第二話「物語は始まった!」
三年が経ちました。
年の始まりでも終わりでも、何の記念日でも祝日でもない今日が、一体何時を区切りに始まり、三年目のめでたい今日になったのかと言うと、流れ星がごみ箱に駆け込んだあの日から。
誕生日じゃない日おめでとう。そして、誰かのお誕生日おめでとう。
変哲の無い今日だって、世界に何億といる誰かの、一人くらいにとっては、特別な日だったりするのです。例えば、その日を境に人生が始まったとか、物語が始まったとか。
草臥れた煉瓦造りの田舎街。高々三年程度では、新風の吹き込む隙間もない位、時間の端に吹き溜まった古臭い街。
そんな街の煤けた煉瓦敷の小道を、一人の少年が駆けていきます。年のころは十五、六。ふわふわのこげ茶の髪を弾ませて、褐色の手足を生き生きと伸ばして、軽快な足取りで、少し下り坂の道をぽんぽんと。古びた街と対照的に、初々しさを零れんばかりに香らせて、きょろきょろと好奇心旺盛に辺りを見渡し、あっちこっちと細かなものに視線を盗られながら。
その挙動のたどたどしさは、少年とさえ呼べない子供の様で、それが彼を見た目以上に幼く見せます。
彼はやがて、通りに面した小さな食料品店にたどり着くと、相変わらずスキップする様な足取りでその中に入っていきます。お買い上げは、チョコレートクリームの入ったデニッシュに、ピーナッツチョコレートとミルクチョコレート。
少年がそれをレジまで持って行くと、お店のおばさんは、彼ににっこりと笑って言いました。
「あらら、レイト君。またチョコレートばっかりね。しかもコアントロ印のばっかり」
レイトと呼ばれた少年は、彼女ににっこりと笑顔を返し、楽しそうに話し始めます。
「うん! やっぱり、チョコレートはコアントロ社のが一番美味しいからね! 大通りのお菓子屋さんは、オドヴィー印のしか仕入れてくれないんだよ。老舗だから間違いないんだって。でも、俺はコアントロのチョコレートの方が美味しいと思うんだ。だから、おばさんの所が置いてくれて嬉しいの」
おばさんは、微笑ましい気持ちでレイトのチョコレート評に耳を傾けます。この無類のチョコレート好きの少年が、この店の常連になったのは数カ月前。丁度彼より少し年上の、すっかりスレてしまった息子が居るおばさんは、この無邪気な少年が可愛くて仕方がありません。
「そうねえ。あっちのお菓子屋さんの店主は頑固なお爺さんだし、なかなか難しいでしょうね。コアントロ社は新興のお菓子メーカーだから。でも、売り上げもぐんぐん伸びてて、馬鹿にできないわ。それに、レイト君の言う通り、本当に美味しいものね。量産品なのに、油で誤魔化している感じが全然しないわ」
「そうそう! そうなの! 流石、おばさん、分かってる!」
レイトはおばさんの言葉に、まるで重要な秘密を共有したかのように嬉しそうに笑います。それがまた、一層おばさんの心を温かくさせました。
それに、単に素直な性格が可愛いというだけでなく、この少年ときたら、見た目まですっかり可愛いのです。ふわふわの髪にまろい輪郭、長いまつ毛に飾られた、キラキラと光る大きな瞳はルビーの様な深紅。髪の色はこげ茶色、肌の色は艶やかな褐色で、色彩まで甘いチョコレート色。
そんな、ちょっとハッとする様な中性的な美少年が、その綺麗な顔で惜しげもなく笑ってくれるものですから、心を奪われずにいろと言う方が難しいものです。
おばさんはレイトに、袋に詰めたチョコレートを渡しながら、言いました。
「けど、あんまりお菓子ばっかり食べてても駄目よ。きちんとバランスよく食べないと、丈夫な体が作れないわ」
「……うん!」
レイトは袋を受け取ると、しっかりと抱きかかえます。
「そう言えば、レイト君ってあのお家に越してきて、もう暫く経つのよね」
「うん、えーっと、三か月ってことにしたのかな?」
「でも、レイト君の親御さんって見たことないわ。大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫! 人と話したりできないだけで、ちゃんと保護者やってるから!」
「本当? なら良いんだけど。でも、こんなに人懐っこいレイト君の親御さんなのに、人見知りなのね」
「うん、そういう感じ! じゃあ、俺そろそろ帰るね! ばいばい!」
「ええ、またねー」
レイトは、大きく手を振って店を出ました。そして、店の扉を閉めると、レイトは小さく呟きました。
「いろんな物を食べなきゃ生きてけないなんて、人間って大変だなー」
そして袋を抱え直して、また軽快に歩き出し、そのままレイトは町はずれに向かって歩いていきます。
