恭弥は「いってきます」と挨拶をしてから出ていく。


「洋子。彰さんから何か聞いたの?」

「え? ……うん。亡くなった幸愛さんって、妹さんのお話を聞いたの」

「そう。あなたの優しいところは素敵だけれど、そんな顔をしていたら彰さんも悲しいわよ?」


 優香に指摘されてから、洋子は落ち込んだ自分の顔に気づいた。ペチンと軽く頬を叩いた洋子は、ニコッと笑顔を作る。


「ありがとうっ! 彰くんが悲しい顔になっちゃうのは嫌」

「ふふ。その笑顔で学校に行ってらっしゃい。ほら、よく噛んで。でも急いで?」


 洋子はご飯をかき込んで、できるだけ小さく噛み砕く。母の言う通り、よく噛んで、急いだ。


「ごちそうさま!」


 洋子はご飯を食べ終えると、ササッとお皿を流し台に置いて、身支度を済ませるためにまた二階へと上がっていった。


。。。


 なんとかいつも通りの時間に家を出ることが出来た洋子は、これ以上急ぐ必要は無いので、いつもと同じ速度で学校までの道を歩く。


 その途中、よく知っている後ろ姿が歩いているのを見つけて、洋子は嬉しくなった。ゆらゆらと揺れているあの三つ編みの少女は、洋子よりは背が高いが、周りと比べれば小柄だ。


 信号待ちで立ち止まる後ろ姿を目掛けて、洋子は走り出した。


「圭ちゃん!!」


 洋子が声をかけると、三つ編みの少女、水森圭子は洋子を振り返って、手を振ってくれた。洋子は嬉しくて、圭子に手を振り返す。


「おはよう! 圭ちゃん!」

「おはよ」


 昨日は圭子とは登校出来なかったので、少し寂しかった。洋子は圭子と会えた事が嬉しくて、にこにこと満面の笑みを浮かべながら圭子の隣を歩く。


「そう言えば、洋子」


 にこにこと笑っている洋子を横目に見た圭子は、くすっと小さく笑う。


「なあに?」


 と、洋子は花を飛ばして圭子を見つめた。


「この前、今日の放課後は寄り道しましょうねって約束したでしょ?」

「うん。寄り道、してくれるの?」

「もちろん」


 洋子は放課後が楽しみになった。昨日も今朝も悲しかったが、大好きな友達と一緒なら辛い事なんて忘れてしまう。

 

「そうだ。入学式の日に会った若菜ちゃん。覚えてる?」

「圭ちゃんと同じ体育委員の子?」


 明るい茶髪で、圭子と同じく三つ編みの少女だ。同じと言っても、圭子とは違って髪は短いし、三つ編みをしているのも片側だけなのだが。


「そう。私が洋子の話をしたから、若菜ちゃんも洋子と話してみたいって言ってくれたのよ?」

「そうなの? 私も若菜ちゃんと仲良くなれるかなあ?」


 入学式の日に見た若菜の印象は、真面目そうな女の子だった。亮太を叱っていた様子は、歳上のお姉さんのようにも見えたし、きっと圭子のように面倒見もいいのでは無いか。と洋子は考える。


「洋子さえよければ、彼女も誘っていい?」

「うん! 若菜ちゃんも寄り道できるといいねえ」


 洋子は新しく友人が出来るかもしれない。と、またにこにこ顔で弾むように歩いた。


。。。


 その日の放課後は、圭子と、快く了承してくれた若菜と一緒に、寄り道をして帰る。


「とりあえず、ニャオンにでも行く?」


 学生が帰りに寄る場所の定番と言えば、『ニャオン』という名前のショッピングセンターだった。


「それなら、ちょうど買いたい物があるんだけど、いいかしら」


 若菜がそう言うと、洋子も圭子もこくんと頷いた。


 学校からニャオンまでは、そんなに遠くない。学校の最寄り駅付近にあるのだ。


「何買うの?」

「ふせん。好きな文具メーカーが新作を出したって言うから、是非欲しくて」

「凄い。文具メーカーを好きなんて、真面目なのね」

「私、いつもテキトーなのでいいや。って、安いの買ってる」

「私も」


 洋子と圭子は尊敬の眼差し、若菜を見つめた。洋子も圭子も勉強は苦手だ。文具メーカーなんていちいち気にしたりしないし、教科書にマーキングもしないため、ふせんを使うこともほとんどない。一応、念の為にペンケースの中に入ってはいるが、全く減っていないのである。


