第2話 一ヶ月前の出来事
ぱたりと背表紙を閉じると、サラはほうっと胸がいっぱいになった。
(私もこんな素敵な恋愛がしてみたいわ)
ぎゅうっと本を抱きしめると、本の中で紡がれたラブロマンスが、自分の身に降りかかってきてくれるかのように感じる。
(私もこんな風に愛されたかった……)
睫毛を伏せると、ふと一ヶ月前の出来事が脳裏に過った。もう思い出したくもないことではあるが、忘れ去るにも難しい。
一ヶ月前、サラは高等教育の卒業式を迎えていた。
「サラ。卒業おめでとう」
卒業パーティーの準備が整った頃合いで、父であるエドモンにサラは祝福を受けた。いつも大事な話があるときはエドモンの書斎に呼び出される。この日もエドモンは、サラを書斎へと招き入れていた。
「卒業祝いの首飾りだ。これをつけて出席しなさい」
「まあ。嬉しいです。お父様、ありがとうございます」
サラは白地に金糸の刺繍の入ったドレスを着ていた。エドモンがサラの背中へと周り、首飾りを装着する。
「ほら。鏡で見てみなさい」
書斎の壁に掛かっている鏡に姿を映すと、胸元に金色の首飾りが光っていた。
(うわあ。とても綺麗だわ)
サラはつい両頬を染めた。鏡に映る自分がまるで自分ではないかのように、美しい令嬢がそこに立っていたからだ。
(でも、これは本当の私なのかしら?)
「よく似合うな」
「お父様。ありがとうございます」
目尻に皺を寄せたエドモンは、サラの肩をぽんっと叩いた。
「これからが本番だ」
細首の喉がごくりと鳴った。
「いよいよお前はこの国の妃として娶られる。この時を私がどれほど待ったことか。根回しだってどれほど苦労したことか。お前が王太子の妃になることで我がオデール侯爵家にどれほどの栄光をもたらすか、よく分かっているな?」
「はい。お父様」
サラは王太子であるレオンの婚約者として幼い頃から王妃教育を受けて来た。サラが高等教育を卒業するタイミングで二人の祝言があげられることも決まっている。妃の父としてのエドモンの権力はその強さを増すのは、火を見るよりも明らかであった。
「王太子の妃となるだけではなく、必ずや跡継ぎを産み、国母となるのだぞ」
「はい。お父様」
先ほどまで両頬を染めたサラは、もうそこにはいなかった。サラの琥珀色の綺麗な瞳は僅かに濁る。しかし逃げ出すことなどできない。幼い頃からこの日のために頑張ってきたのだから。
(きっともう後戻りはできないのよね)
「よし。サラの晴れ舞台だ。私も準備をしなければならないな」
エドモンはもう一度、サラの肩を軽く叩いた。魔法が溶けたかのように身体が軽くなる。
「そういえば、王太子にはよくない噂が出回っている。注意しなさい」
「よくない噂、ですか?」
「ああ。お前の同級生にアレオン伯の養女がいるだろう。あれと懇ろだと城では噂になっている」
(ああ。ついにお父様の耳にも入ってしまったのね)
高等教育最終学年を迎えたある日、一人の女生徒が転入してきた。それがエミリアである。
彼女は町人の娘として育ったが、実はアレオン伯の実の娘だったのである。母親が亡くなったのをきっかけにアレオン伯が引き取り、伯爵令嬢として迎えられたのだ。
エミリアは容姿端麗だ。金色の御髪に金色の瞳。それらは彼女を目に移す男性を虜にした。なんといってもすらりと伸びた手足にドレスの上からでも分かる豊満な肉体は、どの令嬢も持ち合わせていない美しさであった。
どこに居ても目立つエミリアが、レオンに見初められるのに時間はさほどかからなかった。サラの耳にそれが入ってきたのは、エミリアが転入して一ヶ月後のことである。
サラの心が全く動揺しなかったかといえば嘘になる。しかしそれはレオンを愛しているからではない。自分の立場が揺れるのを感じたからである。これが父や国王陛下の耳にでも入れば大変なことになると考え、時には行き過ぎたレオンの行動を諫めることもあった。
