37話 赤ちゃん蜘蛛救出作戦・3
全員が振り向いた先、大広間の入り口には大きな蜘蛛女のモンスター、アラーニェが居た。頭と胴は女のそれだが、胴から生えているのは八本の蜘蛛の脚だ。
顔立ちは整っているものの、いまや怒りで人相が変わっている。目は血走り、真っ赤な白目がその場の全員を睨みつけていた。
「ガギィィィィーーーー!!! ピィーーーーーギャ!!」
アラーニェの口から、鳴き声と共に糸が紡ぎだされる。
白く透ける糸は四方に広がり、天井に、壁に、床にとくっついて、あっという間にカトリーヌたちを閉じ込めるような陣を作り出す。
糸自体が意思を持っているかのように、自在に糸を操っている。
「キィン!」
将軍の腕に抱かれた赤ん坊が共鳴するように鳴いて、アラーニェの血走った目が赤ん坊に注がれた。
「おぉ、まずいぞぉ! アラーニェが怒っておる!」
「『あんたたちっ、あたしの坊やになにしてんのよっ』みたいな感じすね」
「なんでそんなに呑気なんですかっ。アマデウス将軍、サージウスさん、赤ん坊を私に!」
誤解を解いて、赤ん坊をアラーニェに返さなくては。カトリーヌは将軍の腕の中の赤ん坊を受け取ると、急ぎ足でアラーニェの元へと向かおうとした。
「カトリーヌ! 危ない! ……ぐぅ……っ」
王子が、カトリーヌの前に出て、アラーニェに背を向ける形でカトリーヌと赤ん坊を抱きしめる。その声は、苦しげなうめき声に変わった。
「フェリクス様? なにが……」
驚いて顔を出そうとしたカトリーヌだが、抱え込むようにして頭を押さえつけられた。
「動くな。アラーニェの攻撃用の糸だ。普段城に張っているものとは違い、切れ味がさらに鋭い。そして、攻撃用に吐かれた糸は、仲間も敵も関係なく傷つける」
「あれ? 理性を失ってやがりますね、ヤバイな」
王子の言葉に続いて、サージウスの声が聞こえる。今度は、いつもの飄々とした雰囲気がない。
かすかに血の臭いがする。頭を押さえつけられた体勢のまま床を見れば、そこには王子から垂れた血が落ちていた。
目だけで周囲を探る。いつの間にか、すっかりアラーニェの糸が作る結界の中にいた。
王子が止めてくれなかったら、今頃細切れになっていたかもしれない。そして、自分を止めるために王子は怪我を負った。
恐ろしさと申し訳無さ。カトリーヌは冷たい汗を流しながら、全身を震えさせる。その間にも、アラーニェ親子は甲高い鳴き声で互いを呼び合っていた。
――怖い。
――怖い。
――でも。
「アラーニェ! 聞いて! 私たち、赤ちゃんを助けていただけなの!」
「ギィィーーー!!!」
「怒らないで、今出した糸を解いて。この子まで傷ついてしまうから!」
「ギャギィーーーーーーー!!!!」
(だめだわ。とても通じる気がしない)
困り果てたそのとき、カトリーヌの腕のなかの赤ん坊が、「キィ!」と短く鳴いて腕から飛び出した。
八本脚の赤ん坊が跳ねて、母親のもとに向かおうとする。
「キュキィ。キュゥ」
甘えた声を出して――。
「ギィーィ! ギュイ! ガギ!」
アラーニェも赤ん坊を呼んで――。
「だめ! 行ったらだめ!」
八本の脚でぴょんぴょんよちよちと進む赤ん坊の前に、光るものがある。糸だ。
そのときのカトリーヌに、恐れはなかった。考えるよりも先に体が動いていた。
何のためらいもなく飛び出すカトリーヌの腕を、フェリクス王子は掴み切れなかった。
赤ん坊に手を伸ばす。カトリーヌの袖が裂けた。
頬に熱い痛みが走る。
ふわふわとゆれるハニーブロンドの髪が、糸に切られて舞い落ちる。
赤ん坊の顔が、今まさに糸に触れようとした瞬間、アラーニェの悲痛な鳴き声が聞こえた。
(間に合って……っ!)
カトリーヌがさらに手を伸ばすと、腕の皮膚が切れた。鋭い痛みが襲ってくるが、構わず赤ん坊を抱きしめる。
赤ん坊は、糸に触れずに済んだ。
ずたずたに破れた袖、血の滲む腕、ほつれた髪。それだけの犠牲で赤ん坊が助かったのなら、良かった。そうカトリーヌは安堵した。
「ギ、キィ……?」
戸惑うようなアラーニェの声。
ふと、周りの空気が変わるのを感じた。
まさに張り詰めた糸のようだった空気が、ふわりとほどけるような感覚を、肌に覚える。
薄目をあけてみると、アラーニェが眉を下げて傷だらけのカトリーヌを見つめていた。冷静さを取り戻したのか、目の色も元に戻っている。
「キィ、キュゥイ!」
「ギィー! ギャッ! ギャッ!」
赤ん坊が甘える声を出し、アラーニェが優しく鳴き声を返す。
アラーニェの表情は母性にあふれていて、天使のように美しい。先程までの鬼の形相が嘘のようだった。
アラーニェは自身が吐き出した糸を吸い込んでいく。シュルシュルと巻き取られて美女の唇に戻っていく糸は、不思議に官能を感じさせる光景だ。
危険な糸が無くなったことを確認したカトリーヌは、赤ん坊を放してあげた。
母のもとに一直線に飛んでいく赤ん坊蜘蛛は、元気いっぱいだ。母蜘蛛の腹に乗って甘える姿を見て、人心地を取り戻した。
(おそろしい光景が、本当のものにならなくて良かった)
思い出すだけで心が痛む、悲しみのイメージ。しかし。その不幸は避けられた。
そのとき、大広間に濃厚な花の香りが広がった。
「なんという騒ぎなの? あらやだ! 怪我をしているじゃないカトリーヌ!」
そう言いながら大広間に入ってきたのは、カーラ王妃だ。
「ああ! アラーニェの坊やが見つかったのね! それで、いったい何があったの?」
「それについては、僕から説明します」
フェリクス王子がカーラ王妃の前に歩み出た。彼の服にも血が滲んでいる。カーラ王妃の下半身からのびる蔓たちがざわついたが、王妃は表面上冷静を保っていた。
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