第26話 ぎこちない日常

 のらと麻酔のようなキスを交わしてから、俺の日常は濁流に飲みこまれたように、激しく変化していった。

 一つはのらとのキスを頻繁に思い出すようになったこと。あのときの痺れるような感覚が忘れられなくて、気がつくと頭に中にあのときのことが再現されるようになった。

 二つ目は、そののらとのキスを思い出すたびに、栞梨に対しての罪悪感に苛まれるようになったこと。それは当然のことと言える。ただ、のらとキスをしているときに、俺は栞梨のことを一切考えていなかったことが、さらに俺の罪悪感を増していた。あのとき、のらとキスをすると栞梨が悲しむことになるとか、まったく頭になかった。俺の頭に栞梨のことが僅かにでも浮かんでいたとすれば、俺はのらとはキスをしなかったかもしれない。だけどあのときの俺の意識は、のらにだけ向けられていた。そのことが余計に、栞梨に対しての罪悪感を募らせることになった。

 変化はまだある。いまだ栞梨のことを信じ続けるのか、疑うのかを決めかねている俺は、ついにカノジョに対してなんの感情も抱かなくなってしまったのだ。いや、栞梨のことを好きだという感情は残っている。しかし、カノジョのことを信じ続けるのか、疑うのか、この二択のどちらかを選ぼうとしている俺にとって、それはカノジョのことが好きなのか、好きではないのかを決めることであるのだろう。そう考えると、俺は栞梨のことが好きなのかどうかが、本当に分からなくなる。ただ一つだけはっきりしているのは、こうしてカノジョのことで思い悩んでいるということは、栞梨のことを決して嫌いになったわけではないということだ。ささやかだが、いまの俺にとってそれが心の支えであった。


 ショッピングモールで栞梨と正道が一緒にいた件は、のらの予想通りお隣同士の幼なじみ家族が一緒に出掛けただけということはすぐに判明した。栞梨と正道が俺にお土産を渡してくれたからだ。俺が「あれ、一緒に出掛けてたんだ?」と素知らぬ顔で訊ねたら、二人は顔を見合わせて「あれ、しぃ、右京に言ってないのか」「え? まーくんが言ってくれてたんじゃないの」と焦っていた。そのやり取りを見て、俺に隠れて二人きりで出かけていたわけではないと確信した。そもそも、隠れて出かけていたとしたら、お土産など買ってこないだろうし。

 こうして俺は栞梨と正道に対して疑うことがなくなった――とは当然ならない。二人が一緒にいた件は、のらが予想する前から、俺も同じことを考えていた。だから、ただ単に答え合わせをして正解しただけの話だ。栞梨と正道の関係を疑ってしまうのは、きっかけはあの夜にカノジョが親友の名前を口にしたことだ。だけど疑う気持ちが膨れあがったのは、ショッピングモールでもう一人の俺が投げかけてきた言葉が、俺の心を揺さぶったことが大いに影響している。「コレガオ前ガ信ジタイ現実ダモンナ」 という言葉を。疑念はどんどん膨らんでいく。それでも俺は、栞梨と正道のことを疑いたくない自分もいる。俺のことをいまだ好きでいてくれるカノジョ、俺のことを大切に想ってくれている親友が、もし俺が二人のことを疑っていたと知ったとき、悲しむだろうことが容易に想像できるから。きっと傷つけることになるから。そうなることだけは避けたいんだ。


 だが、俺はもうダメなのかもしれない。この数日、夜、ベッドで眠りにつくために瞼を閉じると、何度もあの夜のことがフラッシュバックしてくるようになったからだ。シーツにわずかに残る栞梨の香りが、それを思い起こさせるのかもしれない。そう考えて何度もシーツを洗濯したが、それでもカノジョの匂いは消えていない気がした。シーツから栞梨の香りを感じとり、あの夜の出来事が頭の中で再現される。いつしかベッドに入るのが怖くなった。

 それでも睡眠をとらないわけにはいかない。そしてその記憶に残っている出来事は、いつしか奇妙なことに形を変え始めた。最初は、栞梨が正道の名前を呼んでいる姿という記憶と同じものだったのが、カノジョが「まーくん」と呼びながら、誰かと交わっている姿に変わったのだ。そして栞梨と交わっているその相手は正道だったのだ。そんなふうに奇妙に変化したのだ。そのたびに気持ち悪くなり、シーツを身体から剥ぎ取った。そしてやがて俺は気づく。奇妙な変化ではなく、それは俺が生み出した妄想であるということに。

 その妄想が脳内で再現されるたびに、俺はカノジョと親友を相手になんて最低なことを考えるのかと、自分自身に嫌悪感を抱いた。こんな最低で汚らわしくて醜い妄想をする自分など、栞梨のカレシでいていいはずがないし、正道の親友でいていいはずがない。二人は大切な存在のはずなのに、心の奥底では自分の妄想のように汚らわしい存在だと思っているのではないのか、そんな疑問が湧いてくる。その度に「違う違う違う」と何度も口に出して否定した。そして汚らわしい存在なのは自分のほうであり、そんな自分などこの世界からいなくなればいいと思い、壁に頭を擦りつけて、俺は泣いた。

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