それはレオンを守るためであった。変な噂というものは尾ひれをつけて超高速度で広まるものである。それを危惧したサラはなにかにつけてレオンへの進言をしてきた。しかしながらエミリアに夢中になっているレオンはサラの小言として耳を貸さなかったのは言うまでもないのである。
(これではこの国の行く末が不安だわ)
感情に振り回される君主ほど、国の安定を阻害するものである。そのことは帝王学としてレオンも学んできたはずなのだが、彼はもうエミリア以外のものが目に入っていなかった。最近では寝台にエミリアを呼びつけては夜伽に付き合わせているとサラも聞いている。
(困った殿下だわ。エミリア嬢を側室に迎えるのもわたくしは反対しない。それなのにこんなにも敵対されるなんて)
「アレオン伯の養女を側室に娶るのはいいが、跡継ぎを産むのはお前だからな」
冷たく言い放った父の言葉は、サラの小さな胸に突き刺さった。一歩踏み出せばそこは底なし沼のような気分だった。
その後サラはエドモンと共に王城へと向かった。卒業パーティーが国王陛下の御前で行われるのである。
舞踏場へと到着すると、サラは異様な空気を感じ取った。それはエドモンも同じだったらしい。その場に居る者らからの視線が二人へと突き刺さる。まるでそれは針の筵である。
「一体何があったというのだ」
事態を飲み込めていないエドモンの隣で、サラも胸騒ぎがしていた。
「サラ=オデール嬢!そなたよくも王城へと足を踏み入れることができたな!」
舞踏場へと響き渡ったのは、レオンの怒声であった。その隣にはエミリアがぴったりとくっついている。婚約者であるサラを差し置いて公式の場でこのような行動をとることに、サラは血の気が引いた。
「王太子殿下。どういうことですか?説明をしてくださいませ」
(一体何が起きているというの?周りの者も事情を知っているようだし……)
「はんっ!説明だと?白々しい!そなたの悪事はすべて、私の耳に届いている!」
(悪事!?一体なんのこと……!?)
サラにはレオンの言っている悪事が何を指すのか、まったくと言っていいほど心当たりがなかった。彼女はただ粛々と卒業のこの日を迎えただけなのである。
「オデール嬢はこのエミリア嬢に対して数々の無礼を働いた。なんと底意地の悪い人間だろうか。よってオデール嬢と婚約破棄をする!本来ならば死罪に処したいところだが、そなたのこれまでの功績を無視することはできない。それはオデール侯爵家についても言えることだ。これからはもう、私に関わらないでくれ。さあ!オデール侯爵とその令嬢のお帰りだ!」
「お待ちください、殿下!なにかの間違いです!よくお調べになってください!」
顔を真っ青にしたエドモンは、膝と両手を地面へとつき懇願した。しかしレオンはそれを気に留めることもなくエミリアへと視線を向けている。エミリアは腰をくねくねと揺らしながら、レオンの身体に纏わりつかせていた。
(ああ、反吐が出る)
おそらくエミリアがあることないことをレオンに吹き込み、このような事態を引き起こしたのだろうとサラは認知した。
「お父様。おやめください。もう帰りましょう」
地面に額を貼り付ける勢いのエドモンの肩にサラは寄り添う。父のそのような姿は見たくなかった。
「何を言う。私の努力がお前のせいで無駄になったのだぞ!」
鬼気迫るエドモンの表情に、サラは一瞬たじろいだ。その目つきだけで、喉を掻き切られるかと思ったほどだ。
「王太子殿下!どうか、どうかもう一度だけお調べ直しになってください!」
そうしていると、騎士団が二人の元へとやってきた。
「オデール侯爵。どうか今日はお帰りになってください」
エドモンはその場に張り付こうとしたが、鍛錬を積んだ騎士の前にその力は成す術もなかった。エドモンはたった一瞬にして地獄へと突き落とされたのである。
サラが勘当を言い渡されたのは、その次の日のことであった。エドモンと国王によって話し合いが行われ、サラは隣国シルク王国の辺境地で預かってもらうことになったのだ。
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