29話 約束されました

 そのとき、背後から咳払いがした。フェリクス王子のものだ。

 

「カトリーヌ嬢、元々は僕への相談だったはずだな。僕にも顔を向けて、話を聞かせてもらえないだろうか」

 

 拗ねたような声に振り向くと、王子が腕組みをしてカトリーヌを見据えていた。

 

「あ、し、失礼しました。どうでしょう、二つ目の相談は、難しいものですか?」

 

「糸の避け方なのだが、みな避けているのではなく、触れても問題が無いようにアラーニェの糸で傷つかないようになっているだけだ。あの蜘蛛にとって城は巣だ。自分の巣に入れる仲間だと判断すると、特別なフェロモンを纏わされる。すると、傷つかなくなる」

 

「そういうことなのですね。アラーニェさんに仲間と思ってもらうには、どうしたら良いのでしょう? お会いしたり出来ますか?」

 

「彼女は恥ずかしがり屋で警戒心も強い。なかなか姿を見せないだろうな。そうだ、あれは母君の言う事なら聞く。母君に命じてもらうようにしよう」

 

「カーラ様に仕えているということでしょうか?」

 

 カトリーヌがたずねると、フェリクス王子は首を横に振った。

 

「従者では無い。契約をしているわけでもない。ただ懐いてる。友人というのが一番近いだろうな」

 

「ご友人、ですか」

 

 エリン王城では、使用人たちはカトリーヌと親しくすることを禁じられていた。

 出入りの商人たちも同様に、カトリーヌに話しかけただけで、その後の取引を断られてしまう。

 こっそりと優しくしてくれる人は居たけれど、友達といえるほど堂々と付き合える相手は居なかった。

 

(お友達と言うと、中庭に入ってきた猫とか、あとは物置部屋に住みついた小さな蜘蛛くらいだったなあ)

 

 じめじめとした半地下の部屋をあてがわれたカトリーヌの前にあらわれた小さな蜘蛛は、ぴょんぴょんと跳ねるだけで巣を張らない種類だ。

 そっと外に逃がしても戻ってくるので、いつしか同居人の室に住んでいるような感覚になっていた。

 

 どうしても寂しい夜には話しかけもした。

 あの蜘蛛と意思を通じ合えるようになったとして、そして、カトリーヌの頼みを聞くくらいに懐いてくれたとして、蜘蛛が警戒している誰かを部屋で好きに過ごさせろなんて命令できるだろうか?

 

 その後に蜘蛛が相手を心から信頼することなどあるだろうか?

 

「……カーラ王妃にお話しを通して頂かなくても大丈夫です。私、アラーニェさんが私を認めてくれるように頑張ります。そうでないとアラーニェさんは、きっと安心できないでしょうから」

 

「いいのか?」

 

「ええ。それと、チェリーのお仕事の手伝いもバッチリこなしてみせますよ!」

 

 にっこりと笑ってそう言うと、王子も頷きで返してくれた。

 

「分かった。また何かあれば、いつでも相談してほしい。雨季が近いので地すべりの危険がある場所を調査していたのだが、今日には整理が終わりそうだ。だから、時間は問わない。貴女が許してくれるなら、……」

 

「雨季があるんですか? そういえばゼウトスに来るときに、山を越えたあたりから、随分と気候が変わったとは思っておりました。地すべりするほどの雨って想像もつきません」

 

「うん、それはそうなのだが」

 

 王子が微妙に眉尻を下げたので、よほど地すべりが心配なのだな、とカトリーヌは理解した。忙しいところに長居をしては迷惑だろう。

 

「それでは、失礼させて頂きます。お仕事中にお邪魔いたしました。ありがとうございました、ですわ」

 

 王子とミノス王に会釈をして、退室する。執務室の外では、サージウスが退屈そうに待っていた。

 

 退室の挨拶をした際になぜかミノス王が頭を抱えていた理由にも、王子の微妙な表情のわけにも、カトリーヌが気づいたのは部屋を出てしばらく歩いてからだった。

 

「よ、よ、夜。夜って言った……⁉ フェリクス様が!」

 

「へ? どうしましたカトリーヌ様」

 

「ななな、何でもないわ! ですわ!」

 

 外回廊で立ち止まり、顔を赤くしたり青くしたりしながら独り言で嘆く。

 サージウスは、そんなカトリーヌを不思議そうに見つめるのみだった。

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