零番館での朝

 洋子がまだ夢を見ている頃、本宮家では朝早くから騒がしかった。というよりは忙しない。


 本宮家の広大な敷地には、本家と本家筋の親族。一部の分家が存在しており、当主邸の傍には大きな山がある。山には色々な動物の姿が見えるし、邸内では使用人達がパタパタと仕事のために行き交う姿がある。


 そのため、本宮幸司の住む当主邸、<零番館ぜろばんかん>は今日も騒がしいのだ。


「んー……」


 幸司は目を覚ますと大きく伸びをする。いつも大体同じ時間に自然と起きられるので、幸司の部屋には目覚まし時計は置いていない。そもそも、寝坊をしてしまったとしても使用人が必ず起こしてくれるので、この家では関係の無いことだった。


 幸司が起きてまずすることは着替え。寝ている最中に乱れたであろう寝具用の浴衣を脱ぐと、地味な色の着物へと着替える。本宮家は代々伝わる和の家で、幸司は外出する以外では殆どいつも和服を着ている。本宮家の敷地内を歩く時も着物だった。


「ふぅ……」


 幸司は着替えを終え、ゆったりとした足取りで座椅子に座り、使用人が呼びに来るまでの間は本を読む。これが幸司の日課である。


 廊下は現在使用人達が整えている最中なので、それが終わるまでは部屋を出ないで待っているのがしきたりだった。


「おはようございます。幸司様」


 本を読んで少し経つと、幸司に挨拶をする声が聞こえた。各部屋は襖なので、ノックはされずに声だけがかけられる。


「今行く」


 短く返事をすると、幸司は本に栞を挟んでいつもの丸机に置いた。襖を開けると、いつも通り幸司の部屋の前で座礼をして待っている幸司付きの使用人、田中たなかともがそこにいた。


「おはよう。田中。膝を伸ばして構わないよ」

「失礼致します」


 田中智は幸司よりも大人っぽい顔立ちをしているし背も高い。が、同じ高校1年生で、幸司の隣の2組の生徒である。智の両親も祖父母も本宮家に仕えており、それが智の代にも受け継がれ、この歳で幸司の側近にまで登りつめた非常に優秀な男であった。


「今日の俺の予定はどうなってる?」


 幸司がまず智と確認をするのがその日の予定。これも日課だ。本当は細かく予定が組まれていることが窮屈で仕方がないのだが、仕方のないことだととっくに諦めはついている。


 そう思っていたのだが……。


「本日、学校は午前授業です。その後の予定は、幸司様自身に決めていただくようにと指示を頂いております。ただし、門限は17時。帰った後はこちらの紙に本日の行いを書いて提出するように。との事です」

「何それ……。自由にしていいの?」

「はい。もちろん行動にも制限がありますので……。私のスマートフォンに連絡は忘れないでくださいね」


 もし忘れたら……。と付け加えられ、幸司は必死に首を縦に降った。自分の父親とはいえ、当主様の言いつけを破るという行為は本宮家では御法度なのだ。


「驚いたな。父さんはともかく、他の本宮がそんなことを許すだなんて、思わなかった」

「幸司様が公立の学校に通う理由はなんです?」


 智に軽く視線を流され、幸司は考える。


「一般市民の暮らしを知るための社会勉強」


 と言うのが表向きの理由。本当の理由は、大嫌いな本宮家の枠から少しでも外れたかったから。幸司は不自由な本宮家での暮らしを好まない。特に、10年ほど前に起きたから、幸司は本宮の事を死ぬほど嫌っている。


 そして、幸司は父親にすらその本心を隠している。『本宮が嫌いだ』という言葉は、今までにたった1人にしか伝えた事はなかった。その相手がまさか当主に密告している。だなんて、幸司は全く考えてもいないのだった。


。。。


 幸司は朝餉を終え、制服に着替えてから部屋を出る。それとは入れ違いに、掃除を担当する女中が幸司の部屋に入っていくのだ。部屋に入れる女中は優秀な者だけで、部屋の物をほとんど動かさずに綺麗に掃除をしてしまう。幸司は部屋に戻った時にいつも感心しているくらいだ。


「田中。外へ出たら学友として頼むぞ」

「かしこまりました」


 零番館から本宮家の門までは車での移動、その後は歩いて行くことにしている。学校まで車で行ってしまうと騒ぎになるからだ。


 実は自転車というものを覚えたかったのだが、当然のように拒否された。予想通りではあったので、幸司は何も言わずに護衛の言う通りに登下校をしている。


「田中。2組はどんなところなの?」

「面白いクラスだぞ。とにかく元気なんだ」


 智も幸司に言われた通り、門の外を出た途端に幸司への話し方が砕けたものになる。流石は優秀な幸司の側近である。切り替えが早かった。


「幸司のクラスはどうなんだ?」

「先生が面白いよ」


 ニコッと愛想笑いでそう言った幸司に、智の肩がピクリと動いた。


「何動揺してるのさ。いつか気づかれる事くらい、分かってたはずでしょ?」


 担任の松下香苗。彼女は実は幸司を監視している、本宮とも縁が深い人物だった。


 まさか昨日の今日で本人に気づかれることになるとは、智も予想していなかったので驚いてしまう。


「幸司には敵わないな」

「クラス編成もいじってる訳?」

「そこまでは……。ご当主様の考えにいちいち質問する訳にもいかないし。幸司も分かるだろう?」

「それもそうか」


 恐らく自分の考えは合っている。と、幸司は妙に確信があった。あれだけのが集まったクラスだ。たまたまとは思えない。


 しかし、それだと智が別のクラスなのが気になった。今日、智から自由を伝えられたので、予想では使用人から離れた学校生活をおくれ。ということなのだろうか。


 しかし、この考えは憶測でしかない。智には何も伝えず、納得したフリをして学校までの道のりを静かに歩いた。


「おはよう。本宮くん」


 学校の付近に差し掛かると、クラス内外の女子生徒達が幸司に挨拶をしてくれた。


「おはよう」


 幸司が爽やかに笑って返すと、女生徒達は黄色い悲鳴を上げて嬉しそうに去っていく。


「わかりやすくて面白いね」


 と、女生徒に向けるのと同じ笑顔で智にそう言った。智は呆れたようなため息混じりの声で幸司に返す。


「本音は違うだろう」

「めんどくさいなあ」


 本音を言う時だって表情が変わらない。笑顔で悪態を着く所が怖い。と智は思った。それと同時に、そういう所は当主らにものすごく似ていると思う。


 智は、自分の主は本宮を嫌っていても、結局は本宮なんだよな。と悟りを開いた目で遠くを見つめながら、幸司の隣を歩くのだった。

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