疑問
その夜、私はふと夜中に目を覚ました。慣れないソファで寝ているからだろうか、背中が痛い。夜中に目を覚ますなんて滅多にない事だった。
真っ暗な天井に一筋の光の線が斜めに走っている。その光は美琴の部屋の方から伸びて来ていた。
——まだ寝てないのか。
結構遅い時間だと思うけれど。手首のスマートウォッチを確認すると夜中の3時を回っていた。どうしたのかな、ここまで夜更かしするイメージは美琴にはない。でもまあ、そんな日もあるか。
そう思い、また寝ようとしたその時だった。美琴の部屋から小さな話し声が聞こえて来た。
どうやら美琴が何か話している様だ。小さくてとても聞き取りにくい声。独り言だろうか? 少しの後ろめたさを感じながらも私は精一杯聞き耳を立てる。
「……ん?」
やっとの事で聞き取れた言葉は、普段とても穏やかな美琴の口からは聞いた事が無い激しいものだった。
「なんで、なんでそこまでしてお姉ちゃんの……クソがっ!」
小さいながらも大きく激しい怒気を含んだ声。今まで一緒に生きて来て一度も聞いた事の無い美琴の声。もちろん、姉妹だからと言って全ての事を共有しているわけではないし、お互いの事で知らない事はそれなりにある。だが、ここまで普段と違う様子の美琴は初めてだった。
起きている事を気取られない様に、私は息をひそめ懸命に寝たふりに徹した。
そうしている内に、私はまた深い眠りに落ちて行った。
次の日、朝起きると美琴はもう仕事に行った後だった。
ダイニングテーブルにはラップのかかった朝食と共に、一枚の置き手紙があった。そこにはこう書いてあった
〈朝ごはん、作ったから食べて。あたしは仕事に行くね。お姉ちゃんは不動産に行くんでしょ。昨日の事もあるし、あまり無理しないでね〉
妹は私と違い、料理が物凄く上手い。夕食だけでなく、こうして朝食も作ってくれることが多いのだが、美琴の料理にハズレは無い。毎回タダ飯でいいのかと思ってしまうくらいだ。
今日の朝食は魚を中心とした和食だった。
朝食を平らげた私は食器を洗い、身支度を済ませ、不動産屋に向けて家を出た。
不動産屋は私の家の最寄り駅から二駅離れたところにある。私は通勤ラッシュ過ぎのいつもより空いた電車に揺られながら、自分が住むマンションの事を考えていた。
正直、今更聞きに行っても大した収穫は得られないかもしれない。今のマンションに住み始めてからもうすぐ一年になるが、その間に怪奇現象の様な事が起こった事は無く、今回が初めてだった。美琴からもその様な話しは一度も聞いた事が無かった。
また、マンションを契約した時には担当者からはそのような告知も一切なかったし、私も一応、事故物件に該当する様な事案が起こった事は無いのかと聞いたが、そのような事は無いと言われていたのだ。
そう考えるとますます不動産屋に行くのが無駄足に思えて来る。だが、あの男は私が家にいる時に出てきたのだ。それ以外の場所では一度も遭遇した事は無い。その状況から、やはりマンションに何かあると考えるのが自然ではないだろうか。
その後、不動産屋の最寄り駅で電車を降りた私は、人込みと真夏の熱風の様な外気に揉まれながら改札まで歩いた。通勤ラッシュ時間外とはいえ、流石に大都会だから人が多い。流れる汗が直ぐに蒸発してしまいそうな程の熱気に、私の足取りは重くなる。
そして五分程歩くと、目的地の不動産屋が見えて来た。
実のある事が聞けるかどうかは分からない。けど、行かないよりはましだ。
「まあそうだよねぇ」
30分後、店内のクーラーで良く冷やされた体がまた熱されていくのを感じながら、私は不動産屋の前に立っていた。
結局、事故物件に該当する様な自殺、殺人等はこのマンションでは全く起こっていなかった。
何度も担当者に調べてもらったが、結果は同じ。驚く程クリーンな物件だった。
じゃあなんであの男の霊は私の前に現れたのだろう? んー、まだ納得出来ない。
自分でも調べて見るか……。私は近くのカフェに入り、仕事がてらインターネットで調べて見る事にした。
店内に入り、窓際のコンセントがある席を確保した私は、ノートPCを立ち上げ、早速ブラウザに検索キーワードを入力していく。
〈×××区××3丁目5-6 事件〉
何も出てこない。
〈×××コーポ 事件〉
何も出てこない。
んんー。やっぱり物件には何もないのかな。
その後もいくつかキーワードを変えて検索してみたが、何も出てこなかった。次に事故物件サイトも検索してみたが、そこにも私が住むマンションの名前は無かった。
どうやら私のマンションは完全にクリーンな物件らしい。私が住むマンションが事故物件である事を期待していた訳ではもちろんないのだが。まあ、物件には何もない事が分かっただけましか。これ以上私に出来る事は無さそうだった。
「——仕事しよ」
ワープロソフトを立ち上げた私は、途中になっていた原稿に再び向き合った。
どれ位経っただろうか。ふと顔を上げると、窓から見える空がオレンジ色に染まっていた。その空を見て、私は長い時間集中していた事を実感する。
スマートウォッチを見ると午後4時45分になっていた。3時間位は集中して作業していたみたいだ。
「けっこう進んだし、流石に退店するか」
私は帰るためにノートパソコンをカバンにしまおうとしたその時、背後から一組の男女が話しながら歩いて来た。その女の声を聴いた私は、思わずノートパソコンを手に持ったまま固まった。
「美琴?」
そう、その女の声は紛れもなく美琴の声だった。あれ? 仕事はどうしたんだろう。今はまだ5時になっていない。本来ならまだ仕事中のはずだ。早退でもしたのかな? それとお連れの男の人は彼氏? 聞いた事が無い声だから新しい人なのかな? まあ、姉妹だからって全てを共有している訳ではもちろんないから、私が美琴の彼氏を知らなくても何ら不思議ではない。けれど、今日の夜中の美琴の事もあってか、不必要に美琴の言動に対して違和感を抱いてしまう。
美琴と連れの男性は、私が座っている窓際の席の直ぐ左斜め後ろのテーブル席に座った。どうやら私がすぐ近くに座っている事には気付いていない様だ。
邪魔にならない様にそっと帰ろう。帰り支度を再開させた私は、聞こえて来た美琴と男の会話の内容に、血の気が引いて行くのを感じた。
「あんた、なんであんな重要なもの忘れて来てんのよ」
「い、いや、すまん。本当にごめん」
「すまんじゃないでしょ? 出てくる時持ってきてって言ったよね? 何? 何なの? 嫌がらせ? あたしの事想ってるんなら普通持ってくるよね。あれが見つかったらあたしはどんな目に合うと思ってんの?」
「………………」
「あたしが……あたしが、お姉ちゃんの事これからも守らなきゃいけないのに……あれが見つかったら……あたし、《絶対に捕まる》」
衝撃が私の体を串刺しにする。何? 捕まるって何? 美琴……あんた何言ってんの?
「いや、そんな事はさせない。俺が必ず——」
次の瞬間、初めて聞く美琴の大声が店内に響き渡った。
「うるさい! 何も出来ない癖して彼氏面してんじゃねえぞ! 何かあったら……お前のせいだからな!」
そう言って美琴は足早に去って行った。店の奥でドアベルが激しく鳴る。
美琴が座っていた席の方に顔を向けると、スーツ姿に眼鏡をかけた男が一人、項垂れて座っていた。その正面には、全く手が付けられていないラテが無造作に放置されていた 。
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