34話 口づけと力の解放

『な、俺っちの言った通りだろ。しかし今日のうちに夜の約束を取り付けるなんて、やるじゃねーか』

 

 部屋に戻り、身支度を整え、そわそわと歩き回るカトリーヌの前に紙が突き付けられた。羽根ペンが誇らしげに羽根をふくらませていた。

 

「そんな羽根ペンさんのお手柄みたいに……ってそうだ! なんで最初の夜の王子の言葉を教えてくれなかったんですか! 頑張って『ですわ』言葉で話してることに、気づかれてるぞって!」

 

『その方がドラマチックだろ? あと見ていて面白かったし』

 

「……さては面白がってたのが本音ですね」

 

 恨みがましく羽根ペンを睨んでも、ペンは飄々ひょうひょうとしたものだ。軽く軸をしならせる様子が、まるで肩をすくめるように見える。

 カトリーヌは無言で羽根ペンをつかんで、ペン立てに戻した。

 

 と、そのとき、扉をノックする音がした。

 すぐさま扉に駆け寄って、誰かも問わずに扉を引いた。

 そこには、わずかに瞼を持ち上げて驚いた顔をした王子が立っている。

 

「すぐに開けるのは不用心だと思うが、待ち望んでいてくれたと自惚れていいのか?」

 

 淡々と告げる彼の手の中には、赤と白のマーブル模様をした薔薇があった。美しいけれど、見たことのない薔薇だ。

 

「そ、そうですね、ずっとフェリクス様の事を考えてお待ちしていたので、つい」

 

「む……」

 

 言葉に詰まった王子と、しばし入口のところで見つめ合う。嫁いだ初日には、王子は部屋に入らないまま行ってしまった。あの日から、ずっと不安だった。王子の気持ちが分からなくて。

 でも、今は違う。

 

「あの、中でお花を頂きますので。お花を飾る場所を一緒に考えてくれませんか?」

 

「ああ、そうさせてもらう」

 

「どうぞどうぞ! ふふ、素敵なお花ですね。窓辺のチェストの上がいいかしら。それともローテーブルかなあ。どう思います?」

 

 王子の方を振り向こうとしたカトリーヌの靴のつま先が、絨毯に引っかかった。

 

「あっ」

 

「むっ」

 

 後ろに倒れそうになったカトリーヌに、王子の腕が回される。薔薇は床に散らばり、二人は抱き合う形になった。あの、嫁いだ日の夜のように。

 

「ありがとうございます、たすかり、ました」

 

 アメジストの瞳に至近距離から見つめられて、カトリーヌは視線を離せない。固まる彼女の耳元で、王子が低い声で囁く。

 

「僕の気持ちは、もう伝わっているだろうか?」

 

「はひっ、はい!」

 

「君の気持ちについては、僕の勘違いではないだろうか?」

 

「そう、おもい、ます」

 

 カトリーヌが答えると、王子の顔がさらに近づいた。

 いつもは静かな美しさを放っている王子の瞳が、炎のように揺らめいている。

 

「……ん、では、また後で。このままだと君に口づけてしまいそうだ。女性に対してここで焦るのはよろしくない、と書いてあった」

 

「何にですか?」

 

「父上が持っていた恋愛指南書だ」

 

 そう言って、王子は腕を緩めようとする。もう少し、もう少しだけ腕の中に居たい。そうカトリーヌの心が叫ぶ。

 気づけば手が伸びていて、自分から王子の背に両手を回していた。落とした視線の先に、床に落ちたマダラ模様の薔薇がある。

 

「お花、落ちてしまいましたね。幸い踏んではいませんけど」

 

「ああ、……これから、踏まないようにしないといけないな」

 

「え?」

 

 顔を上げたカトリーヌの目の前に、王子の細い顎がある。唇が、近づいて――。

 吐息が唇に忍び寄る。柔らかく触れ、そして離れた。

 

「ん、フェリクス様……今は……」

 

 反射的に離れようとするところを、強く抱きすくめられる。

 

「動かないで。薔薇を踏んでしまう」

 

「そう、ですね。踏んでしまってはいけないですよね……」

 

 自分の声が、今までに聞いたことが無いほど甘い。

 

「愛している、カトリーヌ」

「私も……です」

 

 もう一度唇が近づこうとした。その時。

 

 強烈な『ぽわん』がやってきた。今まで『ぽわん』と比べ物にならないほどの。

 

『ぽぽぽ、ぽわん。ぽわわん!』

 

 連続して、胸の中で何かが開いていく。全身に痛いほどの痺れが走る。

 

「うっ!」

「どうした⁉ カトリーヌ⁉」

 

 王子の声が籠って聞こえる。胸の内側が炎であぶられたように熱い。

 沸騰する鍋の底から浮かび上がる水泡のように、ぽわんぽわんが浮かび上がり、弾ける。息が苦しい。

 胸の内側は沸騰を続け、とうとう、ぽわんの弾けるのが終わった。とカトリーヌがホッとした瞬間。

 

『ぱりん!』

 

 胸を閉じていた何かが割れた。急に呼吸が楽になるのを感じる。体中に力が巡っていく。まるで暴風のように。どこかから沢山のものがやってくる。体を突き抜けていく。

 

 そして、彼女は『見た』のだ。あるイメージが、彼女に入り込んできた。

 

「どうした? カトリーヌ、顔が青い」

 

 フェリクス王子の声で、彼女はハッと我に返った。

 

「い、いえ、何でもありません。ドキドキし過ぎたみたいです」

 

「それならば良いが。……すまない、少し僕も、我を忘れそうになっていた。強く抱きしめすぎた。苦しかっただろう」

 

「そんな事無いです! 嬉しくて、安心できて、温かくて、とても幸せでした! 大体私の方から引き留めてキスを……じゃない! 何でもありません! と、とにかく、お花! お花を拾わないと!」

 

 先ほどまでの自分を思い出して、慌てて王子の腕から抜け出す。カトリーヌが薔薇を拾い始めると、王子も一緒になって拾ってくれた。

 

「あの、珍しい薔薇ですね。私、初めて見ました!」

 

「これは、マダラ薔薇という。あまり嗅ぎすぎない方がいい。愛に酔うかもしれない」

 

「愛に、酔う?」

 

「……これは恋人同士が、愛を語らう時に贈り合う花だ。昔は媚薬に使われていたそうだ」

 

「び、びやく」

 

「今は、花を贈り合うという形式だけが残っている。成分を精製しなければ効果は無いはずだが、ヒト族の耐性は分からないから」

 

「は、はい」

 

 ヒュドラーの血のスープを飲みすぎて、やたらと上機嫌になってしまったことを思い出して赤面する。そんなカトリーヌを、王子がじっと見つめていることに気が付いた。

 

「別の花にすれば良かったな。父上から借りた恋愛指南書では、絶対にマダラ薔薇を贈れとあったが、あれは少し古い本だからな」

 

 王子がカトリーヌの手から花を受け取ろうとするので、慌てて自分に引き寄せる。

 

「いえ、これは思い出し赤面でして……ええと、とにかく酔ったのではありません。せっかく頂いた花なので、こちらを飾らせていただきます。さ、さっきのキスも、酔ったのではなくて私の気持ち、です!」

 

 恥ずかしさのあまり花を抱きしめてしどろもどろになっていると、王子は「フッ」と笑いを漏らした。

 

「ありがとう、僕もだ。……うむ。ひとまず僕はここで退室することにしよう。これ以上君と居たら、止まらなくなってしまうだろうから」

 

 そう言って自分が拾った分の薔薇をカトリーヌに渡すと、王子は早足に部屋から去っていった。

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