第27話 歪になる想い

「右京くん、期末試験が始まる前に、久しぶりにお出掛けしようよ」


  ショッピングモールでの一件から、一カ月ほど経過した。梅雨入りもして、電車で帰宅している俺と栞梨の傍らには傘が立てかけられている。


「……そうだな。どこか行きたいところはあるのか?」


  雨が降りしきる窓の外の景色を俺はぼんやりと眺めていた。いつの頃からか、俺は栞梨に対する罪悪感から、できるだけ視線を合わせないようになっていた。そして毎晩のように最低の妄想する汚らわしい自分の姿を、カノジョの瞳に映したくなかったこともある。


「えーと、それならねー。ここはどうかな? カップルで行くと割引があったり――」


  栞梨の話をちゃんと聞かなければ、そう意識しても、日々の寝不足で頭に入ってこなかった。そのこともカノジョに申し訳ない気持ちになった。


「あ! 右京くん! 降りなきゃ!」


  栞梨の家の最寄駅に着いたようで、手を引かれて慌てて降車した。



「けっきょく、どこに行くか決められなかったね。今日の夜、ライソするから、そのとき決めようね」

「……ああ」


  栞梨と手を繋いで、改札を通り抜ける。ここからは、カノジョは徒歩、俺は自転車だから別れて帰ることになる。


「あ、そうだ! 期末試験が終わったら、まーくんの誕生日だから、予定空けておいてね!」


  正道は七月生まれで、去年も試験後に誕生日パーティーをしたことを思いだした。まだ栞梨とは付き合っていないどころか、ようやく軽い会話をするようになり始めたばかりの頃だった。パーティーは正道の家で行われたが、栞梨は親友の家で料理を作ったりしていた。その頃から、俺は栞梨のことが好きだった。だが、もしかしたら正道も栞梨のことが好きなんじゃないかと思って、親友に訊ねたのも、たしかそれくらいの時期だったと記憶している。そのときの感情が蘇ってくる。正道が栞梨のことはただの幼なじみとしか思っていないと言ったときに、安心したこと。正道が俺と栞梨の仲を取り持つと言ってくれて、感謝したこと。正道の誕生日パーティーのときに栞梨の料理を初めて食べて、この世の中にこんなに美味しいものがあったのかと驚いたこと。そのときに栞梨の私服を見て、こんなにも可愛い女子と付き合えたら、どんなに毎日が楽しいのだろうと感じたこと。栞梨と話をして、彼女が微笑むだけで胸が温かくなるような気がしたこと。

  たくさんの感情が押し寄せてくる。そしてそのどれもが、いまの自分には失われているように感じた。それがすごく辛かった。俺は栞梨と正道に抱いてるいまの感情が憎らしかった。そんな感情を持って接していることを謝りたくなった。


「……ごめん。栞梨……正道……ごめん」

「え? ちょ、ちょっと右京くんどうしたの? 予定入ってて、来れなくても大丈夫だから!」


  気がつくと俺は改札の前に佇み、涙を流していた。栞梨がハンカチで俺の涙を拭ってくれた。俺はもう限界だったのかもしれない。


  俺は栞梨を連れて、駅の近くにある公園に行った。まだ雨が激しく降り続いていたので、東屋のベンチに腰を掛けた。幸いなことに、風は強くなかったので雨が打ち込んでくることはなかった。


「右京くん。もう平気?」


 栞梨は突然泣き出した俺を気遣ってくれた。


「……ごめん」

「ううん。謝ることなんてないよ。でも、どうしたの? なにかあったの?」


  俺は首を横に振った。あの夜の栞梨のことがきっかけだと、俺には言えなかった。

「うーん。言いたくないならいいけど。でも辛かったら私を頼ってね」

「……ありがとう」


  こんなにも俺のことを慮ってくれるカノジョを頼ることができなくて、心底自分を情けなく思った。


「……それで右京くん。その……お話ってなに?」


  俺が栞梨を公園に連れてきたのは、別れ話をするためだった。俺はもう大切なカノジョと気のいい親友を疑いの目で見たくなかった。でも、いくらカノジョや親友を信じようとしても、俺の心は蝕まれていて、疑念を抑えることはできそうにないと悟った。栞梨を悲しませることになるが、まだなんとか理性を保てるうちに別れたほうがいいに決まっている。これ以上付き合い続けると、いつあの名前の分からない感情に襲われて、カノジョや親友を傷つけるようなことを口にしたり行動したりするか、分からない。だからそんな事態になる前に別れるべきだ。一時的には栞梨は悲しむだろうが、長期的にみれば最善の策であると俺は思うから。


