第22話 小悪魔とバケモノ②
名前の分からない感情はやがて消え去り、しばらくしてからぼんやりとしていた意識が徐々にはっきりとしてきた。
正気をとり戻した俺を、のらは慈しむように見つめていた。
「辛かったね」
のらは俺に語りかけた。
「お泊りデートのときに、そんなことがあったなんて知らなかったよ」
彼女自身が辛かったように、眉を下げる。俺はのらの言葉から、あの夜のことを話してしまったと気づいた。どこまでのらに話をしたのかは分からなかったが、栞梨のプライベートに関わることは間違いなく口にしたはずだ。俺は感情的になって、口をすべらせたことを激しく後悔した。
「センパイ、辛かったね。苦しかったね」
のらは慈しむように、俺に言葉をかける。きっとのら以外に同じことを言われても、当事者ではない者に俺の苦しさがわかるはずないと腹を立てたと思う。そんな慰めの言葉など、俺をいら立たせるだけだ。しかし、のらの口から出てくると、素直に受け入れることができた。のらはもちろん当事者ではない。だから、俺の苦しみなど理解できるはずがないのに。だけど、彼女は本当に俺がどれくらいあの夜にショックを受け、それ以来どれくらい苦しんでいるのかを理解している気がした。いや、気がしたというよりも、そうだとしか俺には思えなかった。俺はのらと、この心の中にある苦しさを分かち合えたように感じた。
「センパイは栞梨さんとまーくん先輩のことを疑ったりして、自分のことを責めてるけど、そんなことがあって疑わない人なんていないですよ」
「……そうかもしれないけど」
「だからセンパイはそんなに自分のことを責める必要なんてないですからね」
「……のら」
あの夜の出来事を、どのような気持ちで受け止めればいいのかをずっと考えていた。俺の中に沸き上がる不安や苦痛や惨めさなどの感情が、正常なものなのかが分からなかった。でも、いまのらの言葉を聞いてとても安心した。彼女の感覚ももしかしたら世間とのズレがあるかもしれない。しかし彼女の言葉は俺にとっては誰よりも正しく、この世界の真実だと、俺にはそう信じることができた。
「……なあ、のら」
「はい。どうしました?」
俺は、これまでの苦しみを理解し、分かち合ってくれたのらの意見を知りたくなった。のらなら俺を導いてくれるのではないかと期待して。
「俺はこれからどうすればいいと思う?」
「どうすれば、ですか?」
「そうだ。俺は栞梨を信じ続ければいいのか、それとも憎めばいいのか、だ」
俺の苦しみを理解してくれているのらに、俺がこれから先、栞梨に対してどのような感情を抱けばいいのか教えてもらいたかったのだ。彼女が信じ続ければいいと答えたら、それに従うつもりだった。もちろん逆の場合でもだ。それくらい俺はのらを信用できる相手だと信じて相談した。しかし、のらは俺が期待していた答えを口にはしなかった。
「うーん。それはセンパイがしたいほうに、すればいいんじゃないかな」
「え……?」
のらから見放された気分になった。彼女は続ける。
「別に栞梨さんのことを信じたければ信じればいいし、憎みたければ憎めばいいと思いますよ」
さっきまで俺を正しい方向へのらが導いてくれている気がしていた。しかし、彼女は俺をただ甘やかしていたわけではなかったのだと、そこで気づいた。のらはけして俺を付き放そうとして、言ったわけではない。のらは自分の言葉で俺の感情をコントロールしたくないから、そのように言ったのだ。のらはすでに俺が彼女のことを信頼しきっているということを理解しているのだろう。だから、自分が答えを出すと、俺がそれに従うことを分かっているはずだ。俺のことを本当に大切に想ってくれている彼女だからこそ、そんなことはしたくないのだ。そのことに気づくと、のらに任せようとした俺の、彼女への思いやりのなさや自分の情けなさを感じて反省した。
「わたしとしては、もちろんセンパイが栞梨さんのことを憎んで、そのまま別れてくれたほうがいいよ。でもセンパイが栞梨さんを信じようと思って、別れないという選択をしても、わたしはそれでもいいと思ってる」
「のらは、本当にそれでいいと思うのか?」
俺には不思議だった。もし俺がのらの立場だったら、別れてもらったほうが、自分が想い人と付き合える可能性が高くなるからだ。それは当然のことのように思える。
「ううん。別れなくてもいいよ。わたし、センパイのことを好きでい続ける自信があるから」
のらは真っ直ぐに俺を見つめた。彼女の瞳に吸い込まれそうだった。心臓の鼓動が早くなり、俺の声は上擦ってしまう。
「そ、それだと、のらはずっと付き合えないんじゃ?」
「はい。別にそれでいいですけど。わたしはそんなことよりも、センパイがわたしのことを好きになってくれるのなら、二人の関係がどのような形でも気になりません。それがいまの先輩と後輩の関係のままでも」
好きな相手とは付き合う以外に幸せになることはないと、俺はずっとそう考えていた。だからのらの発言はかなり新鮮な考えで、俺は頭を殴られたかのような衝撃を受けた。そして、それと同時に彼女の俺に対する想いが、自分が想像してた何十倍、いや何百倍も強いことがわかった。これは俺の自惚れなどではないはすだ。だからこそ、疑問が沸いた。なぜ俺のことをこんなにも想ってくれるのだと。
「……俺さ、のらにそんなに好きになられるような人間じゃない……」
のらは大きくはっきりと俺に聞こえるように溜め息を吐いた。
「まだ、そんなこと言ってるんですか。入学式の日に図書室で、わたし言いましたよね。鎌ヶ谷右京は、わたしのヒーローなんだって。忘れたんですか?」
