43話 ヒュドラーのスープの季節

 あっという間に初夏がやってきた。

 

 カトリーヌは、自分から未来を見に行くことはしないよう、気を付けてすごしていた。

 それでも、意思の力で制御しきれずに、見えてしまうものはあった。

 

「いよいよヒュドラーの血が採れる季節になりましたね〜! 今日の夜ごはんは、今年初のヒュドラーのスープですよ! 一年間待ちかねましたね!」

 

 夫婦の食堂に入るやいなや、カトリーヌは浮かれた歓喜の声を上げる。

 足取りも軽く席につく。レモンイエローのサマードレスが、彼女の雰囲気をますます浮かれたものにしていた。

 首元には、ドレスに比して地味な緑の鉱石のペンダントが揺れている。

 

 カトリーヌの浮かれた様子を、先に席についていたフェリクスが、半目になってじとっと眺めている。

 

「なんですか~? 言いたいことがありそうですね~?」

 

 席につきながらカトリーヌがいたずらっぽく笑うと、フェリクスも口の端を軽く持ち上げる。

 

「よくも毎日飽きもせずに、夕食のメニュー予想が出来るものだと思ってな。お陰で毎晩、君が沢山食べるところを見られて愉快ではあったが」

 

「もうすぐスープの季節だな~ってうきうきしてると、勝手に見えちゃうんだから、仕方ないじゃないですか」

 

「いささか、力を使いすぎだと思うが」

 

「他のものは出来るだけ見ないようにしてるじゃないですか。あらゆるものに意識を向けないようにして、出来るだけ鈍くいようとしてるんですよ? 大変なんですからね」

 

「分かった分かった。ほらそれより、来たぞ。王城風スープが」

 

 自走式ワゴンに乗った鍋から、チェリーが皿にスープを盛り付けている。

 それを見て、カトリーヌは思わず歓声を上げた。

 そわそわと体を動かすカトリーヌに、王子は苦笑して見せた。

 

「興奮してこぼすんじゃないぞ」

 

「もちろんです! これはフェリクス様がプレゼントしてくださった生地で作ったドレスですもの」

 

 微笑みながらドレスの胸に手を当てる彼女の姿に、王子が頬をほころばせた。

 

「うむ。よく似合っている。太陽のように眩しい。僕は太陽に近づきすぎて目を焼かれたようだ。君の他は何も目に入らない」

 

「や、止めてくださいよ! それ、わざとやってますよね?」

 

 最近の王子は、甘い言葉でカトリーヌを困らせるのが楽しいらしい。

 

「わざと? なんのことだ? 僕はいつでも本気だ。うん、今日の君の装いもは『王城風』で素敵だぞ」

 

 王子がはいたずらっぽく笑う。そこに、派手な音を立ててチェリーがスープ皿を置いた。

 

 ガシャン!

 

「『朝採れヒュドラーの生き血スープ・王城風』! いっちょお待ちだよー!」

 

 スープ皿には赤黒い液体が満たされており、野性味あふれる香りがする。

 本能を刺激する香りに、嗅ぐだけでカトリーヌの頭がびりびり痺れ、お腹がきゅるきゅると自己主張を始めた。

 

「全てのお料理が並ぶまでの間の、焦れる感じがたまらないですね。飲む前からもう私とスープの蜜月は始まっているんですよ!」

 

「ふむ、君は料理を前にすると詩人になるな。スープとの蜜月もそれも良いが、僕との甘い時間も終わりにしないでくれると嬉しい」

 

 心なしかむっすりとした様子で王子が軽口で返すと、カトリーヌはくすくすと笑った。

 

「フェリクス様ったら、スープに嫉妬ですか?」

 

「多少はな。なにしろこのスープは君から名前をたまわるという栄に浴したわけだから」

 

「ふふ、バザールは楽しかったですね」

 

「大変だったがな」

 

 そう呟いて王子はスープを口に運ぶ。それを見て、カトリーヌもスプーンを手に取って、宝物のように大事にすくって口に入れた。久しぶりのスープの味に恍惚としながら、カトリーヌは目を閉じた。

 瞼の裏には、バザールの色とりどりのテントや敷布が躍る。

 

(うん。バザールでは、エリンとゼウトスの人たちの笑顔がたくさん見られてよかった。先見さきみについての話は……まだ聞けていないけれど)

 

 水害の一件以来、王子はずっとどこか悩んでいるように見える。

 一方で、軽口や冗談も増えた。そうやって悩みを誤魔化しているように、カトリーヌには思える。

 

 だからカトリーヌも、未来を選んで覗きに行くのは控えていた。これまで通り、あくまで向こうからやってくる未来だけ見るようにしている。

 今のところは、それでいい。力について不安はあるけれど、王子を問い詰めることはしたくない。力について知るまでは、不用意に使わない方がいいのだ。

 うんうん、と一人うなずきながらスープをすくって口に運ぶ。

 

「はあ……おいひい」

 

「君は本当に幸せそうに食べるね」

 

 頬に手を当てて呟くカトリーヌを見て、王子はしみじみと言った。

 

「一日一杯までってフェリクス様が言うから、一口一口しっっっかり味わってるんですう」

 

 カトリーヌが頬を膨らませる。

 

「君は血に酔いやすいからな。まあ、陽気になりすぎた君も可愛らしかったが」

 

「もう、その話は忘れてください!」

 

 カトリーヌはますますふてくされた表情を作って見せるが、スープを食べる手は止まらない。

 あっという間に皿は空になり、カトリーヌは「はふう」とため息をもらした。

 

 何も起こらないなら、いっそ先見の力のことは忘れてしまってもいいのかもしれない。

 そう思いながら――。

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