慈悲の妹と兄の心

ジリリリリリ


 目覚ましの音で目を覚ました洋子は、パッと鳴っている時計を止めて、惚けた顔をする。


「誰なんだろう……」


 また綺麗な女の子だった。洋子は、夢でキスをされたおでこを軽く擦ると、昨日と同じようにカーテンを開けてから制服に着替えて、鏡の前でチェックをする。


 部屋を出て階段を降りたところで、潮っぽい匂いと、味噌のいい香りが漂ってきた。あさりかしじみか、どちらかの味噌汁だろう。洋子はそう思って、ダイニングの扉を開ける。


「あっ、今日もお兄ちゃんだ! おはよう!」

「おはよう。洋子。たまたま一限が休講になっちゃったものだから。二限からは出るよ」

「そっか! 頑張って」

「ふふ。洋子もね」


 席に座った洋子の頭を軽く撫でて、恭弥は味噌汁をよそうためにキッチンへ向かった。洋子は置いてあるご飯を見つめ、恭弥の帰りをじっと待っている。


 その姿がなんだか犬のようで可愛らしく、帰ってきた恭弥にくすっと笑われてしまう。洋子は自分が笑われた事には気が付かず、兄の笑みを見て微笑んだ。


「お母さんは?」

「今日は早番だって。さっきご飯を食べ終えて、今は出かける準備をしてると思う」

「そっか……。入れ違いだ」


 しゅんと落ち込んだ洋子の隣に座って、恭弥はまた軽く頭を撫でてくれた。


「ほら。洋子も遅刻しないように早く食べちゃいな」

「うん。いただきます」

「召し上がれ」


 洋子はご飯を食べている途中、また恭弥に今日の夢のことを話した。


「今日は赤い髪の女の子だった」

「へえ…不思議だね。連日そんな夢を見るなんて……」

「あ、緑の夢の子は男の子だったの。似てるだけかもしれないけど……。でも、同じクラスの男の子だったんだよ」


 それを聞いた恭弥は、一瞬眉を寄せると、静かな声でこう聞いた。


「その子、本宮って言う名前じゃない?」

「え? ううん。横井彰くんって言うの。本宮くんは別にいるよ。本宮幸司くん。私の後ろの席で、新入生代表の挨拶をしたの。頭良いんだね。きっと!」

「そ、そっか……。へえ。本宮、いるんだ」


 恭弥はそう呟くと、少しだけ悲しげに目を伏せる。


「お兄ちゃんも会ったことあるんじゃない? お父さんのお葬式の日、幸司くんもいたんだよ」

「え?」


 恭弥は酷く驚いた表情を浮かべ、視線をウロウロとさ迷わせる。そして、優香がダイニングに入ってくるのと同時に、大きな声を出した。


「母さんっ!」

「わぁっ! お、お兄ちゃん? どうしたの?」


 隣に座っている洋子もだが、当然、今来たばかりの優香も驚いた表情を浮かべている。それでも、恭弥の言葉は止まらなかった。


「うちの父さんって、本宮家と何か繋がりがあるの!?」

「え? どうしたのよ。急に」


 優香は頬に手を当て、困ったような表情を浮かべる。洋子をチラッと見てみると、洋子も困惑したような、不安げな表情を浮かべていた。


「洋子が驚いてるわよ。恭弥」

「あ、ごめん……。でも……」


 恭弥も洋子の顔を見つめ、微妙な表情をする。洋子が不安げな表情を浮かべたまま首を傾げると、優香はくすっと困ったように笑う。


 そして、優しい手が洋子の頭を撫でた。


「そっか。洋子のクラスには、幸司さんもいるのね」

「う、うん……」


 洋子が頷くと、優香はまたくすくすと、今度は優しい表情で笑った。


「お父さんも高校生の時の同級生だったのよ。幸司さんのお父さん……本宮家現当主様とね」

「幸司くんはお父さん同士が、お仕事で関係があったって言ってたよ」


 洋子はそう言って首を傾げた。恭弥が説明を求める視線を優香に送ると、優香は困った顔で、チラリと壁にかかっている時計を見る。


「帰ってきてからでもいいかしら」

「う、うん……」


