第1話  人妻、異世界に召喚される

 1



 やすおが姿を消したのはそろそろ梅雨に入ろうかという六月の中頃だった。


「今日は夕方から雨が降るそうよ」


「じゃあ傘を持っていかないとね」


 いつものように会社へ出かけて行ったやすおを、としえはこれまたいつものように温かく見送った。


 早起きして作った愛妻弁当と折り畳み傘を鞄に入れながら、やすおは「いってきます」と言った。


 としえが「いってらっしゃい」と返すと、やすおは照れながら顔をほころばせる。結婚して十二年だというのに、気分はいつでも新婚だった。


 毎朝繰り返される夫婦の日常。


 子供は授からなかったけれど、幸せな生活を送ってきた。


 曇り空の中、出勤していくやすおの小柄な背中が、としえが最後に見た彼の姿だった。


 そしてその日、やすおは帰ってこなかった。


 いつもなら七時過ぎには帰宅するはずなのに、九時を回っても帰ってこない。こちらから電話をしてみても出ないし、メールやラインも返ってこない。


 残業や飲み会などで遅くなる際は必ず連絡を入れてくれるので、事件や事故に巻き込まれてしまったのではないか、ととしえは思った。


 ちょうど夜のニュース番組で歩行者と車が絡む交通事故が起き、死者が出たという痛ましい報道があった。しかもそれはとしえの住む町で起きたもので、これに巻き込まれてしまったのではないか、ととしえは背筋に冷たいものが走ったが、亡くなったのは全く別の男性だった。


 その後、やすおの勤める会社に連絡をしてみたが、すでにやすおは帰宅しているという。


 リビングのテーブルにじっと落ち着き、夫の帰りを待つとしえ。


 ちょっと寄り道してるだけ。


 きっとそう。


 何か会社で嫌なことでもあって、どこかの飲み屋でやけ酒をして、連絡を入れるのも忘れてしまっている。きっとそれだけのこと……


 そんなふうに自分を慰めながら待っていたら、いつの間にか朝になっていた。



 *



 それから警察に通報し、夫が帰ってこない旨を伝えて行方不明者として捜索願いを出した。


 やすおは誰かに恨まれるようなトラブルもなければ、喧嘩をするような度胸がある人でもない。他人に優しく、優柔不断で頼りにならないところもあるけれど、少なくとも人に嫌われるような人ではない。


 だからこそ、この突然の失踪は理解しがたかった。


 今日こそは帰ってきてくれる。今日こそは……


 としえは夫の帰りを待ち続けた。 


 気づけば、夫がいなくなってから三か月が経とうとしていた。



 2



 残暑が厳しい九月のある日のこと。


 買い物からの帰り道、としえは声をかけられた。


「奥さん」


「あっ、町内会長さん」


 脂ぎった血色の良い肌、つるつるに禿げ上がった頭にたるんだ二重あご。初老に差し掛かるが、まだ男盛りな雰囲気を放つのは町内会長の間田はざまだ利根男とねおだ。


 近所に住む町内会長の間田は夫の失踪に悩むとしえのことを心配して、よく声をかけてくれたり、相談に乗ってくれていた。


「旦那さん、まだ見つからないんだねぇ」


「えぇ」


 実家にも友人にもやすおからの連絡はなく、まるで神隠しにでもあってしまったかのようにやすおは消えてしまった。


 やすおの周辺に人間関係のトラブルなどがないことから、警察は事件性はないと判断し、早々に捜査を打ち切った。

 だが、人から恨まれることのない人間が突然、妻であるとしえにすら連絡せずに行方不明になったからこそ、として扱うべきなのではないだろうか。


「元気出しなよ。きっと何か事情があったのかもしれない」


 そう言って間田はとしえの肩に汗ばんだ手を置く。肩に染み込む間田の体温と無骨な指の感触に、としえは男性のたくましさを感じた。


「困ったことがあったら、なんでも言ってくれな」


「ありがとうございます」


 間田はねっとりとした視線で凹凸の激しいとしえの身体を舐めるように見ると、肩に置いた手で彼女の背中をぽんと叩いて自分の家に入っていった。


 間田は親身になって相談に乗ってくれたり、励ましてくれたりと、基本的にはいい人なのだが、少しだけボディタッチが多いのが気になっていた。


(こんなとこを見られたら、やすおさん、ヤキモチ焼くかしら)


 間田に限らず、近所に住む男たちはみんなとしえのことを心配し、何かと気にかけてくれる。

 やすおは意外とヤキモチ焼きでとしえがほかの男性と話しているとすぐにムッとする性格なので、彼の目がある間はできる限り男性と関わらないようにしてきた。


 一人で夕食を作り、一人で入浴をし、やすおの身を案じながら今日もとしえは一人で寝室のベッドに入った。


「……うぅん」


 なかなか寝つけない。


 やすおが失踪してから寝つきの悪い日が続いていたが、今日のそれはいつもと何かが違った。意識ははっきりしているのに、夢の中にいるような浮遊感が体を包んでいた。


 やがてその浮遊感は最高潮に達し、としえは体が浮き上がるような感覚を覚えた。


 さすがにおかしな気になり、ふとまぶたを開けるとそこには……


「え?」


「やりました、成功です」


「おぉ、勇者様」


「美しい勇者様だ」


「今回も成功だ」


「やったぞ」


「勇者様ー!」


 としえは自分の目を疑った。


「え? え?」


 見知らぬ人々が自分を取り囲み、歓喜の声を上げている。


「勇者様、勇者様!」


「ゆ、夢?」


 としえはおもむろに自分の頬をつねる。


 鈍い痛みがたしかにした。





 

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