甘く優しい朝

 ダイニングのドアを開くと、母である水森優香みずもりゆうかが洋子の予想通り、フレンチトーストをテーブルに置いているところだった。他には、昨日の余ったクリームシチューと、レタスに乗った目玉焼きが置いてある。そのお皿には可愛らしく飾り切りされているトマトまで乗っかっていた。


「おはよう。洋子」


 優しく微笑んで挨拶をしてくれた優香に、洋子もパァッと明るい顔をして挨拶を返す。


 優香は<美人>と言われる類の優れた容姿をしていて、もう40代になるすぐ手前だと言うのに、シミ一つない艶やかな肌を持っている。洋子と並んでも姉妹だ。と言い張ったなら、他人ならばきっと騙されてくれることだろう。


 そんな美しい母親は、心も美しい。洋子はそう思っている。


 父が亡くなってからは彼女が働きに出ているのだが、家の事だって手を抜かずにやってくれる。


 洋子が代わりに家事を行っている時でも、暇になれば休憩をするでもなく、一緒にしましょう。と言って手伝ってくれるし、忙しい時だって、時間を作って話を聞いてくれる。休みの日には、ショッピングや映画にも連れていってくれる。


 洋子は、そんな優しくて綺麗な母が大好きなのである。


「新しい制服、似合っているわね」


 そう言ってくれたので、洋子の顔が嬉しそうに緩んだ。そして、クルリと一回転して見せると、そのまま朝食の用意がしてある席へと着く。


「ありがとう」


 今日は4月8日。洋子の高校の入学式である。洋子は、今日から高校生なのだ。洋子が通うことになった高校は、<都立桜川高等学校とりつさくらがわこうとうがっこう>と言う名前の学校で、自宅からも歩ける距離にある公立の高校だった。


「帰ったら恭弥きょうやにも見せてあげるといいわ。見たかったでしょうに、『授業があるから』って、家を出る前に落ち込んでいたのよ」


 母の言った恭弥とは、洋子の4つ歳の離れた兄である。現在は大学2年生。日本で1番有名な私立である、<来明学園らいめいがくえん>に通っている。


 日本一のお金持ちである<本宮家もとみやけ>と言う大きな一族が経営している学園のひとつで、小等部から大学部まで、ずっとエスカレーター式で上がれる大規模の学園なのだ。


 兄はそこの特待生として、高校から入学していた。特待生だと奨励金が出るから選んだのだと、洋子が小さい頃に兄が話してくれたのを覚えている。その時はどういう意味か分からなかったのだが、今なら理解できる。


 洋子も学力さえあれば、兄と同じように奨励金の貰える高校に入学したかった。そうすれば、いくらか家計も楽になるというものだった。


 しかし、洋子は兄と比べて勉強は苦手なのだ。こればかりは諦めて、洋子は家の近くで平均的な偏差値を持つ、桜川高校を選んだのだった。


「お兄ちゃん、もういないんだ。挨拶したかったなあ」


 洋子は目に見えて肩を落とし、眉を下げた。洋子と恭弥は、昔から近所でもよく噂の的になる仲の良い兄妹だった。洋子は当然、兄の事が大好きである。そしてまた、家を出る前に落ち込んでいたという兄も、洋子の事が大好きなのだろう。


 優香は仲良しな我が子達を微笑ましく思いながら、コーヒーを傾けた。


 恭弥の特徴と言えば、頭がいいのは前述の通り。洋子と同じで母親似。つまり、美人の母の遺伝を受け継いでいて、容姿にも優れている。ガリ勉なのかと思いきや、中学時代から陸上をやっていて運動も得意だ。足がスラリと長くて、筋肉のつきも良い。スタイルがいいので、高校時代にモデルにスカウトされたことだってある。


 洋子にとっては、かっこいい自慢の兄だ。


 そして、洋子が何よりも好きなのは優しいところだった。兄はいつだって洋子を甘やかしてくれる。そんな、洋子にとって完璧な兄を嫌うなんてことは、今までの人生の中で微塵も起こらなかったことである。恐らく今後もそうだろう。洋子は自分でそう思った。


「そう言えばね。今日、夢を見たの」

「夢?」

「うん。お父さんのお葬式の夢だった……」


 トーストにかぶりつきながら、洋子は眉を下げてそう言った。チラリと優香を見れば、優香も少しだけ表情に陰りを見せているのがわかる。


「あの時にも話したのかな? 男の子に泣いてるところを慰めてもらったって話……。思い出して、日記を読んでたの。名前もちゃんと書いてあったよ」

「<こうじ>さんの事ね」


 やっぱり話したことがあったようだ。洋子は<こうじ>と聞いて少しだけ嬉しくなった。きっと、彼がいなかったら洋子は暗い性格になっていたかもしれない。それくらい、あの日のことはショックだった。それに……。


 あの葬式の日からだった。洋子が明るく元気な性格になったのは。それ以前は兄の傍を離れない、人見知りですぐに泣いてしまうような子どもだったのに。そんな洋子が、<こうじ>に出会ったあの日から一転してよく笑う、人懐っこい少女になってしまった。


「うん! 元気かな?」

「……元気だといいわね」


 優香の反応は何故か微妙。しかし、洋子は浮かれていたせいで優香の様子には全く気づくこともなく、ニコニコとトーストの最後のひと口を口の中に放り込んだ。そして次におかずへとその手を伸ばす。


 そんな様子を、優香は黙ってただ、優しく見守っているのだった。

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