レイトの向かう先には、没個性的な煉瓦の街並みの端に、引っ掛かるように建つ古ぼけた一軒家。白煉瓦の壁、緑の三角屋根に赤い窓枠と扉。他の家々と比べて彩も多いデザインで、バルコニー付きの二階建て。一階には、大きなガラス張りのテラスもついていて、商業用にも利用できそうな。家というより、ちょっとしたお屋敷という感じの大きさです。
けれど、そんな魅力的な文句ばかりを並べると、誤解を招くでしょう。
ですから、白煉瓦の壁は黒ずんでいて、赤く塗られた窓枠や扉の木材はささくれ立っていることや、テラスのガラスは曇っていてヒビまで入っていること、バルコニーの手すりが朽ち落ちていることや、緑の屋根瓦は一部が零れてみすぼらしいことまで、きちんと描写しておかないとフェアではありません。
そんな廃墟と紙一重の御屋敷に、レイトは入っていきます。
「ただいまー!」
そんな挨拶と共にドアを潜ることから分かる様に、そこがレイトの家でした。
見た目は後回しに、家の中の住み心地を優先しているのかというと、そんなことは全くなく、家の中まで正真正銘の廃墟のままです。
玄関だけでも酷い有り様。ところどころ抜け落ちたフローリング、捲れあがって埃を被った絨毯、傾いて錆び付いて今にも落ちてきそうなシャンデリア。二つに分かれた豪華な二階への階段も、ところどころ踏板が割れ、手すりは殆ど役目を果たさず、壁紙は剥がれ落ちています。
人が三か月も済んでいるとは思えない、そして、これから三日住むことすらままならなそうなその有り様に軽く目を遣って、しかし何一つ取り合うことも無く、レイトはそのまま玄関に対面する正面の扉を潜りました。扉を開ける必要はありません、観音開きの戸板は、しっかり外れていますから。
そこは居間でした。広々とした空間に大きな暖炉があり、大きな窓からの採光も良く、家族が集まって団らんするのにちょうど良い素敵な空間になることでしょう。修理をしたり、掃除をしたり、電気の契約をしたりと、様々な問題点を解決する労力をきちんと払った上で、前住民が捨てていったのであろう、殆どゴミと同義のソファセットやダイニングセットを、何とか片づけたのなら、という注釈付きではありますが。
しかし、この家の現住民、つまりレイトはそれらを欠片も問題視せず、だから当然どうにかしようという気も無いようです。もちろん家がこの有様のままということは、レイトだけでなく、レイトの保護者もこの現状を何とかする気が無いという事なのですが。
レイトは、まるで無頓着に足の折れたソファに腰を掛け、チョコレート一色の買い物の開封を始めます。早速チョコレートデニッシュを頬張り始めた彼に、ふと声をかけるものがありました。
「あ、レイトお帰りー。お買い物はすっかり慣れた感じ?」
「ココア! お出かけしてたの?」
そう言ってレイトが見遣る先は居間の窓、塞ぎ板と割れたガラスの隙間から、今まさに室内に滑り込んできた薄茶色の長毛の猫でした。
その猫は、くるんと尻尾を揺らして言いました。
「うん。街のことを知っておいて悪いことは無いから」
そう、人の女の子のような声で、流暢な人間の言葉を口にしたのです。
きらきらと星のように輝く金色の目を瞬いて、ココアと呼ばれた不思議な猫はレイトに歩み寄り、その膝の上に乗りました。
「チョコレートはちゃんと食べてる? 早く一人前に大きくならないと。でも、もう充分人間の成体くらいにはなったから、十分なのかな?」
「うん、食べてるよ。コアントロ社のが好き!」
「ふうん、好みがあるのね。チョコレートなら、なんだって良いはずだけど」
「でもね、お店のおばさんが言ってたけど、まだ俺、子供みたいよ。親が居ないこと心配された」
「えー、もう十五歳くらいにはなったでしょ? 生物としては独り立ちしていい頃だと思うけど……。でも確かに色んな家を観察してみたけど、今のレイトぐらいの年頃の子で、一人で暮らしている子は見なかったなあ。うーん、じゃあ、もっとたくさんチョコレートを食べて、一人で暮らしてても十分なくらい大きくならなきゃかしら」
「そうだね、初めの小さい内は苦労したけど、もう充分人間と同じくらい大きくなったから、チョコレートを手に入れるのも簡単になったし。初めのうちは大変だったなー」
「大変だったのはあたしの方! ごみ箱をあさって、チョコレートを集めて来たのはあたし! しかも、おせっかいな人に見つかると『猫にチョコレートは駄目なのよー』って、折角見つけたチョコレートを取り上げられちゃうし!」
「もっと別の生き物になればよかったのに。俺だって大変だったんだよ。初めは全然動けないから、烏に攫われそうになったり、雨で流されそうになったり」
