第28話 激しい雨①

 一体、いつから俺は栞梨のことを信じられなくなってしまったんだろうか。別れ話をしたときに、最後に出た俺の言葉は、間違いなく俺の本心だ。もしもあのとき別れ話をしなくても、きっと遅かれ早かれ俺は自分の本心に気づいていたと思う。そして、そのとき必ず栞梨を傷つけることを口にする。

 あんなにも大切な存在だった恋人に対して、信じることができなくなっているという事実は、すぐには受け入れられなかった。俺が栞梨をこれまで好きだと想っていた気持ちが、すべてが嘘だったように思えたからだ。だけど知ってしまった以上は、いつか受け入れなければいけない。でもどうやって受け入れればいいのかは、どれだけ考えても分からなかった。

 栞梨のことを信じることができなくなっているという事実は、必ず彼女を悲しませるという結果に繋がっていることも、俺を絶望させた。信じられるのであれば、別れるという選択肢はない。信じられないから別れるという結果に繋がるわけだ。だから信じられなくなった俺は、いずれ別れの道を選ばなくてはならなかったと言える。そのことが胸を苦しくさせた。栞梨を悲しませるようなことをしないと、付き合っているときは何度もそう胸に誓ったのに、最後の最後に、彼女を悲しませてしまった。いやただ悲しませるだけではなく、そうとう酷い傷を負わせてしまった。また新しい罪悪感が俺の中で生まれたのを感じる。けっきょく俺は、別れなくても別れても、栞梨に対して罪悪感を抱きながら生きなければいけないように思えた。


 栞梨と別れた翌日。本来であれば、彼女の家で勉強会を開く予定だったが、当然ながら行けるわけがないので、一人で家で勉強をすることにした。正道が心配するかもしれないと思って、昨夜ライソで「すまん。明日は行けない」とメッセージを送った。正道はすでに栞梨から別れたことを聞いたのだろう、「了解! あ、今度カラオケ行かない? 俺、新曲で歌いたいのあるんだよね」と返信がきた。親友はあえて栞梨と別れたことを聞かずに、俺を気遣ってくれているのだろう。その思いやりが嬉しい反面、やはり彼に対しても最低な妄想をしたり、疑ったりしたことの罪悪感が沸いた。

 しばらくの間、家で一人で勉強をしていたが、余計なことばかり考えてしまい、まったく捗らないので、俺は図書館へ行くことにした。もしかすると中学の同級生に会うかもしれないと不安になったが、よく考えると俺の同級生で図書館を利用しそうな生徒は少なかったことを思いだした。実際、中学の図書室はいつも暇だった。

 図書館までは徒歩で一五分ほど。まだ雨が強く降っていたので、傘をさしてゆっくりと歩いて行った。ビニール傘にポツポツと雨粒が打ちつけられていた。

 ふと正面を見ると、五十メートルほど先から金髪でツインテールの少女がこちらへ向かって歩いている姿を捉えた。まだ相手は俺の存在に気づいてないようなので、急いで踵を返して、違う道から図書館に行くことにした。避けるような真似をして申し訳ないが、いまは会いたくななかった。だが、俺が背中を向けて歩き始めると、呼び止める声が耳に入った。


