第8話 香りにざわめく、妖怪の里にやって来た人間

 春の陽気は穏やかであたたかいです。


「うーんっ。今朝もぽかぽかといい天気ですねぇ……」


 柔らかな春の陽の光を体全部に感じられ、私は思わず伸びをしました。


 今日は皆さんで、収穫をしたお野菜や果物を使ってお弁当を作って、祠近くまでお花見に行こうと話していました。


 私はとってもウキウキした気分で、朝早くから洗濯物を干し始めました。

 広いお庭の物干し場にはたくさんの洗濯物がそよ風にひらひらと気持ち良さそうにそよいでいます。


「陽太さん! お花見に行く前に掃除や洗濯と、家の用事をすませてしまいましょうね」

「ええ。お花見、楽しみですものね。柚結さん、俺と一緒にささっと洗濯をすませましょう」

「兄ちゃん、さっき弁当の仕上げは料理の得意な村の雪女たちに頼んどいた」

「私もお弁当作りのお手伝いに行こうかしら?」

「柚結は兄ちゃんと洗濯干しがあるだろ? それに弁当の下拵したごしらえは兄ちゃんと柚結が昨晩ゆうべほとんどやってくれてたし。俺は子供たちを起こしてくるぜ」


 踵を返して、駿太郎さんが一歩足を踏み出して、急にピタッと立ち止まります。

 大きな手ぬぐいの洗濯物を持った陽太さんも動きが止まって、横に立つ私が見上げると、厳しい顔をしてらっしゃいます。


 私もお二人のように違和感を感じ、それがどこからか微かに漂ってきている嗅ぎ慣れない香りだと気づきました。

 妖怪の里では嗅いだことのない類の……。

 これは――?


「なんでしょう? 不思議な香りがします。……香辛料かしら? それから……」

「柚結さん……。あなたは、この香りと血の匂いが分かるんですか?」


 陽太さんがさっと洗濯物を籠に置いて、私を背中にかくまうようにします。

 私はそのただならぬ二人の雰囲気に気圧されて、言葉がしばらく出ません。


 緊張感がぴりぴりと空気に伝わるようです。


「血の匂い、それから人間の匂いだ。誰か人間が妖怪おれたちの里に迷い込んだみたいだ。香りはそいつの持ってるものからしてるみたいだな」

「どうやら近そうだね。……様子を見てくるよ。ただのまよびとならいいが、妖怪を狙った術者だったりだとやっかいですからね。柚結さん、駿太郎とここで待っていてください」


 私は陽太さんが心配になって、一緒に行きたくなりました。

 足手まといかもしれません……。でも、なぜかどうしても陽太さんを一人で行かせてはいけない気がします。


「陽太さんっ、私も一緒に参ります」

「だめですよ。柚結さんの可愛いおねだりは普段だったら俺は聞いて差し上げたいのですが、……あのね、なんだか危険をはらんだイヤな予感がするんだ」


 陽太さんの背中には炎のようなものが見えています。

 これが、陽太さんの妖気……でしょうか?


 私は陽太さんから片角と妖気を分けていただいてから、ほんのちょっぴり不思議な力が湧いてきます。

 以前より耳が聡くなったし、鼻がとても利きますし、力が少々強くなりました。


「柚結、兄ちゃんの言うことを素直に聞こう。俺たちは子供たちや里の者を守らねえと」


 陽太さんが振り返ります。

 私の肩をつかんで、陽太さんが懇願するような瞳でじっと見ていらっしゃるのです。

 私、陽太さんにこんな顔で見られてはとても反論できなくなってしまいます。


「ねっ? 柚結さん、お願いです。大人しく屋敷にいて」


 陽太さんの優しい声音に、心配してくださってると窺わせる気持ちの焦りがうわずって混ざります。


「ごめんなさい。……そうしたいのですが。……先ほどからどうもそのかたが私の名前を呼んでいるようなのです」

「柚結さんの名前を?」

「驚いたっ。俺たちですら聴こえないのに、お前に聴こえんのか!?」

「はい。あの……陽太さんにいただいた妖力のおかげだと思います」

「そうか。ではなおさら、柚結さん、あなたを連れていけない。あなたは人間世界に友達は一人だと言った。その人の声ではないのでしょう?」


 鋭い指摘に私はたじろぎそうになりましたが、私は陽太さん一人で行かせるわけにはまいりません。


「はい、私の友達のお志津さんの声ではありません。その声は男性の方のようですから。ですが、私! 陽太さんをお一人で行かせたくないんです。危険かもしれない。私は鬼嫁です。陽太さんの花嫁ですもの! 夫婦は一心同体だって運命共同体だってお志津さんはよく言ってました」


 はあ〜っと陽太さんが長い吐息をつき、私を真剣なまなこで見つめます。


「柚結さんってけっこう頑固なんだね、まったく……。その揺るがない瞳、決心はかたそうだ」

「まさか兄ちゃん! 柚結をわけもわからない侵入者がいる危険な場所に連れて行くつもりじゃねえだろうな!」

「正体がまったくわからないわけじゃないさ。相手は人間だろ? 柚結さん、くれぐれも俺の背後から出てはなりませんよ。駿太郎、子供たちと里のみんなを頼んだ。各妖怪族の長に、カラス天狗便で警戒するように報せて。必要なら援護を頼むんだぞ」

「兄ちゃん、正気か!? 柚結は置いていけ」

「侵入してきた相手の気配は一人だ。柚結さんの御魂の半分は妖怪の力でもうすでに満ちてる。行かなくてはと思ったということはなにかしらの関わりがあるってことかもしれないからな」

「兄ちゃんっ、柚結っ。……くそっ、くれぐれも気をつけていけよ」

「ああ、分かってるよ駿太郎。……ねっ、柚結さん。柚結さんのことは俺が命を賭して全身全霊で守りますから」


 陽太さんは「行きますよ」と言って私を横抱きにして、一気に空高く飛び上がりました。

 瞬間的に妖怪の村里が眼下に小さくなりました。


「あっちの方ですね」


 嗅ぎ慣れない香りがしているのは山の方です。

 祠のある方でしょうか。


 さっきまで晴れ晴れとした清々しい空だったのに、急に暗雲が垂れこめてきました。

 雨が滝のように降り出します。

 まるで私たちがその迷い込んだ人間のところへ着くのを阻むかのようです。


「……っ! なんで急に降り出した? 今日は雨の気配はなかった。……これでは柚結さんが濡れてしまうではないか」

「陽太さん、これってただの雨ではなさそうですか?」

「そうですね。……柚結さん、重々気をつけましょう。ちょっと術を使いますよ。天高く舞え、式神管狐しきがみクダギツネよ。我の命により雲を裂け」


 陽太さんの額と獣耳とつのが光って、その光から管狐クダギツネと呼ばれる式神が数体飛び出しました。

 みるみる黒い雨雲に向かっていきます。

 そうすると不思議! あっという間にもとのように空が晴れ上がりました。


「大丈夫ですか、陽太さん? ちょっとお顔に疲れが……」

「うーん。どうやら、ただの人間ではないかもしれませんね。さっきから俺の妖気が吸われ続けている。俺たちが向かっているのも分かってるみたいだ。……だが、なぜ自分からこちらに来ない?」


 香りをたどって陽太さんが私を横抱きにしたまま空を飛んでいくと、あの祠の近くに到着しました。


「あっ!」

「俺のほどこした結界を突破して入ってくるとは、普通の人間ではないとは思いましたが……」


 金色の髪の異国の衣を着た男性が倒れていました。

 ……光りながら、泉の上に浮かんでいたのです。

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