「仕方ないでしょ、レイトに『命』をあげて、残った力で変身できるものなんて限られてたんだから。でも、本当にお家が見つかって良かったー」
「でもあれか。人間はすぐに大きくならないから、今からチョコレートをいっぱい食べて大きくなったら、俺が人間じゃないってバレちゃうか」
そう言ってレイトは、チョコレートデニッシュの最後の欠片を飲み込みました。よく見れば、デニッシュを平らげた少年の髪の毛と爪の先が、ほんの僅かだけ、食べる前より伸びています。それは彼がこの一瞬で、ほんの少し成長した印でした。つまり、デニッシュの生地やクリームに練り込まれた、二、三十グラムのチョコレートの分だけ。
三年前レイトは、ココアに連れられてこの町に来ました。けれど、レイトがここに引っ越してきたのは、三か月前ということになっています。この時間のずれ、二年と少しの間、レイトがどうしていたのかというと、人の姿をしていなかったのです。
その時レイトは、『まだ』チョコレートでした。つまり、三年前、ごみ箱の中でお星さまと出会った怪盗モチーフのチョコレートこそ、レイトなのでした。
厳密に言うなら、レイトは『今でも』チョコレートです。生きて動いて、人の形を取っているだけで。つまりレイトは『今でも』チョコレートですが、あの時『ただの』チョコレートではなくなったのです。ゴミ箱に飛び込んできたお星さまから、『命』を与えられて。
そして、どういう仕組みか、レイトに命を与えたお星さまは、その後猫の姿になって、ココアになったのでした。
誰も知らない超常現象から三年、その間レイトとココアはゴミ箱なんかを漁り、必死にチョコレートを集めました。
命を持ったチョコレートのレイトは、他のチョコレートを食べて吸収することで、そのチョコレートの分大きくなることができました。そうやって三年かけて、十五歳程度の人間の男の子を象るのに十分なチョコレートを集めたのです。
かくして、やっとレイトが人の形を取ったのが三か月前なのでした。
ココアはため息を吐きました。
「人間って、独り立ちが遅いのね。すっかり大丈夫だと思って、人前に出ちゃったけど、もっと大きくなるまで隠れていた方が良かったね」
「んー、俺は、お店でチョコレートを買えるようになって満足だけど。コアントロ社のチョコレート、美味しいし」
「でも、怪しまれて、家に乗り込まれて、人間じゃないってバレてみなよ。きっと、怪物だって退治されちゃうよ」
「えー、それは困るなー」
「正体がバレなくたって、人間は子供に過保護だから、子供だけで住んでるってなったら、大人の居るところに連れていかれちゃう」
「あ、それで良いんじゃない? それなら、保護者が手に入って、周りから心配されなくなる!」
「駄目だよ! レイトはチョコレートを食べなきゃ大きくなれないんだよ。人間の振りをするなら、人間の子が成長する分だけ、チョコレートを食べなきゃならないの。でも、人間の子供として、人間の大人に育てられたら、そんなにチョコレートを食べさせてもらえない。そしたら、その内人間じゃないってバレて……」
「退治されちゃうかー」
「それにね、あたしはレイトにタダで命を与えた訳じゃないの。やって欲しいことがあって、その姿になってもらったんだよ。そのためには、レイトは自由に行動できるようでいてもらわないと」
「そう言えば、言ってたね」
ココアの言葉に、レイトは思い出します。
ゴミ箱の中で星、つまりココアと出会ったレイトは、『目を覚ました』ような感覚を得ました。それは、レイトという人格が、その日その時その瞬間に誕生したからでした。そしてココアは、レイトにこう言いいました。
「あなたに、して欲しいことがあるの。だから、あなたに命をあげたの。とりあえず着いて来て、えーっと……話をするには名前が居るね。チョコレートのレートを取って、レイトでいいか。着いて来て、レイト」
そうして命を持ったレイトは、そのままチョコレートとして捨てられる訳にもいかないので、ココアに言われるがまま、三年間を過ごしてきました。
けれど、チョコレート集めに、ココアから色々『人間』の振りをして生きる知識を学ぶというタスクもあり、三年間はあまりに怒涛で、結局今日に至るまで、その質問はうやむやになっていました。
満を持してレイトは聞きます。
「俺にして欲しいことって、なんなの?」
ココアは、星のようにきらめく金色の瞳でレイトを見上げて言いました。
「怪盗になること。盗んで欲しいものがあるのよ、世界中から」
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