「栞梨、別れよう」

「……なんで?」


  いまここで正直に、あの夜、栞梨が正道の名前を呼んだからと答えれば、栞梨は覚えていないだろうが、呼ぶに至った心当りがあれば教えてくれるかもしれない。いまだ知りたい欲求はある。しかし、もし俺があの夜のことが原因で別れたいと告げたら、栞梨はずっとそのことを気にしながら生きていくかもしれない。そんなことになってしまったら、俺自身が耐えられそうにない。だから俺は、栞梨に対するもう一つの罪悪感を理由にした。


「俺、のらとキスしたんだ」

「え? ちょ、右京くん。え?」

「のらは俺の母さんと仲がよくて、たまに俺の家に遊びに来るんだ。それでこの前、家に来たときにキスした」


  俺は呆然としている栞梨に心の中で謝り倒した。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。


「……そ、それって野田ちゃんのほうからだよね?」

「いや、俺からだ」


  この理由もまた栞梨を傷つけてしまうことになるのは分かっている。だけど俺とのらがキスしたのは事実で、どちらからしたとかは俺にとっては意味は持たない。後輩の女子とキスをするような最低な男子と付き合っていたということは、栞梨にとって苦い思い出になると思う。俺のことなど記憶から消すことになるだろう。でもそれでいいんだ。少なくとも、栞梨が自分を責め続けるような理由なんかよりは。


「だから、栞梨。本当にごめん。別れ――」


 まるで最後まで言わせないかのように、栞梨は俺の口を唇で塞いできた。だが、すぐに唇を離すと、目に涙を溜めて声を荒げた。


「嫌だよ! ぜったいに嫌だよ! 右京くんが野田良子とキスしたんだったら、私が何度でも上書きするもん! 私は右京くんとぜったいに別れたくないから!」

「……栞梨」


 彼女は立ち上がって俺の目の前に立つと、俺の上に跨ってきた。そして再び、唇を重ねる。


「ん……ぜったいに……んんっ……右京くんは渡さない……んっ……だから」


 栞梨は唇を離そうとせず、その状態で俺の下半身をズボンの上からまさぐってきた。


「ねえ……んっ……野田良子とは……したのかな?」


 俺は口を塞がれているので、頭を横に振った。すると栞梨はようやく俺の唇を解放すると、耳元で囁いてきた。


「じゃあ、ここでしよっか。心配ないよ。この公園の前は毎日通ってるけど、雨の日は誰も訪れないし。それにこんなに激しく降ってたら通りからもなにをしてるのかなんて、分かんないよ」

「……し、栞梨」

「だから、ここで、お泊りデートのときの続きしよ」


  フラッシュバックが始まる。名前の分からない感情が全身を駆け巡る。もう一人の化け物の俺が言う。「コレガオ前ガ信ジタイ現実ダモンナ」違う違う違う。しかし、意識は乗っ取られていく。口が勝手に動く――頼む、栞梨! 耳を塞いでくれ!


「やりたくねーんだよ! 俺は栞梨と続きをしたくねーんだよ! 頼むから、もうやめてくれ!」


  公園中に俺の声が響き渡った。目の前の栞梨の顔が青ざめていた。


「……なんで? 野田良子のほうが、そんなにいいの? ねえ! なんで! 教えてよ! 右京くん!」


  頬に幾筋もの涙を流す栞梨に向かって「そうだ」と答えた。栞梨は自分の鞄を引っ掴むと「さよなら」と吐き捨てるように言って、傘も差さずに公園をあとにした。

  残された俺はベンチから立ち上がる気力すら湧いてこなかった。栞梨を傷つけてしまったことや恋人と別れたショックなのもあったが、それよりも自分の本心に気づいてしまったからだ。


  腰が抜けたようにぴくりともベンチの上から動けなくなった俺は一人ごちた。


「ああ、そうか。俺はもう、栞梨と続きをしたくなかったんだな……」


  それは栞梨を信じることは、もはやできないということを意味していた。

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