「可愛いのよ? アニマルデザインの文具を多く扱っていてね。私が欲しいのは犬のふせんなの」

「へえ。私、100円ショップのシンプルなやつしか持ってないわ」

「えへへ……。私も」


 洋子と圭子がそう言って笑うと、若菜も小さく笑った。


「でも、せっかくだし可愛いふせん、欲しいなあ。持ってたら勉強のやる気も出るかも!」


 洋子はそう言って、若菜に今話題にしていた文具メーカーの文具を色々と教えてもらう。アニマルデザインがメインと言うだけあって、可愛らしいデザインの物ばかり売っているようだ。若菜がスマホで見せてくれるホームページを覗いて、キラキラと目を輝かせていた。


「授業で使うノートもここの買おうかなあ」


 洋子がそう言うと、若菜は嬉しそうにオススメしてくれる。ノートの種類も、罫線や方眼など多岐にわたるようで、オススメなのは罫線の中でも、線の一本一本に小さな当たりがついているものだそうだ。文字がズレることなく綺麗に書ける。と若菜は言う。


「若菜ちゃんのオススメ、買おうかな」

「ふふ。使った感想を教えてね?」

「私はこの前安いノートをまとめて買っちゃったから……。ちょっと残念」

「今のノートが無くなるまでは我慢だね」


 会話をしているうちに、ショッピングセンターのニャオンに着いた。目的の文具が売っている専門店に入り、若菜は真っ直ぐにその文具が置いてある場所へと案内してくれる。


「店員みたいね」

「よく来るから……」


 圭子の言葉に、若菜は少しだけ照れくさそうに笑った。若菜は、新作が出る度に見に来ているらしい。


「あら。犬のふせんって2種類あるのね。若菜ちゃんはどれを買うの?」

「どっちも可愛いのよねえ。迷うわあ」


 若菜がふせんを見比べて悩んでいると、洋子がそわそわと小さな声で若菜に話しかけた。


「若菜ちゃん。私も、ふせん買おうかなって思ってたし……。お互いに違うほう買って、交換こしない?」

「いいの?」

「うん。私も可愛くてどっちも欲しいって思っちゃうし、お友達とシェア出来たら、もっとお勉強頑張れそうだもん」


 洋子はそう言って、はにかんだ。洋子の元々の雰囲気もあって、若菜は癒された気分になる。


 若菜は和むように微笑むと、洋子にお礼を言って、ふせんの片方を手に取る。洋子も、それとは別のデザインのふせんを手に取った。


「えへへ。嬉しい」


 洋子の笑顔を見て、若菜はまた癒される。


「圭子ちゃんが言ってた通り、洋子ちゃんって可愛らしい子ね」

「え? そう? ……えへへ。嬉しいな」


 洋子は褒められて照れくさそうに、しかし嬉しそうに笑った。それを横目に、圭子が「でしょ?」と若菜に言う。

 

 その後、初めて3人で出かけた記念に、シャーペンをお揃いの違う色で買った。洋子が緑色。若菜が黄色。圭子が赤色だ。


「またね!」

「ええ。今日は誘ってくれてありがとう。楽しかったわ」

「またみんなで寄り道しましょ」


 若菜と別れてすぐ、圭子とも別れることになる。若菜はバス通いだし、圭子は駅の付近に家があるのだ。


 洋子は、2人と別れた途端、寂しさが込み上げてきて、しょんぼりと肩を落とした。友人と別れた寂しさだけではなく、昨日の彰の話を……。今朝の夢を思い出したのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る