「おーい! センパーイ! どこ行くん――って、なんで逃げるんすか!」


 俺は振り返らずに全力で走った。後ろから、コンビニのビニール袋をガサガサと鳴らしながら、のらが追いかけてくる。


「おーい! 止まってくださいよ! 逃げるとか、意味わかんないんすけど!」


 運動神経のいいのらは俺との距離をどんどん縮めてくる。しかし追いつかれるわけにはいかない。まだ栞梨と別れたことに対する気持ちの整理でつけられていないのに、ここでのらに会うとまた彼女に甘えてしまいそうだからだ。俺の感情を見通すことができるのらだから、いまの俺を見たらすぐに俺と栞梨になにかあったことを気づくはずだ。そして、きっとまた俺の辛さや苦しさをすべてを包み込んでくれるだろう。そうしてもらうことで、救われた気持ちになるし、のらの温もりを感じると心が穏やかになっていくのは確かだ。本音を言えば、いますぐにでも俺はのらに甘えてしまいたい。だけど、いつまでものらに頼り続けるわけにはいかない。たしかに、のらに抱きしめられると、その間は不安や苦しさからは解放される。しかし、それはあくまで「その間」だけで、一人になると再び負の感情が沸き上がってくる。根本的に問題が解決してないわけだから当たり前の話だ。結局のところ、俺が自分の感情と向きあって、折り合いをつけなければならない。のらもきっと、それを願っているのだと思う。だからこそ、折り合いがつけられていないどころか、いまだ気持ちの整理がつけられていない状況で、のらに会うわけにはいかない。ここでのらに追いつかれるわけにはいかないんだ。

 のらの足音がどんどん近くなってくる。俺はさしていた傘を閉じて、なりふり構わず全力で走った。片手が空いたため、さっきよりも走りやすくなった。目の前に鉄橋の高架下が現れた。そこを通り抜ければ図書館だ。図書館にたどり着いたら、男子トイレに駆け込んで立てこもればいい。さすがにのらも入ってこれないから、しばらくすれば諦めるだろう。俺は頭の中で計画を整えた。やがて高架下に辿り着き、あと少しでのらを振りきれる――と思った矢先、俺は勢いよく前のめりに倒れた。いや正確に言うと、倒されたのだった。


「はあはあ。あー、やっと追いついたっすよ。もう、なんでセンパイと鬼ごっこしなきゃなんないんすか」


 俺の腰に抱きついて転ばせた犯人は、荒い息を吐いていた。背中に押し当てられた

のらの胸が、激しく波打っていた。


「……運動不足だったからな」

「そういうのは一人で勝手にやってくださいよ……それで、なにがあったんですか?」


 俺の表情を見なくても、のらにはお見通しのようだった。彼女は俺の腰に回した腕をほどいて、倒れている俺の正面にしゃがみこんだ。俺の姿を見て、にししっと笑う。


「びしょびしょっすね。まるで水も滴る……濡れネズミみたいっす」

「……いい男じゃなくて悪かったな」


 失礼なことを言う後輩を、俺はジト目で睨んだ。


「そういうお前も――」


 びしょ濡れだ、と言いかけて、俺は慌ててのらから視線を外した。


「ん? なんすか? なんかわたしの格好おかしいっすか」


 のらは自分の全身を確認した。そしてすぐに俺が視線を逸らした理由に気づいたみたいで、胸元を腕で隠した。


「へー、なるほど。センパイ見たんすね?」


 にやりと口の端をあげて、意地悪く笑みを浮かべる。しかしその表情とは裏腹に、のらの顔は真っ赤に染まっていた。


「……見てないけど」


 白いTシャツの下に身に着けているピンク色の下着をはっきりと目撃したが、俺はしらを切った。


「ふーん、そっすか。ま、水着だから見られてもいいっすけどね」

「え? そうなのか?」


 さきほどのピンク色の下着だと思っていたものが水着だと聞かされて、驚いて聞き返した。


「はあ。そんなわけないじゃないっすか。こんな雨の日にどこへ泳ぎに行くと思ってんすか。まあ、いまの反応で分かりましたよ。センパイがわたしの下着を見たということを」

「……すまん」


 俺がのらに謝罪すると、「もう。センパイに見られるのなら、もっと可愛い下着付けときゃよかった」と口にしていたが、なんて返せばいいのかがわからなかったから「それも可愛いと思う」と感想を伝えると、のらは一瞬のうちに耳の先まで赤くなった。そして彼女の頭からボンッと煙が出たように感じた。その姿を見て、俺も恥ずかしいことを口にしたことに気づいて、二人して赤くなり、しばらくの間無言になった。高架下なのでこれ以上濡れる心配はなかったが、空は真っ黒な雲に覆われて雨はいまだ止む気配はなかった。

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