二度目

 店から出た私は今、力なく電車に揺られている。姿勢を正す力も残っておらず、電車の揺れに合わせて私も大きく揺れる。まるで電線に引っかかった風船の様だ。そのくらい私は疲れていた。

 昨日から今日にかけてあまりにも色々な事があり過ぎた。男の霊の件も解らずじまいだし、何よりも美琴の様子がおかしい事が気がかりだった。特にあの『あたし、絶対に捕まる』と言っていたのは私をさらに混乱させた。今日の夜中の件と言い、あの男との会話と言い、美琴に一体何が起こっているの? 正直男の霊より今は美琴の事の方が気がかりだった。

 マンションに着くと、時刻は午後6時近くになっていた。昨日の事もあるし、本来なら美琴が家にいてくれたら安心するのだが、ここ最近の美琴の不穏な言動のせいで、家に居て欲しい様な居てほしくない様な複雑な感情が私の心を支配していた。

「ただいまー、美琴居る?」

 玄関ドアを開けながら呼びかける。しかし、玄関には美琴の靴は無かった。まだ帰って来ていない。一体どこに行ったのだろう。

 すると、何の前触れもなくまたロープが軋む音が聞こえて来た。


 ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……。


 まただ、またこの音だ、しかもこの音、鳴っている。

 私は三和土たたきから顔を上げた。すると、真っすぐに伸びる廊下の突き当りにある、リビングに続くドアのりガラス越しに、リビングに差し込む夕日に照らされた影が見えた。その影は人間の形をしており、ゆっくりと小さく左右に揺れていた。

 私は叫び出しそうになるのを必死に堪える。逃げ出したい。怖い。でも、私はそのまま靴を脱ぎ、男が揺れているリビングに向けてゆっくりと歩を進めた。

 なぜか私は、このままリビングに行けばこの男の霊について何かが分かる様な気がしていた。なぜこのマンションに現れたのか、なぜ美琴にはこの男の霊は見えていないのか、それと……この男は一体何者なのかが。

 扉の前に着いた、私はドアノブに手をかける。その手は真夏なのに冷え切っていた。摺りガラスの向こうでは今も男の影が揺れている。

 私は短く息を吐いた直後、一気にドアを開け、リビングに踏み込んだ。

 だが、リビングには誰もいなかった。眼の前には、差し込む夕日に照らされたオレンジ色のリビングがただ広がっているだけだった。

「はあっ、何なの一体」

 心臓はまだ激しく拍動している。私は立ったまま膝に手をつき、呼吸を整えようと努めた。

 もう疲れた。とにかく横になりたい。

 私はリビングのソファに荷物を放り投げる様にして置き、そのまま自室に向かっ

た。自室の扉を開ける。


すると、なぜか目の前には二本の脚があった。


「……え?」

 その脚はゆっくりと左右に揺れている。なんで? 全く音は聞こえなかった。だから私はあまり警戒する事なく扉を開けたの。

 そして、私はそのまま視線をゆっくり上へと移動させた。太い脚、醜く前へせり出した腹、べたついた長髪で見えない顔。

 私と男の距離は20センチもなかった。

 その時、べたついた髪の間から光る2つの目が見えた。その目は真っ直ぐに私を捕らえていた。そして、男はこの世の物とは思えない甲高い不吉な声で話し始めた。


「あ、ああ、ああ、あ、あ、やっと、やっと近くで見れ……た。や、やっぱり可愛い、な、なああ。あ、写真で見るより、写真に撮るより、やっぱり実物が良い……。そうだ、妹さん、いる?」


 なんで、なんで妹の事を知ってるの?


「あ、杏奈の妹に、ね、ちょっと、話し、が、あるんだ。こ、こ、こんな事されたから」


 そういうと男は下を向いていた顔を上げ、真っすぐ前を向いた。男を見上げる格好になっていた私の位置からは男の首元が良く見えた。その首元には縄が食い込んでおり、その周辺にはひっかき傷が無数についている。私はその傷を刑事ドラマで以前見た事があった。


 ——吉川線?


「ね、わ、わ、分かったでしょ? 僕は君の妹に——」

「う、うるさい! 黙れ‼」

 私は急いでリビングに戻ると荷物をひっつかみ、全速力で家を飛び出した。

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