吊り下がる念

彩羅木蒼

遭遇

 カタカタというせわしないタイピング音が自室に響く。私の耳に入って来る音はタイピングの音だけ。これは集中出来ている証拠だ。他の生活音が一切排除された空間。その中で私はどんどんと原稿の執筆スピードを上げていく。

 今、私はフリーのwebライターになって以来の、大口のクライアントからの執筆依頼を受けて記事の原稿を書いている。私はガジェット系の記事を主に書いているのだが、今回のクライアントはガジェット好きなら誰もが知っているであろう大手のwebメディアだ。このwebメディアで記事を書く事を大きな目標の一つとしていた私は、今までのライター人生の全てをぶつけるつもりで今回の仕事に臨んでいた。

 さらに筆が乗って来たその時、〈ギシ……ギシ……ギシ……〉というロープが軋む様な音が聞えて来た。突如聞こえて来たその音に、私は集中から一気に引き戻される。


「……何?」


 せっかく作り上げた集中を壊された苛立ちがこみ上げて来る。いい感じに筆が乗って来た所だったのに……。

 でもロープなんて私の家にあったかな? 記憶を辿たどってみたが全く思い当たらなかった。私は今マンションで妹と二人暮らしをしているが、妹がロープを持っているのは見た事が無い。もちろん私も持っていないし、こんな音を家の中で聞く事自体初めてだった。

 また音が聞えて来ないかと耳を澄ませてみたが、部屋の中は”しん”と静まりかえっていた。たまにリビングの方から妹が立てる生活音が聞えて来る位だ。


「ま、いっか」


 空耳だった様だ。私は作業を再開させようともう一度ノートPCに向き直った。途中だった原稿の続きをタイプしようとしたその時、また


〈ギシ……ギシ……ギシ……〉


という音が聞えて来た。真夏なのに手足がすうっと冷たくなっていく。さっきよりも明らかに大きくなったその音は、ありえない方向から聴こえて来ていた。

 私の部屋は入り口から入って直ぐ右手に机があり、部屋の一番奥にベッドがあり、窓はその机とベッドの中間にある。


 ——音はその窓の向こう側から聞こえているのだ。


 一向に鳴りやまないその音は、規則的に私の鼓膜を揺らす。その規則性を持った音は、私の恐怖心をジワジワと煽って来る。

 このままだと全く仕事に集中出来ない。そう思った私は、恐怖心を鼻歌でごまかしながら椅子から立ち上がり、音が聞えて来る窓へと歩みを進めた。夜だから窓にはカーテンが引かれている。そのカーテンを開け放ち、何もない事を確認すれば大丈夫。……大丈夫。何も怖くない。何かがいるはずないんだから。

 私はそう自分に心の中で言い聞かせる。鼻歌も忘れない。

 カーテンに手が届きそうな距離まで来たその時、


〈ドン!〉


という何かが窓にぶつかる音がいきなり聞こえて来た。


「ひゃっ! 何⁉」


 私はびくっと体を震わせ、思わず窓から後ずさる。

 心臓が早鐘を打ち始める。何? 何かがぶつかったの? 鳥?

 音は変わらず鳴り続けている。いつまでもこうしては居られないと思った私は覚悟を決め、一気に窓に近寄った。閉まっているカーテンをつかみ、そのまま勢いよく開いた。


「いやぁあああっつ!」


 そこには一人の男が首を吊って揺れていた。


 上下スウェット、大きく前に突き出した腹、油っぽい不潔な長髪で覆われた顔。辛うじて力なく下を向いている事は分かる。でも、なんでこの男はこんな所で首を吊っているの?



「お姉ちゃん⁉」

 ただならぬ雰囲気を感じたのか、妹が勢いよくドアを開けて部屋に入って来た。そのまま窓の前でへたり込んでいる私の元に駆け寄り、肩を抱いた。

「どうしたの⁉ いきなり叫ぶからびっくりしたんだからね!」

 そう言って私の顔を覗き込んで来た妹の美琴は、目を大きく見開いた。

「ちょっと——。お姉ちゃんなんて顔してるの、具合悪いの? すごい顔色悪いよ」

 美琴にも知らせなきゃ、今もガラスの向こうで揺れている男の事を。

 私は目の前の窓を指さしながら、震える声で美琴に伝える。

「あ、あれ、あの男、美琴、どうにかしないと」

 美琴は私の指に添うようにして顔を窓に向けた。だが、美琴から帰って来た返事は私の予想もしないものだった。


「男……? お姉ちゃん。何もいないよ?」


「——え?」


 こんなにもハッキリと私の目に映っているのに? 今も窓の外で揺れているのに?

「美琴……。あんた、本当に見えないの?」

「うん、全然見えない」

 じゃああの男は一体何? 幽霊とでもいうの? 私は霊感は全くない。しかも霊だとしたらこの物件に問題が……?