「もちろん覚えてる。だけど、俺なんか、栞梨のことを信じようと決意したのに、すぐに正道との関係を疑ったり、そのときに湧いてくる感情をどう処理すればいいのかで悩んだり。それだけじゃない。栞梨に対してどんな感情をもてばいいのかなんて、本来自分で決めることなのに、のらに決めてもらおうとしたり……」
自分で話していて、ヒーローという言葉と俺があまりにもかけ離れていることが、はっきりと分かった。そしてそんな自分が情けなくなって言葉に詰まった。のらはそんな俺を優しい眼差しで見つめ、頬に優しく手を添えていた。彼女の手は、ゆっくりでいいから俺の本心を聞かせて欲しいとお願いしているようだった。俺は話を続けたかったが、頭に浮かんでくるのは、不甲斐ない自分の姿ばかりで、口を開く気にはなれなかった。そのことを口にすると、確実に俺は自分のことを、より一層嫌いになっていくからだ。でも俺はのらの期待に応えようと、歯を食いしばって話を続けた。ひどく醜い心をもった自分の話を。のらのヒーローになる器などない自分の話を。
「俺は、世界で一番可愛いと思っていたカノジョに対して嫌悪感を抱いたり、いつも俺に親切にしてくれる親友に対して憎悪したり、俺のことを想ってくれている後輩に対して迷惑をかけたり……」
「わたしはセンパイに迷惑をかけられただなんて、思っていませんよ」
「いや、いまだってそうだろ。ホントはショッピングモールから帰って、お父さんのご飯の用意をしなきゃいけないのに、俺のせいで怒られて、情けない先輩を膝枕までして、慰めてくれてるんだぜ……こんなの……迷惑以外になんだって言うんだよ……俺は嫌いだ。俺が嫌いだ。だからヒーローなんかじゃない。それはのらが勝手に抱いてる幻想なんだよ……」
「……ホント、情けないですね」
「……」
のらは俺を蔑むような目で見ていた。のらにまで見捨てられたのだろう。だけどのらに伝えられてよかったと思う。俺はヒーローなんかでは決してないし、ただの情けない奴だと気づいてもらえたから。のらが本当に俺のことを迷惑じゃないと思っていたとしても、俺はそう感じてしまうから。だったら、俺なんかさっさと見切りをつけたほうが、それはのらのためだ。こんな人間に時間を使うのは、大切な存在の後輩にとって無駄な時間が増えるだけだから。これでよかったんだ。俺は自分に言い聞かせた。
「センパイはホント情けなくて、うじうじして、自己嫌悪ばかりして、後輩のわたしを頼ろうともせずに、一人で抱え込もうとして。挙句わたしが好意でやってることを迷惑だったろうと、勝手に思い込んでて。……ホント呆れます」
「……そうだよな」
これでよかったんだ。のらの本心を聞けて、俺の胸にそんな感想が浮かんだ。それは俺なんかがヒーローじゃないと気づいてもらえてよかったんだという安堵だった。しかし同時にのらに見放されて寂しい気持ちにもなった。だから俺はその気持を打ち消したくて、何回も心の中で自分を慰めるように、これでよかったんだと呟いた。もうこの場から、いやこの世界から消えてなくなりたかった。こんな情けない自分なんか、世の中に存在してはいけないと思った。だけどのらは、まだ言い足りないようで言葉を紡ぐ。もうこの際、自分への不満をすべてぶつけてもらいたい気分だった。そしてのらの言葉を聞くと、身体が砂のように消えていくはずだと、俺は期待した。
「……本当にセンパイには呆れます」
のらはもう一度繰り返した。
「呆れるけど、センパイがわたしのヒーローであることは、それでも変わらないです。呆れるようなところも含めて、わたしは右京先輩のことが好きだから」
心臓を鷲づかみにされたような感覚に襲われた。息ができなくなった。脳が痺れた。のらの言葉は瞬時に理解することはできなかった。だがなぜか彼女の言葉から、十六年生きてきて初めて経験するような身体の内側から電流をながされたような痺れを感じさせられた。
「センパイが自分のことが嫌いでも、わたしは、そんな自分のことが嫌いなセンパイも好きだ! 情けないところも、うじうじしているところも、自己嫌悪ばかりしているところも! 全部、全部好きだ! センパイが嫌いなセンパイのこともひっくるめて、すべて、わたしは好きだ!」
「……のら」
「もしも、これから先、センパイが自分に嫌いなところが新しく出てきたとしても、わたしがそれをぜんぶ好きになってやる! センパイがどれだけ情けない姿を見せても、わたしはその姿をすべて愛おしく想ってやる! だから! センパイ! そんなこと気にしないで! どんなに自分のことを嫌いになっても、わたしがそばにいるから! わたしが包み込むから!」
もう俺はなにも考えることができなくなっていた。ただ熱に冒されたような瞳で、俺をじっと見つめるのらの顔が近くにあった。まるでこの世界に彼女だけしか存在しないかのように、俺の視界にはのらだけしか映っていなかった。
「センパイのすべてが愛おしいんです。もうセンパイのことしか頭にないんです。わたしは、右京先輩のすべてが好きなんです……好きです……好き……右京――」
のらの唇が、俺の唇と重なった。彼女の想いが唇に集まっているかのように、熱く狂おしく慈愛に満ちたキスだった。意識が遠のいていくような、麻酔のようなキスだった。
俺は薄れていく意識の中で、素直に彼女のキスを受け入れるだけでなく、激しく彼女の唇を求めている自分がいることに気づいた。
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