第29話 激しい雨②

「――そうですか。それでセンパイのほうから、別れを切り出したんですね」


 のらに隠しごとができないのは分かっているので、俺はあっさりと彼女に昨日のいきさつを話した。追いつかれたときにこうなるだろうと諦めていたから、躊躇うことはなかった。だけどのらに甘えたくないという俺の決意は揺るいではいない。俺は彼女に抱きしめられることなく、彼女と背中を合わせて立って話をしている。面と向き合っていないのは、のらの下着が透けているため、目のやり場に困るからだ。彼女は「センパイだったら、いくらでも見ていいっすよ」とは言っていたものの、とても恥ずかしそうだったというのもある。


「状況は理解しましたけど、なんか不思議ですね」

「不思議? なにが?」


 俺と栞梨の別れ話に、そんな謎めいたものはないはずだ。疑問に感じたが、のらがそう感じたのは別のことだった。


「センパイが思ったよりも落ち込んでないことが」


 のらに言われて、はっと息を飲んだ。たしかに彼女が言うように、栞梨と別れたのに俺はそれほど落ち込んでいなかった。栞梨のことを信じられなくなっていたことに気づいて罪悪感を覚えたり、最後に傷つけてしまったことを後悔したりはしている。もちろんまったく落ち込んでいないわけではない。ただ、栞梨と別れることで、これからは自分の本心に逆らってまで信じようとしなくてもよくなり、どこか安心している自分はいる。


「なあ、のら。俺は苦しみから逃れるために、栞梨と別れたのかな?」

「もうこれ以上は耐えられないと思って、最後に栞梨さんの誘いを拒否したんですよね?」

「……ああ」


 そのときの栞梨の顔を思いだしてしまい、胸が痛んた。


「だったら、そうなんじゃないですか」

「……そうか。なんか俺って自分勝手な人間なんだな」


 のらに栞梨と別れたのは、苦しみから逃げるためだと肯定されて、自己嫌悪に陥った。そんな俺の言葉を受けて、のらは優しく語りかけてきた。


「そうですか? センパイは栞梨さんのことを信じようと努力して、あの夜のことを忘れようと努めて、罪悪感に押し潰されそうになるまで耐えて。でも限界まで耐えようとしたけど耐えきれなかった。そこまで苦しんで逃げたからといって、わたしはセンパイの行動を自分勝手だとは思いません」

「……ありがとう。ありがとう、のら」


 また俺はのらの言葉に救われた。抱きしめられていないとはいえ、また彼女に甘えてしまった。のらはそうじゃないと言うだろうけど、また迷惑をかけてしまった。そんな自分自身を本当に情けなく思った。そしてこのままではいけないと思った。

 俺は拳をぎゅっと握りしめる。これから先どうすればいいか、俺なりに考えていた。答えはもう出ている。そのことをのらに伝えるために、俺は深呼吸をして口を開いた。


「俺、もっともっと好きになろうと思う」

「……センパイ? それって」

「難しいとは思うけど、もっともっと好きになりたいんだ」

「……」


 のらは黙って、俺の話に耳を傾けていてくれるようだった。俺は続ける。


「前にのらが言ってくれたように、今度は俺が、自分の嫌いな俺を好きになってやるんだ!」


 俺がのらにそう宣言すると、背中越しに感じていたのらの重みが突然消えた。心配になり振り返ると、のらは地面にへたり込んでいた。


「おい! のらどうした!」


 動こうとしないのらの肩に手を置いてゆさゆさと揺さぶる。のらは「そうっすよね。センパイっすもんね。すぐに別の女子にいくわけないっすもんね」とブツブツと呟いていた。

 そんな後輩の言葉を聞いて俺は、「すぐにはな」と心の中で答えた。あの麻酔のようなキスや抱きしめられて胸の内側から温かくなる感覚やのらに「好き」と言われたときの胸の高鳴りは、俺にとってどれも生まれて初めて経験するものばかりだったから。


「おい、のら。立ち上がれよ」


 彼女の腕を肩にまわして、無理やり起き上がらせる。


「……ねえ、センパイ。さっき言ったことは本気ですか?」


 のらは俺の顔を心配そうに覗きこんでくる。


「ああ」


 俺は力強く頷いた。


「あの……分かってるとは思いますけど。嫌いな自分を好きになるって、その……相当難しいと思いますよ。とくにセンパイの性格だと……」


 言いづらそうにのらは口にした。のらが言ったことは、自分でもすでに理解している。だけど、たとえ自分の嫌いな俺を全部は好きになれなくても、これからはしっかりと向き合っていきたい。難しくても向き合うことで、いつかは嫌いな自分を受け入れていきたい。あのもう一人の俺である化け物を含めて。そうすることで名前の分からない感情の正体が分かるような気もするから。


「それでも、やってみる」


 俺はのらの瞳を真っ直ぐに見つめた。彼女は慈しむような眼差しを向けてくる。


「わかりました。でももう無理はしないでくださいね。だけどどうしても苦しくなったときは、またわたしの下半身でスッキリさせてあげますからね」

「それ膝枕な!」


 こうしてのらが側にいてくれるのが、心強かった。もしも一人だったらと思うとぞっとした。きっとあの夜の出来事のあと、すぐにでも心が壊れていただろう。だから、こうして隣にいてくれるのらを、これからも大切にしていきたい。そしていつの日か、俺のことを救ってくれたみたいに、のらのためになにか役に立つことをしたい。俺はそう固く心に誓った。


「雨やんだみたいだし、帰ろうぜ」

「……はーい」


 俺はのらの身体を支えながら高架下を出た。夏を感じさせるような日差しの下を、俺とのらはゆっくりと足を進めた。

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