 その時だった。


『ブチッツ』


という大きな音と共に、窓の外で揺れていた男が一瞬で下に落ちて行った。

 その光景を見た直後、私の視界は真っ暗になった。

 

 瞼の隙間から光が差し込んで来る。それと、何かをかき混ぜる様な音も聞こえて来た。ふわっとしたココアの香りが鼻孔をくすぐる。

 気付くと私は自分の部屋の床で横になっていた。いつの間にか頭には枕があり、足はクッションや毛布などで頭より高い位置になる様に上げられていた。

 ああ、私あの後気絶したのか。

「あ! お姉ちゃん起きた」

 美琴が心配そうに顔を覗き込んで来た。その手には湯気が立つマグカップが握られている。

 ——あの男はどうなったんだ。

 私は弾かれた様に起き上がり、美琴に詰め寄った。

「美琴! あの男が、男が下に落ちて行ったんだけど何か騒ぎになっていない?

警察は⁉」

「お姉ちゃん! いきなり起きちゃダメ! 落ち着いて、大丈夫だから」

 そういうと美琴は私のそばに寄り。背中をさすりながら続けた。

「何も騒ぎになってないよ。ほら、パトカーの音なんて聞こえないでしょ。大丈夫。私もさっき気になって窓から下を見たけど、いつも通りだった。誰も倒れてなんていないよ。大丈夫。ほら、ココアれたから飲んで。落ち着くよ」

 そう言って美琴は湯気の立つマグカップを差し出して来る。私は言われるままそのマグカップを手に取り、一口飲んだ。

 暖かさと優しい甘さがじんわりと体の中に広がり、恐怖と混乱でぐしゃぐしゃになっていた私の心がほぐされていく。

 段々落ち着いて来た。

「私、どれくらい気を失ってた?」

「十分位かな、目覚めて良かったよ! いきなり倒れるから心配したんだからね」

 私は足元に積まれたクッションやシーツを見やる。

「これもあんたがやってくれたんだね」

「そうだよ。たまたまネットで調べて知ってたから。こうした方が良いんだもんね」

「多分ね。ありがとう」

 そして妹が淹れてくれたココアを飲みながら私は気になっていた事を美琴に聞いた。

「美琴さ、このマンションについて何か聞いた事は無い?」

「何かって?」

 美琴はきょとんとした顔をしながら首をかしげる。確かにこれだけじゃ何を言っているのか分からないか。

「その、何かいわく付きだって話とか」

「このマンションが? 全然そんな話し聞いた事ないよ。ここに引っ越してきた時の不動産の担当者もそんな事言ってなかったし」

 やっぱり。私もそんな話しは聞いた事が無いし、今日まで怪奇現象の様な物に出くわした事は一度も無かった。それにしても私は一体何を見たの? 先刻の光景を思い出し、恐怖が腹の底から湧き上がって来る。それを打ち消す様にまたココアを飲んだ。でも、明日不動産屋に行って確かめに行こう。——このマンションは何かおかしいかもしれない。

「ねえ、お姉ちゃん。お姉ちゃんは……さっき一体何を見たの?」

正直あまり思い出したくはなかったが、私はつい先ほど窓の向こうに見た光景を余す事なく美琴に伝えた。

話しを聞いている最中の美琴は流石に驚いた様子だった。でも、その表情は驚きながらも、『なんで?』という疑問を含んだ表情にも見えた。その表情に少しの違和感を覚えたが、私は気にしない様にした。

一通り伝え終わった後、美琴は私をいたわる様な笑みを浮かべながら言った。

「お姉ちゃん、最近ずっと仕事遅くまで頑張っているでしょ。疲れてるんだよ。だから今日はもう——」

「あれはそんなんじゃない!」

 私はハッとした。いけない、思わず大声を出してしまった。

 美琴にこんな大声を出したのは幼少の頃以来だ。私は謝ろうとするが、上手く言葉が出てこない。心配して言ってくれただろうに。

 すると美琴は私の手をとりながら言った。

「ごめんね、正直あたしはお姉ちゃんの言っている事を完全には理解できない。だって全然見えていないから。でもね、あたしはここにいる。見えていなくても今の様にお姉ちゃんの支えになる事は出来る。だから抱え込まずに相談して」

 ——本当に良く出来た妹を持ったものだと思う。

「ありがとう」

「で、明日はどうするの? あたしは朝から仕事だけど。お姉ちゃんは家で原稿する気にはならないんじゃない」

「そうだね。〆切までにはまだ時間があるし、原稿の進みも良いから明日はまず不動産屋に行ってみようと思う。このマンションが事故物件じゃないのか確認したい。まあ、正直期待は出来ないけど」

 美琴に礼を言って空になったマグカップを渡してから、私は机の上にあるデジタル時計を確認した。もう日付が変わろうとしていた

「美琴はもうお風呂入った?」

「うん。お姉ちゃんはまだでしょ」

「うん。これから入る。あと、今日はリビングのソファーで寝ようと思う。流石に部屋で寝る気にはなれない」

「えー、怖いの? じゃあ一緒に寝てあげようか?」

 美琴がおちょくる様に言ってくる。……コイツ。

「うーるさい。リビングだったら一人で大丈夫だし」

「わかったわかった。じゃあお風呂入って来ちゃって、お湯冷めちゃうよ」

 私は「そうする」と美琴に答え、風呂場に向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る