 恭弥も時計をチラッと見て、頷く。そろそろ家を出ないと、母が遅刻してしまう時刻だった。


「お兄ちゃん、さっきからどうしたの?」

「ふふ。恭弥は洋子の事が大好きなのよ」


 洋子は不思議そうに首を傾げながら、「私もお兄ちゃんが好きだよ」と言う。洋子には、恭弥の心配が理解できないのだった。


 本宮家と言えば、日本一の金持ちで、由緒正しき家柄。そして、本宮家の敷地内は治外法権とも言われているし、良い噂ばかりでは無い。


 一般家庭の人間が本宮家と関わって、権力争いに巻き込まれた。だとか、家庭のいざこざに巻き込まれた。だとか、そういう噂も聞く。


 恭弥は、洋子の身の安全が一番心配だったのだが、洋子にはそれが理解できていないのだ。


「洋子は、本宮家の子と仲がいいの?」

「え? うーんと……仲良くなれたら嬉しいけど、わかんない。幸司くんは、私に罪悪感があるみたいだし」

「あら、その話も聞いたのね? 洋子は彼を許してあげるの?」


 優香がそう言うと、恭弥は「どういう事だ」と憤る。それとは対照的に、洋子は悲しげに俯いてしまった。


「私、怒ってなんてないよ。一回も」

「あなたはそうよね」

「それに、私は幸司くんのこと、優しい人だと思う」

「あら、どうして?」

「だって……黙ってたら絶対に私、気づかなかったのに。ちゃんと正直に言って、謝ってくれたよ?」


 洋子はそう言うと、幸司の表情を思い浮かべた。昨日、入学式の前に話した時、幸司は悲しそうな表情をしていた。やはり涙が出ることはなかったのだが、彼の茶色い瞳が、一瞬だけ黄色く輝くように揺れたのを、洋子は確かに見たのだ。


「洋子は優しいいい子ね」


 母に撫でられ、洋子は気持ちよさそうに目を細めた。


「じゃあ私、そろそろ行かなきゃ。洋子は今日のお昼、どうするの?」

「うーん……圭ちゃん誘ってみようかな」

「そう。なら、お小遣い」


 優香は封筒をテーブルの上に置くと、そのままダイニングを出ていってしまう。


「洋子。その幸司くんに何かされたのかい?」


 恭弥は先程からずっと、幸司の話が気になっていた。眉を下げ、心配そうに洋子を見つめている。


 洋子は味噌汁の入ったお椀を空にすると、お皿をまとめて立ち上がる。


「お葬式の時に、慰めてもらったの」


 洋子はそう言うと、ダイニングの奥に置いてある仏壇を見つめる。リビングと繋がっている場所に置いてあるのだが、ギリギリダイニング寄りに置いてあるのが、達也の仏壇だった。


 慰められたと聞いて、それの何に謝る要素があるのか、恭弥は理解が出来なかった。首を傾げて洋子を訝る。


「本宮家の人は、感情的になっちゃダメなんでしょ? 幸司くんは、お父さんの事を慕っていてくれたんだって。でも、悲しいのに泣くことが出来なくて、辛くて……。私ってば、あの日大泣きだったから。幸司くん、私が嫌だったんだって」

「ああ。確かに、本宮家の人達はいつも本心を隠しているように見えるな」

「昨日の幸司くんも、悲しそうにしてたんだ」


 洋子は眉を下げて、そう言った。食べ終えたお皿を濯ぎながら、洋子は話を続ける。その隣に恭弥も立って、濯ぎ終わったお皿を拭きながら、洋子の話を聞く。


「いつか、幸司くんも素直な感情表現をできるようになったらいいよね」

「洋子は幸司くんとお友達になれたんだね」

「なれたかな? そうだといいなあ」


 洋子はそう言って、優しい表情を浮かべている。母の慈しむような表情に似ている洋子を見ていると、恭弥は置いていかれたような気分になって、少し寂しかった。


「洋子。本宮家には気を付けるんだよ……」


 小さな声で呟いた恭弥の言葉は、水音にかき消されて、洋子の耳には届かなかった。

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